恋慕の俤

 朝未あさまだき、庭先ていぜんの更に先よりの喧噪で覚醒しまなこ摩り々々、寝間着の儘に縁側へ往く。しかし其処にぽつねんと在るは大山椒魚のみ。ぴくりともせず不動窮まり、静淑せいしゅくさを醸す暗褐色あんかっしょくの其れはぬめり艶を示す。何故此処にと訝しむより、しんを感化する婉美えんびな姿態の紆曲うきょくに惚れ々々、広縁ひろえんより密かに見澄ます。

 暗褐色を乱雑に彩る赤墨色あかすみいろの斑点。幼子ほど在る体躯たいくは扁平。体躯に似合わず覚束おぼつか細小さいしょうな肢体。其れを一通り吟味し終えるや、愛おしさがぽこりぽこりと胸をき、こうしちゃおれんと書斎に酒を取りに急ぐ。しかし大山椒魚に悟られぬように忍び々々と軋む床音にすくみながらも、書斎に到達すればもう此方の物。引き戸をささと開け衣服の擾々じょうじょうたる奥に隠匿した一升瓶を取り、引き戸を閉める間も惜しくばっと飛び出す。

「おったおった」

 再び縁側へと向かう其の折、とどめるのは誰かと声のする方を見るや、三和土たたきに立つは隣家の娘。瀟洒しょうしゃであり見目麗しいおもむきかねてより抱く気持ちが崛起くっきするかと思われたが、大山椒魚を眼に入れし後に於いては、其れすら風前の灯火にひとしい。冷淡に、なんやと放る言葉に娘が辟易とするも知らぬ存ぜぬで、心にひしめく大山椒魚の婉美な姿態に思い馳せる。

「なんや山椒魚がおらんなったらしいんや」

「先刻起きたとこや、知らん」

 その儘、縁側へと戻りつつ門戸の閉まる音を後ろ手に聞いては、しめしめと瓶の儘で酒を一口あおる。開封した後、暫しの間が在った所為か、酸化した酒は不味い。如何せん大山椒魚を愛でるには、これでは物足りぬ。したらば煙草でも呑むかと再度書斎へ歩を進める。煙管キセルつくえの上でみだりにしてあった。其れを取り大山椒魚の元へ。相も変わらずぎぎと軋む床を忍び々々、縁側へようやく行き着くも門戸より、「もし」と呼ぶ声が在り忿懣ふんまんするも仕方なし、答辯とうべんせぬ儘に歩を戻す。三和土に立つは隣家の娘。

一寸ちょっと、庭を見せてはもらえんやろうか?」

「済まんけど、なんや具合が悪い。罹患りかんしとるかも知れんで、後日にしてくれんか」

 娘が訝しみつつ煙管を見るも、「御自愛為さって」と退去するのを見届け、幾度目かの大山椒魚待つ庭先見える縁側へ往く。

 ふと頭へ舞い落つ、葉のような愁事うれいごと

 よもや大山椒魚が庭より失せていたら。

 途端急く気持ちを跫音あしおとに出さぬとしつつも、知らず床はぎっしぎっしと強く鳴る。広縁に於いて庭先を見澄ます。萌黄色もえぎいろ青朽葉あおくちばの中、栗皮色くりかわいろ木枯茶こがれちゃの中など方々見やるも、其処に暗褐色の大山椒魚の姿無く歎息たんそくする。ざざずと濡縁ぬれえんの下より動く音に蘇るは光明。息を滅し待つ。這擦はいずり々々、先刻の歎息を絡め取るぬめったいぼを伴う暗褐色の皮膚は、紛れも無い大山椒魚。その姿に、ほうと情緒が溢れ落ちた。広縁へと一歩下がりてすわる。

 煙草を一掴み、指先で弄んでは火皿へ詰め燐寸マッチを擦る。あけは刹那、燐寸の先端より大層燃え上がるも直ぐに鎮静し、其れを見計らうと煙草へうつす。優しく燃ゆるは煙草と恋慕。ただ紫煙しえんくゆらし、散り々々移ろうおのの姿に近しい無形むぎょうの其れを庭へ送り出すは、過ぎ去りし過去の自然葬とする。

 大山椒魚は緩慢な動きをつっと止め、馥郁ふくいくたる紫煙を呑むに似た所作で横一文字の割目われめをぬろんと覗かすは淫靡いんび。其処にる無形の紫煙は口腔を隅へ々々恥辱ちじょくせしめるおもかげを根深く想起させるもので、暫しまじろぎを忘却へ沈溺ちんできしていたとたじろぐ。なにゆえ大山椒魚などと云うモノに此処まで蠱惑こわくさせられるのか、とおのの内に問掛といかけ々々するも、依的児エーテル瓦欺ガスのように浮游ふゆうする眼に見えぬとも在る其れを、見定めんとするに似たり。然すればそれは恋慕も同等ではと予てより抱く隣家の娘に邂逅かいこうした時を想う。


 広縁で微睡まどろみ々々、がさりと揺れる萌黄の先、ふわりと咲く花はつゆを散らす。


 只、其れだけの事、と。なまじ大山椒魚など見なければ、と。紫煙の先で弄ぶ大山椒魚の至福は尽きぬ。されどそれは今の事。確かに心に在った娘への情愛は何処へ雲散霧消うんさんむしょうしたのかはなはだ疑わしく、それもまた依的児や瓦斯と同様、眼に見えぬとも在るモノなのだろうか。仮に在ったとして、それは何故己の内より乖離かいりしては戻らぬのか。

 煙管を離すと逆に持ち、煙管と逆の手の指にこちりと羅宇らうを当て、くすぶる煙草をとす。吸口すいくちにぬめる体液。指でぬぐう。指の艶は大山椒魚の艶を思わす。明眸皓歯めいぼうこうし眉目秀麗びもくしゅうれいとも縁遠く、ただ淫靡な不徳の権化ごんげ

「鳴呼、大山椒魚」

 煙草も云い訳も弄び火皿へ纏め、擦った燐寸の緋を遷す。紫煙も離縁も現在いま過去まえ人形ひと異形いぎょうも、庭先には全てが在るが見えるのは一つ。

 庭先の訪問者は長閑のどかに在る。

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