第三章第三節<Assassins>
最初、アウレティカが見たものは、のそりと動く影よりも濃い闇であった。しかし意識を集中してみれば、それが黒い装束を纏った人であることが知れた。
皮膚を少しも露出しない服に、おおかた手袋をはめているのだろう。
必要最低限だけ開いた扉の隙間から、黒衣の人間が二人、室内に侵入していた。
アウレティカは息すら殺したまま、すぐ向かいのベッドにいるはずのジュライを見ようとして躰の向きを変えようとしたが、そのときに何処かの関節がぱきりと鳴った。
いつもなら、意にも介さない程度の音であったが、殊更このような状況では大きな音に感じられる。
身を硬くしたときには既に遅く、侵入してきた者は自分のベッドに視線を向けている。
アウレティカは半ばシーツに埋もれさせながら、頭脳を出来る限り回転させ、そして一つの解決策を見出した。まるで自分の存在を見せ付けるかのように、大胆にもジュライの方向に寝返りを打ち、そしてずっと息を殺していたために苦しくなりかけていた胸の中の空気を思う存分吐き出したのだ。
一瞬、部屋の中の空気に緊張が走ったが、すぐにそれが和らいでいくのをアウレティカは敏感に感じ取っていた。
こちらは侵入者には気づかず、のうのうと寝ているという演技をしたのであった。安心しきっているのだから、警戒したまま寝息すら立てないのでは、逆におかしいではないか。
しかしこれによって、アウレティカはジュライがまだ微動だにせず、眠っていることを知ることになってしまう。こちらに背を向けたまま、安らかな寝息を立てているその姿は、特にこのような状況ではお世辞にも頼りになる背中とは言いがたい。荒事にはとんと無縁な生活を送ってきたアウレティカには、こうした者たちと格闘するだけの体術も、武器の扱い方も、何一つ習ってこなかったのだ。
となれば、選択肢は二つに一つ。このまま殺されるか、でなければ隙を突いて逃げるかだ。
だが自分はそれでいいとして、ジュライはどうなる。
こうしてレヴィエラに到着し、宿を取っているところを襲ってくるとすれば、相手が狙っているのは間違いなくジュライであろう。
いや、そうでなくてはおかしいのだ。つい今朝方まで、名も知らぬような辺鄙な村で暮らしていたアウレティカには、命を狙われるだけのことを仕出かした覚えすらないのだから。
自分のベッドのすぐ脇を侵入者が通り過ぎようとしたとき、アウレティカは間近にその者が右手に握る輝きを目の当たりにした。
肘までの長さを持つ、短剱であった。分かりきっていたことではあったが、武器を見た瞬間、自分たちは殺されるのだという実感に躰を打ち据えられたような気がした。
どうすればいいのだ。
一介の村の少年に、武器を持った人間二人を前にして、狭い宿の中から安全に逃亡するだけの技術など、あるほうがどうかしている。
手傷を出来るだけ少なくして、かつ自分と眠っている仲間の身の安全を確保し、速やかにこの場から逃げおおせること。しかしそれがどれだけの困難を伴うものであるか。
だがアウレティカの怯えなど素知らぬ顔で、二人はずいとジュライのベッドを見下ろしている。
思ったとおり、こちらに顔を向けている者はいない。
隙を突いて、大声を出して驚かせつつ、ジュライを起こすのが最善の策か。成功するか否かを考えれば効果的というには程遠かったが、そんなことを考えている時間は無い。
意を決し、アウレティカが息を吸い込んだときであった。
同時に侵入者も短剱を逆手に持ち変え、切っ先をジュライの躰に向け、今まさに突き立てようとした。
次の瞬間、アウレティカすら驚くほどの素早さで、ジュライが動いた。
自分に刃を向けている一人の躰に体当たりを仕掛けたのだった。正確には、わざとシーツに包まったままの格好で、一人の視界を塞ぐようにして抱きつくような格好になっていた。
