手紙

 前略


 流麗に生きると言いながら死んでいった名も知らぬ彼女の記憶の一端を垣間見ようと、彼女からの手紙に書かれた場所を巡る事に決めたのは、若輩の頃に夢見た自分探しに似た感覚であったように思う。

 これを読む君にまず知っておいて欲しい事は、僕は生粋の独身で彼女は結婚していたという事実。そこからも分かると思うが、これは恋や愛などといった手近な情緒とは異なるもので、それは深奥しんおうと呼ぶに相応しかった。

 次に知っておいて欲しい事、僕が持つ金の一部の在処ありかだ。それはこの中。彼女の記憶の一端を垣間見る旅の記録と君との出会いを書いたこの手紙の中に残してある。最後まで読む必要はない。

 知っておいて欲しい事はその二点だけだ。きっと君も彼女の魅力を知る事になると思う。もしくは落胆するかもしれないが、それは彼女が悪いのではなく君が悪いのだ。死んだ人間を悪く言う君が。時間は止まってしまっているのだから。

 それでは始めよう。


 彼女の手紙を過去から遡った時、最初に現れた情景は港町。

 彼女の綴る港町はいつも快晴で、燦々と無邪気に散る光を乱反射させた波の一つ一つにすら優しい眼差しを向け、塩気を含んだ風でさえ彼女は愛おしさを感じて身に纏った。その港を往来する船を子細しさいに観察し変化を心配し、乗船している人たち一人一人に手を振り、また彼らも彼女に手を振り返す。港で釣りを嗜む人が釣り上げる魚を頂戴する野良猫と戯れ、天を衝く塔を気が済むまで何時いつまでも何時までも眺めた。彼女はその港の全てを愛し、また港の全てが彼女を愛していたのが、手紙に含まれる句読点くとうてん鉤括弧かぎかっこにまで浸透していた。それは文章の美しさや文字の美しさではなく、その手紙が構成する世界そのものの魅力であり、それは彼女の魅力そのものであった。手紙とは技術や構成力といったものに囚われない、魂を映す鏡であるのだと僕は彼女の手紙から知った。

 僕は幾つかの要素を手紙の節々から読み取り、彼女の言う港町が神戸で間違いないと確信めいたものを感じると、居ても立ってもいられなくなり駅へと向かった。

 確認した手紙は遣り取りの中でいうとまだ五分の一にも達していないが、僕には余りある時間と退職金があったので、根無し草の旅と言うのも悪くはないと思っての行動だったとだけ言っておこう。

 新幹線の窓側の席で揺れる景色を見るともなしに見ていて気付かなかったのだが、ふと見ると隣の席に一人の女性が座っていた。年の頃は二〇代半ば程で、香水かなにかの匂いを嫌味にならない程度で漂わせて僕を刺激した。独身一人暮らしの早期退職した男にとっては香水の匂いと言うのは縁遠く、それは忘れかけた色欲の姿をちらりと覗かせるに十分だった。彼女は言った。

「誰かに会いに行くのですか?」

「そう見えますか?」

「ええ、なんだか嬉しそうでいらっしゃるもの」

 彼女の尖った所を感じない声はつっと傍に寄り添うようであり、僕はすぐに気を許して饒舌を花開かせた。

「人に会いに行くのとは違い、面影、そう面影に会いに行こうとしているのです。私は恥ずかしながらこの歳で独身貴族を決め込む身でありまして、一人、ただ一人、親しい女性が居たんです。親しいといっても今の時分に手紙なんていうアナクロな方法では御座いますが、なんせコンピューターやスマートフォンと言ったものはてんで駄目でして、この歳にもなると新しいものに追い抜かれていく一方で、時代の波というのは、それはひどく荒々しいので、付いていくのも儘ならぬものであります。そんなもんで、そう、手紙です、手紙を何度もやったんです。お互いに、忙しく無い折に。しかしそれがはたと途切れて、どうやら彼女は病にせってしまったと一度手紙が来たきり、また、とんと返事がないなと思っていたら、家内は亡くなりましたとだけ、そう、ただそれだけの冷ややかな文面のみの手紙が、郵便受けで柏手を打つ僕の前に何の感慨もなく飛び込んだのです。私は表面上でこそいつも通りで御座いましたが、内ではさめざめとして、ただ冷たくなっていくのを感じておりました」

