第一章第四節<Jury, the swordman>
村はずれから救助した男は、アウレティカの寝起きしている部屋に一時預かることとなった。
アウレティカは現在、酒場の二階にある小さな個室に住み込みで働いており、夜は無論給仕を、そして昼間は酒場の雑務や買出しなどを任されていた。
その日は珍しく遠出をする仕事は無く、薪割りに一段落がついたアウレティカは汗を拭いながら酒場の裏口から、二階へと続く階段を上っていた。
男の外傷は、驚くほどに少なかった。無数の擦過傷はあれど、これといった傷をいえば、左腕に走る裂傷と右足の打撲による痣のみ。無論、それだけの傷からあれほどまでに出血するとは思えず、恐らくは誰かと戦ったことによる返り血を浴びていたのだろう、とアウレティカは納得していた。
いずれにせよ、男の命の灯火に異状が無いことには、大きな安堵を抱いていた。
首から提げた布で顔を濡らす汗を拭いながら、アウレティカは廊下を歩いて部屋の前まで来る。いつもの習慣のように、ノブを握って回そうとしたが、すぐに思いとどまり、控えめに二度、扉を叩く。
今は、この部屋を使っているのは自分だけではないのだ。もし、男の意識が戻っていたとして、いきなり扉を開けば、要らぬ警戒心を刺激してしまうことにもなりかねない。そうでなくとも、見知らぬ場所に寝かされていれば、それだけで男は緊張しているであろう。
しかしノックには返答が無く、アウレティカは半ば失望したような顔で扉を開く。
その途端、アウレティカの鼻腔に届いたのは、淀む男の汗の臭いのする部屋の空気ではなく、新鮮な外気と心地よい冷気であった。見れば、あの男は自分の寝台の上に躰を起こしており、すぐ近くにある窓を開けて外の風景に目をやっているではないか。
「もう起きても大丈夫なんですか?」
アウレティカの声に、男は振り向いた。その表情には、予想していたような警戒も緊張もなかった。
「君は……?」
問われ、アウレティカはまだ男と言葉を交わしていないことに気づく。
「あ、僕はアウレティカと言います。この下の酒場の雑用をしてるんだけど……」
「俺はジュライ」
逆にたどたどしく喋りだすアウレティカに、男は無事なほうの右腕を伸ばしてくる。
アウレティカは顔を輝かせ、その手をしっかりと握り返す。
「よろしく、ジュライさん」
握手を交わしながら、アウレティカは改めてジュライと名乗った男をしっかりと観察した。
髪は額にかかる程度で、特に長いという印象は受けない。全身を覆っているのはしなやかな筋肉のうねりであり、この男が剱の使い手としてはそれなりの腕を持っていることは、素人目のアウレティカにも分かった。
青く澄んだ目は、何度かしか見たことが無い、北の海原を思わせる。
ジュライはぐるりと部屋を見回すと、寝台の足元のほうに一振りの剱が立てかけてあることに目を留める。
「俺の剱も持ってきてくれたんだな……助けてくれたのは君か」
「あ、いえ、その、見つけたのは他の人で……僕は、部屋だけを」
言葉すくなに狼狽しつつも説明するアウレティカ。だがジュライは、その言葉の中からアウレティカの好意によってここにいることが出来たことを悟る。
「じゃあ、どっちにしろ、アウレティカには礼を言わなきゃいけないってことだな?」
僕も同じように、そうやって助けてもらってこの村にいるんです、だから礼なんて。
その言葉が喉まで出かかったアウレティカは、何故かそれを無理やりに飲み込んだ。理由は無いが、それを口に出すことは何故か出来なかったのだ。
「でも、無事でよかったです」
アウレティカは手を離すと、見慣れているはずの窓の外の風景に目をやった。
見えるのは、ちょうど谷間になっている山の裾野。緑に覆い尽くされた稜線の上は、まるで絵の具が掠れ始めた筆を無理に走らせたような、頼りない雲がいくつか、筋になっているだけであった。
恐らく、小一時間ほどで消えてなくなってしまうであろう、そうした薄い雲。ふと、アウレティカはそんな雲のすぐ近くまで近寄ることが出来たら、それはどんな気分だろうかと考えた。恐らく鳥にでもならなければ、体験できないであろうその想像は、しかしアウレティカに一つの結論を導いた。
鳥はたぶん、そこに雲があることにすら気づかないだろう。微かに視界が白く煙るだけで、しかもそれはほんの一瞬なのだから。飛び過ごして、そしてしばらく過ぎ去った後に、もし振り返ることがあるとすれば、気づくのはその時であろう。
「ところで、ジュライさんは、なんだってこんな場所に来てたんですか?」
「さんは要らない、呼び捨てでいい」
照れ隠しなのか、ジュライは手をひらひらと振って見せると、顎で足元にある剱を指し示した。それはどこの鍛冶屋でも売っているような、何の変哲もない鉄剱であった。
「ちょっと山越えをしようとしてたんだが、迷っちまったんだよ…旅しながら食い繋いでる奴としちゃ、恥ずかしいことなんだがよ」
頭を掻いてみせながら、ジュライは苦笑を浮かべた。
「もうちょい行ったトコに、確かそれなりにデカイ町があったよな?」
「レヴィエラですね」
その町なら、アウレティカもよく買出しに出かける町だ。海辺と内陸とを繋ぐ交通要所にある中継地点として、この界隈では一番の賑わいを見せる町だ。
「そうそう、そこに向かおうとしてたんだがね、途中で道に迷って、しまいにゃ狼どもに狙われてよ」
肩を竦めて見せ、ジュライは唇をめくり上げて唸る真似事をして見せた。
「戦ってたんだけどよ、腹も減ってたし、力も出ねえし、狼どもを三匹ぶっ殺したあたりでもう限界になっちまってなぁ」
ベッドに座ったまま、ジュライは顔をしかめながら天井を仰いだ。
「死ぬしかねえかって腹括った瞬間、気絶しちまったってわけよ。ほんと、お前のお陰で助かった」
気を失ったところを狙われたら、死んだことにも気付かなかったかもな。そう肩を竦めて語るジュライの言葉は、アウレティカに信憑性を与えることとなった。
というのも、ジュライが運び込まれた翌日、村の家畜が数匹、姿を消していることが分かったのだ。
この周辺に好き好んで家畜泥棒をするためだけに忍び込む輩がいることは考えられぬ。しかしジュライが狼に襲われているのだとしたら、その家畜を襲ったのも、恐らくは同じ群れによるものであろう。
繰り返されるようなら何かの手段を講じなければならないし、ジュライの手にかかった仲間から危険を察知して近寄らないでいてくれるなら、それに越したことも無い。
どちらにせよ、近隣に狼が出たという話は長に伝えておいたほうがいいだろう。
「じゃあ、ちょっと失礼するかな」
ジュライは寝台の毛布をめくると、下着のまま起き上がり、枕もとに畳んである服に袖を通す。それから服と一緒に置かれていた、小さな皮袋を手に取ると、アウレティカに向き直る。
「下で働いてんだろ?何か作ってもらえるか?」
そういえば、ジュライは空腹だったという話をアウレティカは思い出す。頷くアウレティカに、ジュライは皮袋を小さく揺すってみせた。
「まあ、助けてもらった挙句にタダ食いするわけにもいかねえしな」
案内を頼む、というジュライの足取りは、アウレティカの予想以上にしっかりとしていた。
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