シャンプー

いち髪の、名前は知らないけれど、オレンジ色のシャンプー。

どんな匂いかは、もう忘れてしまったけれど、それは僕の中で雨と失恋の匂いだった。


学生の頃、帰り道にどしゃぶりの雨に出会って、家に帰るのも遠くて、学校から近かった兄の家に急遽、避難したことがあった。

タオルとジャージを渡されて風呂場に入ると置いてあったのがそのいち髪のオレンジ色のボトルだった。兄らしくない、女性もの甘い匂いがして、どうしたのかと兄にきくと、別れた恋人が置いて行ったものだと知った。少しだけ切なくなって、そのシャンプーは使わずにその横にあった、男物のリンスインシャンプーを使った。炭酸入りで、ひんやりした。兄はきっと、あの匂いが香るたびに別れた恋人を思い出すんだろう。


そのあと、学校に行くと、女の子の髪からその匂いがした。聞くといち髪のオレンジ色のボトルだという。昨日の雨を思い出して、そして兄の別れた恋人と重なって、きっと僕の中でもこの匂いは、もう雨と失恋の匂いなんだと思った。


今日、大阪を歩いていて不意にその匂いがした。きっと兄の恋人でもなく、その女の子でもなく別の誰かだろう。だけど、無性に切なくて、じめっとした湿気を感じて、雨と、失恋だと思った。


川端康成が、「別れる男には、花の名を一つは教えておきなさい」といった言葉はもうかなり有名になった。有川浩さんの植物図鑑にも出てきたからか。これは掌の小説の中の「化粧の天使達」の中の小題「花」の一文で、


ここへ来る汽車の窓に、曼珠沙華が一ぱい咲いていたわ。

あら曼珠沙華をごぞんじないの? あすこのあの花よ。

葉が枯れてから、花茎が生えるのよ。

別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。

花は毎年必ず咲きます。


となる。実際、僕も植物図鑑で知ったのでこれ以上深く語れないけれどこの言葉を知った時に香りもきっと一緒だよなあ、と思った。


花だけじゃない、花は毎年咲くんだろうけれど、匂いは街中で、職場で、ふとした瞬間に、予想もしていないタイミングで、その思い出と一緒に現れる。それがいいものだろうが悪いものだろうが、関係なく、感情を動かすには十分な力で僕を襲ってくる。


いち髪のオレンジ色のボトルは僕にとって、雨と失恋の匂いだ。それ以上にもならないし、以下にもならない。けれど兄にとっては暴力になり得るかも知れない。他の誰かにとっては幸福な記憶を蘇らせるかもしれない。


雨と失恋。


いち髪の、オレンジ色のボトル。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る