「話の腰を折ってしまって申し訳ないのですが、あなたはその方とお会いになった事が?」

 小首を傾げる彼女にこそ今日の晴天は相応しい。

「いえ、一度たりとも御座いませんでした」

「会いたいと思った事は? 一度も?」

「僕たちはあくまで、手紙という一つの世界を介在した上でしか成り立たなかった関係ですから、ええ、一度も。いや、会いたい気持ちが全く無かったかと言えば、それは嘘偽りでありますが」

 彼女の前で虚栄は無用。今はひとときの色欲に身を任せる。二〇代半ばの彼女は目にかかる髪を耳にかける。それこそ流麗というものであり、目を奪われた僕は、失礼と知りながら視線をつっと下へ逸らす。そこにある膨らみを思い浮かべる。

「その方を好きでいらしたの?」

 視線をさっと、動く彼女の唇に向ける。瑞々しく張りのあるそれに触れたくなる気持ちをぐっと押し込むが視線はそこに縛り付けられたままであった。

「分かりません。それを知る為の旅でもあるんです。ただ恋や愛やといった、そんな稚拙ちせつな情緒などでは無く、もっと神聖なものが彼女と僕の間には確かにあったのです」

「なんだか難しいわ。私みたいな凡才には、とっても」

 口に手を当て笑う彼女。その手の透き通る爪の下の桃色を淫らに見つめる僕はどうかしているのだろう。自分自身の歳の半分もない彼女は、僕のような老人がいまだ色欲に飢えているなどとは想像もしていないのだろうと思うと急に彼女への興味が薄れた。

 僕は何も言わぬまま、景色の揺れに再度身を任せた。


「もしコンピューターやスマートフォンをお使いになられるようになったら、私にもメールして下さいな」

 京都駅で彼女が席から立ち去ろうとする時、もはや会話も無い僕に彼女は丸っこい字で英字の羅列を書いた紙を僕の手に押し込んだ。

「僕は今までもこれからも、メールなんてものをする機会はありませんよ」

 彼女は前傾になり僕に少しだけ体を寄せ、ふわりと香水の匂いで僕を包むと僕だけに聞こえる小さな声で囁く。

「おじさんは、きっと、私に連絡を下さるわ。そうでしょう?」

 襟元の開いた服からは、少しだけ、膨らみが顔を覗かせた。しかしそれは淑やかなもので、色欲が僕に再び訪れる事はなかった。僕がそうしている内に返事も聞かず、新幹線を降りていってっしまった。彼女の匂いが残る紙を一枚僕の手の中に残して。


 新神戸しんこうべ駅に着いた時、僕の中には手紙の彼女と新幹線の彼女しか無かった。

 莫迦ばかだと思うかも知れないが、僕は駅を出るとまずタクシーを拾い、そのままスマートフォンを購入しに行った。契約プランがどうだのセットでの割引がどうだのと煙に巻くような説明をなんとか理解したつもりになり、手には使い方も分からぬ新しい手紙の形が一つ。僕は一旦それをポケットに入れると、少し若返ったような心持ちで、再びタクシーに乗り込んだ。

