第六章第一節<Lost memory>

 ラーシェンは意識を無理やりに現実に引き戻されるように目覚めた。


 目を開けると、顔を嫌な汗が濡らしていることに気づく。袖で拭おうと身動ぎをすると、背中もぬめる汗でべっとりとしていた。


 あの夢のせいだ。ラーシェンは立ち上がると、洗面台の蛇口をひねり、温い水で顔を洗う。ここは発電機にしろ、濾過器にしろ、ある程度の資源は自由に使える。これが辺境の村であれば、水は飲むものであり、こうして顔を拭うことになど使えない。


 顔をタオルで拭き、鏡に映った自分の顔を見ていると、ラーシェンは陰気な気分になった。


 俺は、この数年間、何をしてきた。いや、俺は何をしたくて、旅を続けているのだ。そんな問いをこれまで幾度となくぶつけてきたが、俺はそのたびに、自分で自分を誤魔化していた。


 あてのない旅。聞こえはいいが、その実はその日を生きることだけを考えている浮浪者と変わりはない。今日が終わり、明日に何を求めるか。



 常に両手を空にしたまま、俺は何を願って明日を迎えようというのだ。



 時計を見ると、まだ深夜の一時を少し回ったところだった。ということは、まだろくに眠ってもいなかったということか。洗面台の照明を消し、部屋に戻るラーシェンは、ふと外がやけに騒がしいことに気がついた。


 意識は冴えている。あの夢のせいと、不自然な時間に目を覚ましたせいだ。今のままでは、たとえベッドに潜り込んだとしても、眠るには骨が折れるだろう。またぞろ何処かで騒ぎがあったのか、とラーシェンは窓を開き、往来を見下ろした。


 通りは、予想以上の人間でごったがえしていた。人々はまるで誘い出されたかのように往来に押しかけ、また窓という窓が開き、皆一様に見物にしけこんでいる。いくらここが昼夜を問わず活気があるとはいえ、この様子は尋常ではなかった。ラーシェンはやや突き出した窓辺にもたれるようにして腰を下ろし、人々が興奮している原因を何の気なしに探すことにした。


 通りを流れている、下水と酒と汗の匂いの混じった空気の流れを浴びながら、ラーシェンは通りをずっと先まで見やる。


 何かが、こっちに向かってきている。それを発見したラーシェンは、騒ぎの元凶が自分の下を通過するまで見届けてやろうと心に決めた。野次馬たちが口々に何かをはやし立てたり、囁きあったり、言い合ったりしているものの、ここに届くまでにはそれらは交じり合い、ただの意味を成さない喧騒になってしまっている。


 いい暇つぶしだ。こきりと首を鳴らし、ラーシェンが再び往来の先へと目をやったときであった。


 人の壁の間に、ラーシェンは見覚えのある服装を見た。


 いや、見間違いかもしれない。


 頭の中でそう否定する声を無視し、ラーシェンはもっとよく確認しようと手摺から身を乗り出す。目を凝らす先で、それは再びラーシェンの目の前に現れた。


 黒と紺の軍服。


 <Taureau d'orトロウ・ドール>の制服だ。


 何故。


 どうして、ここに、軍隊がいるというのだ。


 どくん、と心臓が不整脈を奏でる。ぐっと手摺を握る指に力が入る。


 次第に軍服を着た者たちが近づいてくる。どうやら、誰かを護送しているようであった。何処かの犯罪者だろうが、車も使わずに、これだけの野次馬の中を連れ歩くとは、趣味が悪い。


 そんな軍の悪態をつきながら、ラーシェンはなおも目を凝らした。


 制服に囲まれている人間はどうやら女のようだった。美しい金色の巻き毛を揺らしながら、やや俯きがちになって歩いている。両手を前に突き出すようにした姿勢のまま。驚くべきは、その女もまた、<Taureau d'or>の軍服姿であるということだ。


 なるほど、これでは興味を引かれるのも当然であった。


 何が起きたのか分からないまま、ラーシェンはその護送とは名ばかりの公衆の面前に行われた屈辱を味あわされている女性の姿が、よりはっきりと映る。両手を前に突き出すようにして手首を戒められている。


 それ自体は、犯罪者と同じ扱いだ。奇妙なのは、女性の背中に奇怪な形状をした物体が取り付けられていることであった。


 否、それは知らぬ者が見れば、それは蟲の形状をした妖魔かと見紛うこともあろうというほどに、奇怪であった。鋭く尖った鉤爪が、女性の肩から二つ、腕を左右から、そして脇をさらに左右から締め付けている。茶色く不気味な爪は女性の動きを封じ、そして頭の上に伸び上がった節くれだった首の頂上には、蟲の顔のような紋様が取り付けられている。


 罪人護送用の、束縛咒具であった。


 こうして罪人が大人しくしている以上は、それはただの物質と変わりはない。だが、ひとたび罪人が逃亡や抵抗その他、不穏な動きをした場合は、それはたちまち擬似生命体となって罪人を拘束、捕食する。

 捕食といっても致命傷になるような行為ではなく、腕や足などの一部を破壊し、行動不能にさせることが目的であった。故に、その咒具をつけられること自体が、刑の一部であることを意味しているのであり、逆に咒具をつけられたということは、無罪放免になる可能性は限りなくゼロであるということであった。


 高度な錬金術によって生み出された、その咒具を課せられた軍人とは。ラーシェンがさらによく見ようと、身を乗り出させたときであった。通りを歩いていたその女性が、ついと顔を上げた。



 視線が、交錯する。



 ほんの一秒にも満たぬ間に、ラーシェンの脳裏にいくつもの光景が浮かび、閃き、そして消える。

 ラーシェン自身もまた、記憶に留められるほどの間隙で。


 ただ一つ、脳裏に浮かんだ映像。


 頭上には満天の星空。そして傍らにある石造りの噴水。


 その下で、微笑んだ横顔。


 何かを囁くように、唇が開き、そして。


「……セシリア……?」


 ラーシェンの唇の間から、女性の名が漏れた。


 はっと身を固くする女性。その周囲で、女性の異変に気づいた兵士が頭上を振り仰ぎ、ラーシェンを発見した。


「貴様、何者だッ」


「……ちっ」


 小さく舌打ちすると、ラーシェンは室内に身を翻す。それを逃亡の意思ありと受け取ったのか、兵士たちは即座に反応した。


 反射的に銃を構え、兵士は目配せを交わす。


「お待ちなさい、あなたたちでは勝てない!」


 セシリアの制止を無視し、兵士らは宿へと突入した。

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