悲鳴が上がる。女の悲鳴だ。
ジュライとて侵入者には気づいていたのだった。
短剱は武器としての間合いが狭い。ならば一人の懐に隙を突いて入ってしまえば、二人から同時に狙われることはなくなる。
抱きつかれ、無人となったマットに、もう一人の短剱が虚しく突き刺さる。ジュライはそのままシーツで女の視界を奪い、短剱を握り締めたままの手首をがっしりと掴み、女の動きを封じていた。
「起きろ!!」
格闘しながらジュライが大声を叩きつける。
だが幸いにも、アウレティカもまた、寝起きの弛緩した神経の持ち主ではなかったのだ。がばりと起き上がり、ジュライの戦法を真似して自分のシーツを引きちぎるようにして取り上げると、もう一人の人間の顔面に後ろからシーツを覆いかぶせた。
だがこちらはアウレティカの体格では抑え込むことまでは不可能であった。
予想していなかった方向からの奇襲に驚きつつも、マットから引き抜いた短剱を素早く持ち返ると、それで後ろを横薙ぎに切りつけた。
シーツに大きな裂け目が生まれると同時に、アウレティカもまた後ろに転ぶようにして逃げていた。
咄嗟のアウレティカの参戦は、ジュライが戦うための時間を稼いでいた。
その間にジュライは女の手から短剱を奪い、腹部を殴って昏倒させていたのだ。力が抜けたのを確かめると、ジュライは奪った短剱でシーツに覆われたままの侵入者の腕を掴み、関節が曲がる方向とは逆に捻り上げていた。
男のうめき声が上がり、関節が破壊される手ごたえが伝わってくる。
そのまま腹に蹴りを入れ、部屋の隅にまで吹き飛ばすと、ジュライはアウレティカが既に起きていたことに驚き、そして満足そうに微笑んだ。
「逃げるぞ」
「あ、う、うん」
アウレティカの返答は、しかし扉が荒々しく破られる音に半ばかき消されるようになってしまった。
既に身を隠す必要は無く、部屋に新手がさらに二人、到着してきたのだ。
ジュライは小さく舌打ちをすると、自分の剱と二人分の外套を掴み取り、何のためらいもなく窓を破った。アウレティカはジュライの意図を正確に理解し、慣れぬ動きではあったが出来うる限りの敏捷さで窓枠にしがみつき、身を乗り出し、そしてすぐ下の屋根へと降り立つ。
その間、鞘に収めたままの剱でジュライは襲い掛かってくる一人を殴り飛ばし、こちらはひらりと身軽に窓の外に身を投じる。
「こっちだ」
ジュライはいささか乱暴ではあったがアウレティカの腕を掴み、ぐいと引いて駆け出していく。そのまま追っ手をまくかと思われたそのとき、ジュライの足は唐突に止まった。
眼下の往来の上に、こちらをじっと見つめている、視線の主がいたためであった。
その姿には、見覚えがあった。ジュライも、そしてアウレティカも。
黒髪を頭の後ろで結い上げ、絞ったその姿。黄土色の長衣に似た奇妙なあわせをした、ゆったりした衣服に包まれているその躰は、紛れも無く女のものであった。
切れ長の瞳の東洋人。意志の強さを感じさせる、薄い唇。白い外套を羽織ってはいたが、この早朝にもならぬ時刻だというのに、表情には眠りの残滓すら感じさせない。
酒場で、ジュライとぶつかった、あの女性であった。
奴らの一味だったか、と奥歯を軋らせたジュライであったが、二人の不安に反し、その女性は視線をそのままにして、右肩を退くようにさせた。
つまりそれは、道を譲るということ。女の正体はいまだに分からないが、この場で戦うことにはならないと判断したジュライは、屋根から往来に飛び降りる。
「恩に着るぜ」
アウレティカもまた無事に飛び降りることが出来たことを確かめると、今度こそ全速力で、二人は街はずれに向かって、消えていった。
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