第三章第四節<Von-Yor-Zu>
どこをどう走ったのか、アウレティカには皆目検討がつかなかった。
そもそも、買出しに来ているというだけの街であり、さらに言うならば追っ手をまくという目的からジュライに言われるままに走っていたということによって、アウレティカは完全に自分の位置感覚を見失っていた。
どこを、どれだけ走ればいいのかさえ分からない状況では、おのずと疲労も強くなる。体力配分が出来ないため、足を止めたとき、アウレティカはまともに立っていられる状態ではなかった。
力が抜ける、程度の感覚ではない。筋肉が、足が、完全に言うことを聞かないのだ。何かに捕まっていなければ、半ば麻痺してしまった筋肉は自分の体重すら支えることが出来ず、ふらふらと酔っ払いのような足取りでしか動くことができない。
いくら荒い息をついても、胸が苦しい。口の中がからからに乾き、ねばつく唾を飲み込もうとすると、喉の奥で血の味がした。そんな様子のアウレティカを視界の隅に見ると、ジュライは物陰から今しがた走ってきたばかりの路地をちらりと見る。
息を潜め、周囲の物音を探る。
ややあって、ジュライは全身に宿っていた緊張を解いた。
追手は来ていないようだ。
アウレティカは、それでもなんとか起き上がると、肩を上下させながらもジュライに視線を向けた。
「今は休んでろ」
アウレティカを心配させまいとして笑顔を浮かべるジュライであったが、そうでなくともアウレティカの頭は混乱していた。
どうしてまた、あのような者たちに襲われる羽目になったのだろう。そもそも、何が原因なのかすら分からないこの状況で、大人しく座っていることの方が難しかっただろう。いくら躰が激しく疲弊しているとはいえ、渦を巻く疑問の数々はアウレティカをそのままにしてはおかなかった。
「さっきの奴らは、一体何なんですか」
ジュライもまた、その質問を十分に予想していたようであった。
「狙われているなら、お前を巻き込んだと思うか?」
問い返され、アウレティカは口を噤んだ。アウレティカと共に来たジュライもまた、この街には昨日、来たばかりであるのだ。何かに巻き込まれたとするならば、二人は同時に凶刃の標的となったのだ。
「ただ、昨日の酒場で、胡散臭い奴らがいたことは事実だ」
ジュライは、昨晩の店で怪しいテーブルがあったということを説明した。髭を生やした男たちが数名、顔をつき合わせて何かを喋っていたというのだ。その中の一人と目が合った瞬間、彼等の一人がテーブルから皮袋を落としたというのだ。
それを拾い上げようとしたジュライの手首を、男の一人がものすごい形相で掴んできた。まるで万力で締め上げられでもしたかのような力で、男はジュライを突き飛ばすように追いやったという。
ジュライが袖をまくると、その事実を物語るかのように、右の手首にうっすらとした痣があった。
「たぶん、何か秘密の取り引きでもしてたんだろうな……で、俺に見られたと思い込んで、狙わせたってところかな」
たったそれだけで、何も命まで奪うことはないだろう。納得のいかない点はあったが、アウレティカとしては、今後のことが気がかりだった。
「じゃあ、これからはどうするんですか」
「一先ずは、すぐに街を出たほうがいいだろうな。そのあとは、正直言って俺にもどうすればいいのか、分からん」
腕を組み、うっすらと夜闇が薄れてきた空を見上げたときであった。
「下手したら、街道脇の森の中で狼の餌食になるわよ」
女の声に、ジュライは何の躊躇いもなく剱を抜いた。鍛え上げられ、そして曇りの無い刀身が鋼鉄を鳴らして鈍く輝いたとき、二人の前に先刻、往来で出会った女性が姿を現していた。
「あなたは、酒場の……!」
「そう」
女性はアウレティカに微笑んで見せると、自分に向けられた切っ先に視線を落とし、憮然とした顔で呟いた。
「それよりもこれ、下ろしてくれない?」
「あんな時間に、何してる? 俺たちを助けた理由はなんだ?」
「私には私の事情があるの……助けた理由が欲しかったら、酒場でのエールのお礼ってことにしといてね」
間近で見る限り、女性は間違いなく東洋の血族であった。しかし、流暢な公用語を話すあたりからすると、こちらで長く生活をしているようだ。
ジュライはなおも女性をまじまじと見ていたが、やがて剱を鞘に戻した。
「まあ、命の恩人には変わりないからな……礼を言うぜ、俺はジュライ」
「アウレティカです」
差し出されたジュライの手を、女性は微笑みながら握り返した。
「ご丁寧にどうも。私は
「あの」
アウレティカは、握手を交わす二人の間に、声で割り込んだ。
結女と名乗った彼女もまた、アウレティカにとっては不可解な一人であった。何故なら、あのとき自分たちと遭遇しているということは、まず間違いなく追手にも姿を見られているということになる。
見たところ、武芸をやっているわけでもなさそうな結女が、どうしてあのような剣呑な者たちの短剱から身を守れたというのだろうか。
「ご無事だったんですか……奴らに見つかれば、無傷では……」
アウレティカの質問に、結女は含み笑いを漏らすと、袖の中から何かを取り出して見せた。
白く薄い紙片に、黒いインクで何かが綴られている。見たこともないそれは、文字のようでもあり、また図式のようでもあった。曲線と直線が多用されたその紋様は、アウレティカにはさっぱりではあったが、それを隣から覗き込んでいたジュライは驚きの声を漏らした。
「……あんた、ヴォン・ヨー・ズの使い手か!?」
「ええ、そうよ」
ヴォン・ヨー・ズとは、東洋に興った極めて特異な魔術流派の一つであった。
五つの属性と独自の占術、そして天文術に端を発するこの流派は、長い年月をかけて徐々に精錬され、現在では呪符と呼ばれる紙片に魔力や神名を表す紋様を綴ることで、様々な術式を使役できる流儀を完成させていた。
しかし、そこにおいて一応の完結を見ていたヴォン・ヨー・ズに新風を吹き込んだのは、
西方にて冒険者として名を馳せていた星は、東方に戻ってよりこれまでのヴォン・ヨー・ズに久しく忘れられていた数々の手法を取り入れ、再統合を図った。現在は、星は長男である天城あまぎ信濃しのと共に流派復興に全力を注いでいることは、東方の呪術師であれば知らぬ者などないまでになっていた。
本来であれば、天城の姓を耳にしただけで知る者は反応を見せるところであったが、アウレティカやジュライがその名を知ることはなかった。
「呪術でとりあえずは逃げることはできたようなものの……あいつら、さすがね」
今の言葉に釈然としない二人に、結女は自嘲気味に笑って見せた。
「武器を禁じた筈なのに、式神全部が叩き斬られたわ」
結女は苦笑を漏らしながら、縦一文字に切り裂かれた呪符を二人に見せる。符に込められた魔力の臨界点だったのか、二人の見ている前で、みるみる紙は朽ち、程なく四散した。
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