間章Ⅰ<執行人>
不吉な紫の光が、空間に満ちていた。四方は闇に消え、そこがどこであるのかは一切わからぬまま。
しかしその中で、唯一その闇を切り裂き、払い、直立している異形があった。
鎖を纏わせた、巨大な十字架である。
それはまるで四本の剱を中央部分で繋げているような印象を抱かせる、不気味な気配を宿していた。材質はなんであるのか、表面は光りつつもぬらりとした光沢を持っている。十字架が光っているのか、それともすぐ直下の地面が淡く輝いているのか。どちらにせよ、十字架は闇の中に不気味に浮かび上がって見えた。
その十字架に磔にされている者がいた。
四肢は太い釘で打ち付けられているのではなく、なんと十字架そのものに飲み込まれてでもいるかのように、途中から埋没してしまっている。手首を逸らし、そして両足は揃えるように脛の辺りから、十字架の内部へと消えている。力無く首を垂れており、時折吹きすさぶ生臭い風が長衣をはためかせている。そして両手足には重々しい鎖が幾重にも巻きつけられ、あたかも罪業そのものを象徴するかのように、全身を戒めていた。
その光景を、真下から眺めている青年。
白いスーツの上からベージュの外套を纏い、ポケットに両手を入れたまま、頭上にて動かぬその者を加虐的な眼差しで見つめていた。シャツとタイを一部の緩みもなく身につけた青年は、唇を吊り上げ、満足そうな笑みを浮かべると、十字架の裏に生まれた気配に呼びかける。
「いい出来だ、ヒュー・サマセット」
十字架の裏から、目深にフードを被った人影が現れた。
無論顔は見えず、また革靴の爪先が僅かに覗いているだけで、その他はぼろぼろの長衣に覆われて見ることはできない。右手は身の丈ほどもある鎌を携えており、ヒューと呼ばれたその男は鎌の柄を自分の肩に担ぐように当てていた。
まるで、影から現れた死神のようなその姿は、恐らく気の弱い者などでは卒倒しかねぬほどであった。
フードから零れる黒い髪の房を揺らしながら、ヒューは一礼した。
「さすがの一霊性双生児も……写本を奪われては形無し、か」
見上げていた青年の躰が、そのままの姿勢で、ふわりと浮き上がった。
見る間に高度を上げ、ついには磔にされた者と頭の位置を同じくするほどまでになる。垂直方向へ、一メートル強動いたことになる。
「ヒューの能力はどうだ? さしものお前も、抵抗できなかったみたいじゃないか」
手を伸ばし、青年は顔面を掴むように顔を起こさせた。
「エフィリム・アルファロッド……極東の霊戦の哀れな敗残兵……」
詩を暗誦するように呟いた青年は、ふと視線を落とす。
そして襟元に指を掛けると、エフィリムの長衣の胸元を鳩尾の辺りまで引き裂いた。
だが、その下から現れたのは、平たく、薄く筋肉が張っただけの胸。
成る程。青年は頷き、そして再び顔を見合わせる。肉体と精神の治癒のため、肉体機構がより単純な男性へと変化したか。
となれば、今の名はエフィリムではなく、エルクス。青年は、エルクスの前で手を広げ、上へと向ける。
その上に力が収斂し、結び、一冊の革装丁の本が生まれた。
途端に、空間の中に濃い魔力が溢れ、満ちる。姿を現しただけで、凄まじい濃度の霊気を生み出すその本は、紛れも無く<妖園世界>の写本。
その気配を至近距離で浴びたせいか、エルクスの顔が苦悶に歪む。今や、エルクスとエフィリムの二人分の損傷を抱えるその躰は、限界を超えているといっても良かった。
それでもなお、命と精神が繋がっているということは、生への執着がそれだけ強いということだ。
「貴様には、俺の下で働いてもらう。だかその前に、貴様の魂を修復しないとな」
青年は写本を開くと、やおらページを一枚、破り取った。それをさらに二つに折ると、紙片でエルクスの胸に触れる。
すると驚くべきことに、紙片はずるりとエルクスの体内に飲み込まれていくではないか。
「……、っぐ……ゥ……!!」
唐突に激烈な魔力の源を埋め込まれ、エルクスの躰が痙攣する。
「その様ではどうせ、ヒューによって命を落としていただろうからな……悪い取り引きではあるまい?」
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