 港の方へ。

 それだけ運転手に告げると、彼は言った。

「お客さん、誰かに会いに行くんですか?」

「今日は人に会う予定はありませんよ」

「そうなんですか? なんだか嬉しそうな顔してらっしゃるから、てっきりお孫さんとかにでも会うんじゃないかと思ったんですけどね」

「今日はですね、人には会いませんが、面影に会いに行くんですよ」

「面影ですか?」

「そうです、面影です」

「なんだか自分には難しいですね」

 赤信号で止まると、運転手はバインダーに挟んだ紙になにやら記入して、そのまま僕に話しかける事をやめた。

 港までは思っていたよりも早く着いた。港町と言うのはどうして、こう、山と海が近い所が多いのだろうかと運転手に質問しようかと思ったが、もう料金も支払っていたので、無理にここで引き留めるのも悪いと思って聞くのをやめた。

 なんとなく、タクシーが去っていくのを見ていた。完全にその姿が見えなくなるまで見ていた。そして僕は港を一通り歩いた。そこは確かに美しく、それでいて愛おしい所であったが、何かが違った。天を衝く塔もあるし、釣り人もいる。野良猫もいるし、波には燦々と光が注ぎ、乱反射した光はただ美しい。しかし、何かが物足りなかった。

 彼女の面影は、いくら歩き回っても、そこには存在しなかった。僕は手近なベンチに腰掛け、彼女からの手紙を見返した。

 再び彼女の手紙の中へ、とぷんと体も心も沈下させていくと、新たな情景が瞬時に迫り来るのを感じて、そのあまりの突然さに手に持った手紙を落としてしまったのだが、紙が地面に落ちるしゃかりという音は聞こえず不審に思う間も無く、びゅわんと乱暴な風に手紙は中空へとすわっさすわっさ舞い上がった。

「あっ」

 惨めな声の届くより早くあらぬ方へ飛ぶ手紙。

 それをぼうと見つめる僕に先程迫った情景が明るくぱっと開いた。

 ベンチから立ち上がると肩掛け鞄の中に入れた少し黴臭い手紙を纏めて空へ投げる。それを待ち望んでいたかのように風が再びびゅうわんと先程より強く過ぎ去っていった。

 手紙は全てとはいかなかったが、その内の多くを神戸の空へなびきはためき彼女を神戸に蘇らせた。

 一度も会った事のない彼女ではあったが、情緒ある手紙を僕へ送り続けた彼女はやはり運命の相手だったのだろうと、空の手紙の一つ二つ三つ数多を見れば容易に理解出来た。それはやはり恋や愛ではないのだと、この時に分かったのだ。

 僕は最後の一つが見えなくなるまで、手紙を見届けてから、その場を後にして、中華街の方へと歩いていった。タクシーに乗るよりも、この情緒をじんと心に溶け込ませる時間が必要に思えたからだ。中華街は猥雑で騒々しく、僕の性には合わなかったので脇道に逸れてまた逸れその先に構える昔気質むかしかたぎな匂いのする一件の店へと入った。客は誰もいなかった。

「はい、まいど」

 新聞を畳みながら店主の男が言って厨房の方へと姿を消す。それと入れ替えに裏から女が注文を取りに来た。

「いらっしゃい。何にされます?」

「瓶ビールと……なにか適当にアテになるものを」

「はーい」

 女は奥へと戻ると王冠を外された瓶ビールとグラスを一つ持ってきて僕の前へ置いた。

「はい、どうぞ。お客さん、ここらへんの人とちゃうね」

 そういって女は僕の斜め前の席に座った。

 僕はビールをグラスに注ぎながら、

「そうですね、ちょっと旅行みたいなもんです」

 と曖昧に答えた。

「誰かに会いに来たんとちゃうの?」

 僕は傾けたグラスをまたテーブルの上に置いた。

「嬉しそうな顔してます?」

 この日三回目の質問に僕は解答を先回りしてやろうと答えたつもりだった。しかし女は予想外の事を口にした。

「いいや、なんか忘れてきたみたいな顔しとおよ」

 忘れてきた。

 僕は何を忘れてきたのだろう。

 山に。

 海に。

 空に。



 僕は彼女のいつかの手紙の中に書いてあった卵形のホテルに泊まった。

 時刻は深夜二時。眠気は無く、ただただ、スマートフォンと格闘していた。いまだ取り扱いが分からないでいたが、なんとかメールの作成画面にまでこぎ着けた。新幹線の彼女から貰った紙に書かれた英字の羅列を入力した所で誤って送信ボタンに触れてしまい、何の言葉も綴らぬままにそのメールは彼女に届けられた。メールというのは、手紙と違って送った実感というのが沸かないものだなと思ったが、さすがに何の文字も綴られていないメールなんて不気味だろうと新たにメール画面を開くが、電子音とともに受信メールという文字が画面上部に現れた。

