間章Ⅲ<使役魔族>

 その夜、呪務管理局長オーウェンは一人、書斎にいた。


 机の上にあるランプの光を頼りに、彼が向かう机の上には、美しい筆記書体で綴られた書きかけの手紙があった。その最上段には、受取人の名が大きくしたためられている。


 セルレイネー・レイ・アルザード。


 まだ三十にも満たぬ若い年齢ではあったが、魔術的才覚だけは親をも抜きん出るだけの力を持った魔術師であった。


 現在、大陸においてはワルキュリエ共和国、フェリシア・ビセット伯爵が統治する領内において、魔術技術局長を務めている。知る者は少なかったが、セルレイネーは両親から類稀な才能を受け継ぎ、そして本来であれば相反するその二つの技能をしっかりと維持し続けていた。


 同僚ですら彼女の過去をよく知らぬのも道理で、セルレイネーは自分のことについて、とやかく口を割ることを好まなかった。いや、若い身でありながら局長の地位に就いていること自体、セルレイネーの本意とするところではなかったのだ。彼女がただ一人、心を開いているのは、ワルキュリエ共和国国王、ロベルティーナ・フォン・アルフェリアその人のみであった。


 無論、オーウェンがセルレイネーのそうした過去と心境を知ることは出来ない。


 手紙を書いているというのは、他ならぬあの、<緋なる湖畔エスフォート・ライネ>についてのことであった。報告の通り、当該地域の周辺には広範囲ではないにせよ、近寄る人間に対してだけ力を発揮する、忘却を促す結界が張られていた。


 厄介なのは、結界の力が及ぼす領域であった。人が人として生きる上での必要最低限の記憶は、意識せずとも我々は自在に使いこなしている。そして、その上で後天的な学習によって、人は様々な知識、技能、能力を使役することが出来るのであったのだが。


 後天的な記憶のみならず、およそ生命維持に必要な呼吸、食事などに関する先天的記憶の領域にすら浸食してくる結界は事実上、致死の威力を持つものであった。


 今のところは、信頼できる魔術師を派遣しての実地調査を行ってはいるが、それによってもたらされる情報に打開策を求めようとは、オーウェン自身考えてもいなかった。


 つまり、彼は古文書にその情報入手経路を求めたのだ。


 現在のワルキュリエ共和国は、旧オールマイア、そしてさらには旧ハルクーストと歴代の国家が幾度となく変更してきた古い国の一つであった。国の性格上、旧国の二つは軍事力に重きを置いていたものの、その歴史を考えるならば古文書が保管されている確率は高い。


 現在のところ、国立図書館のある都フィリアゲートにも閲覧許可を求める手紙を書いてはいるものの、その返事はまだ来ていない。


 悠長にその返事を待っている時間は、今の彼にはなかったのだ。


 典型的な結びの句によって手紙をしたため終わったオーウェンは、それをくるくると巻くと、燭台を取り上げ、赤い蝋燭を傾けると継ぎ目に幾滴か、熱い蝋を垂らす。それが完全に固まりきらぬうちに、引き出しの中にあった封紋をぐっと押し当てると、蝋の表面には呪務管理局の紋章が浮き彫りにされた。


 オーウェンはそれをテーブルの上に放り、そして椅子の背もたれに身を預けて息をついたときであった。


 視界の傍らに、何か動くものがあった。はっと身を固め、そしてオーウェンは部屋の中に魔力の流れを察知した。通常感じているものではない。姿勢を崩さず、呼吸を乱すことなく、オーウェンはゆっくりと眼球だけをその方向に向けた。自分に悟られずに部屋に何かが侵入してきたのは確実だ。またそれだけの手練れであれば、自分の動きによる僅かな呼ばれる気の乱れをも感じ取るであろう。


 そして、オーウェンは見た。机の縁を掴んでいる、無骨な、節くれだった指を。


 皮膚は灰色をしており、また人のそれと形状をそのままにしているものであったが、極めて小さい。まるで錬金生命体ホムンクルスのそれを彷彿とさせるその指に力が込められ、そして本体が姿を現した。


 気の弱い者ならば見ただけで嫌悪感を露にしつつ混乱を来たすか、卒倒するであろう、その姿。首というものが存在せず、頭部と思しき部分には不釣合いなほどに巨大な眼球と、顎があった。中央に一際巨大な眼球があり、それがせわしなく動き回っている。すぐ横には皮膚に裂け目があり、その内側にも眼球が見られたが、そちらは白濁してしまっており、恐らく視覚を持たぬ、退化した器官となっているのだろう。そして異形の眼球の下には、分厚い唇と、歯並びの乱れ切った口腔があった。


 醜悪な外見をしていたが、息を呑みつつもオーウェンは即座に手を伸ばしてその異形を掴み取っていた。相手に隙を与えようとしたならば、見るからにこの世の生き物とは思えぬそれは、容易に退去してしまったことだろう。


 だがそれは金切り声を上げつつ、オーウェンの皮膚を両手の指で力なくべちゃべちゃと叩くだけしかできなかった。触れられた部分にはぞっとするような湿り気が残り、それだけで吐き気を催したが、オーウェンは指の力をいささかも緩めぬ。


「誰の命で、私を監視するか」


 その問いは、答えを期待したものではなかった。この生き物は、そもそも人語を解せるだけの知能はないのだ。


 オーウェンは机の横にあったレターナイフを手に取ると、一辺の容赦もなく、その異形に切っ先を突き立てた。異形は苦悶しつつも、一滴の血をも流すことなく、串刺しにされたままの格好で身をよじり、次第に縮み、消えていく。


 そしてあとには、魔術の触媒に使われたと思しき一枚の紙片が残った。


 何の変哲もない紙片であったが、その裏を見たオーウェンは愕然となった。






 茨の玉座に座る貴婦人。


 その紋章は、ヴァライア諸侯国連合から脱退した中では最も国力が豊かであるといわれた、ニルヴァールヘイム公国のものであった。

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