GWのある朝(閲覧注意)
隣で横たわる誰かの汗やその他諸々の体液と舞い上がった埃、買ったばかりの芳香剤が放つラベンダー、昨日の夜捨てずにいたキッチンの生ゴミ、それらが混ざり合った強烈な匂いが、たった六畳のワンルームに蔓延している。昨日の夜のたった何十分、何時間の情事を愛と呼ぶとしたら、不潔で不衛生で教会で誓い合うようなものではなく、生理的な欲求を理性で抑えられなかっただけの、抑える必要のなかっただけの、酷く草臥れたものだ。
カンカンと煩く足音がする。アパートの錆びてむき出しになった鉄の階段を上る音。一番角、僕の今いる部屋の前で足跡は止まってぱさっと紙の落ちる音がする。ゆったりとベッドから体を起こせばシーツが纏わり付いてきて気持ちが悪い。玄関を見れば昨日履きっぱなしにしていたスニーカーの上に多分水道かガスかなにかの小さな薄青い請求書が見えた。ん、という小さな吐息にも似た声がして横を見る。何も身につけていない肩が布団の上から見えている。その横には充電器に挿しっぱなしの見慣れないiphoneと箱のティッシュ。ゴミ箱に入りきらなかったつまみの袋や缶ビールの空き缶。しわくちゃのワイシャツとズボン。哀れなショーツ、ブラジャー。全てがはっきりとした主張を持って僕の目に映るから、まともに目を合わせないようにぼんやりと焦点をずらしている。
例えばあれ程激しく愛し合おうと、裸で僕の前に立っていくら可愛く誘われようと、僕はこれを愛かと問われてそうだとは言えないだろうとおもう。具体化されない喪失を埋め合うだけにすぎず、一人で生きていけない弱さを武器にしている。そしてそれすらも言い訳にしかならないような、偉大な海外映画さながらの恋をした気になっている。囁かない愛は、僕らの清く美しい恥ずかしさの所為とも言えるからだ。けれどそれよりも手を繋ぐことすらなかった小学一年生の時の片山先生に対して抱いていたものの方が愛しく、陳腐で、儚く、淡い恋心だっただろう。小学五年生のとき、先生が結婚したと聞いて納得できずに、いくら訂正されようと僕だけが旧姓で呼び続けていたくらいに。(今思えばあれは相当失礼だった)
立ち上がって裸のままベランダに出る。そういえば僕の兄は何があっても裸で家の中をうろちょろすることはなかった。情事の後だろうと、きっと彼はきちんと服を着てから眠りにつくんだろう。そう考えながら床に落ちてしわくちゃのワイシャツを手にとって羽織った。なんとなくだけれど、ここにはもうこないだろう。充電器から見慣れた方のiphoneを引き抜く。ぷつん、と小さな音を鳴らして白いコードが床に落ちる。ズボンを履いて、玄関に放っておいた黒い鞄を手にする。革靴を履いて振り向くとベッドから身体を半分だけ起き上がらせてあられも恥もなく、裸の上半身を僕に見せながらぼんやりとこちらを眺めていた。これは愛じゃあないな。ともう一度おもう。きっと彼女も、気づかないふりをしているだけだろうか、わからないわけはない。女が男より鋭くない筈がないのだから。ガチャガチャ、と数度ドアノブを捻るとキィーと甲高く不快な音を鳴らして重たい扉が開く。「じゃあ。」と一声だけかけてもう振り返らずに僕はカンカン、と鉄の階段を降りた。
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