 そこに触れる。

 白い画面には、「おじさん?」とたった四つの愛想もない文字と疑問符が浮かんでいた。

 メールを送った実感というのは感じなかったが、メールが届いた実感というのは確かにあった。僕の心に再び色欲が沸くのが分かった。

「おじさんというのはやめてほしい」

 僕は一〇分以上かけて、ひらがなだけの子供のような文を送る。彼女の返事は早かった。

「おじさまって呼ぶと、なんだかいやらしいでしょ? だから、おじさん。やっぱり連絡してくれたね」

 メールだと新幹線で会った時とは違い妙に馴れ馴れしい口調になる彼女を思い浮かべて、脳と体が刺激された。

「どうしてもきみにあいたくなって」

 僕はどうしてこんな事を綴ったのかは分からないが、きっと夜がそうさせたのだろう。窓の外で浮かんで沈む二つの月は、いつもより近くにいて僕と彼女のメールを盗み見ているそんな気がした。立ち上がりカーテンをしゃっと閉めた。

「明日は、お休み。会えるよ」

 僕は驚いた。これはなんだろう。僕は何をしているんだろう。

 メールを打つ手は溢れ出る色欲に支配されていた。

 

 酒の勢いとは恐ろしいなと思いながら、僕はこれを書いている。

 僕は名古屋に戻るが、君は僕の書いたこの手紙をきっと見付けてくれると信じている。この赤くそ聳り立つ塔の根本に、この手紙を置いていくのは決して逃げる為ではなくて、確認したい事があったからである。ただ君をここに一人ずっと置いていくのは忍びないので、少しばかりの金を隠した。なんとなく君は勘が良いような気がするので、すぐに気付いてしまうだろうなと僕は思っている。

 本当にすまない。

 これは言い訳だ。惨めな独身男の懺悔だ。

 最後まで読んでくれてありがとう。


 草々


 私はおじさんの手紙を読んで笑ったわ。

 手紙を読む限りでは、新幹線の中の私は清廉潔白な様子で描かれていて、でも節々から妖艶な色気を漂わせているように見えるけど、実際は最初からおじさんからお金を巻き上げようとしただけの私を、ある程度おじさんは見抜いていたんだと思う。そうじゃないとお金なんかわざわざ置いて帰ったりしないわ。

 ただただ、おじさんは、私を手紙のひとと重ねてみたかったんでしょう。もう会えぬ人を思うあまり、心が疲れてしまったんだと思うわ。

 お人好し。

 そんな言葉が服を着たような人だったなと今なら言えるもの。きっと良い女性は何人もいただろうと思う。でもそれをものにするだけの決断力というものがなかったんじゃないかしら。普段お酒を飲まないのに、無理をして飲んだのも、きっと旅先だから。それと私ーーというよりは、私を重ねる事で現れる手紙の女を抱く為の景気付け。かわいらしいわよね。

 おじさんはすんでのところで、手紙の女を抱かずに済んだ。それはきっと正解。だって、おじさんは手紙の女を抱いたら、死ぬまで後悔してしまう。なぜって? それはおじさんがお人好しだから。

 やっぱりここにあった。

 えーすごい。これ一〇〇万ぐらいあるんじゃない?

 でも、駄目。

 これはおじさんに返すから。

 えっ、なんでって?

 そんなのなんでだっていいじゃない。

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