元町
元町にいた。兵庫の。仕事が終わってスーツのまま大阪駅を出たのが11時8分。普通の須摩行きに乗った。断っておくと特に須磨に行く用事もなかった。電車で揺られながら知らないところへ行くのは嫌いじゃないけれど、それならばむしろ名前も知らない顔も知らないようなタクシーの運転手に「いくらお金がかかってもいいから、あなたの一番好きな場所へ連れて行ってください」と言った方がロマンチックだし、冒険的だし、運命的だし、つまりこれは僕が人生で一度はやりたいことの1つだし。まだしたことはないけれど。
その日は本当になんとなくで、なんの理由もなしにゆっくりと須磨まで何十分とかけて行くつもりだった。出来るものなら須磨で普通西明石行き、その後は西明石で播州赤穂行き、今日中に西へ西へと行けるところまで行きたかった。けれど同時に現実的な時間の問題が僕を縛っていることは明らかになっていくばかりで、それが如何にも日頃から感じている社会という枠組みの背骨のように思えた。兵庫を電車で横断するつもりでいた僕でさえも、無意識のうちにか或いは好んでか、その背骨を支える小さな小さな骨になっていて、きっと折れたところで誰も気がつかない程度の骨だとしてもしがみついているしかない僕自身が、随分と情けなくてくだらなかった。
それがどうしてか、大阪を出た数分後には尼崎で乗り換えて、ただぼんやりと元町の東改札で立っていた。けれど僕には確かな確信が1つあって、遠くへ行くつもりだった筈が突然元町へ行く気になってしまったのは決して気紛れで唐突とした衝動ではなかったし、かといって明確な目的や意志を持つようなものでもなかった。それはある種、使命感にも似たもので、尼崎に入る手前で「次の尼崎は向かいのホームで新快速 姫路行きと接続しています。」と特徴的な平日昼の閑散とした車内で一際目立つイントネーションで車掌が言った時にはもう元町で降りる気になっていた。
元町へ行くのは人生で三度目だった。基本的には、観光以外で行かないところだろう、と言うのが今も昔も変わらない僕の元町のイメージだ。元町、と三宮は大して変わらない。観光地が神戸にかけて広がっている。実際のところ、元町で降りたとしても歩いていれば三宮に着く。JRの線路を分けて、港川と山側に分かれるこの辺りを僕は今まで山側ばかりを散歩していた。だからか、なんとなく今回は港だろうと、1月の冷たい風が吹く方へと歩きだした。駅を出ると直ぐに外国人旧居留地や神戸中華街が見えてきて、元町の本当の観光地はこちら側かと認識を改める。通り過ぎる人は往々にして中華まんや胡麻団子を片手に嬉々として僕の横を素通りして行く。一人で中華街に入る気にはならなくて僕は左手の石造りの建物が並ぶ旧居留地へと歩くことにした。入り込めば世界はさながら映画のようでヨーロッパの街並みを模した看板や建物が並び、そのどれもが時計や服、車の高級なブランド店だった。銀行も多かった。ひとしきり散歩していると角の三菱UFJ信託銀行と書かれた建物とその隣の建物の間の細い道、と言うよりかは隙間で煙草を吸っている四十代程度の男性を見つけた。高そうなスーツにチャコールグレーのスーツコートを着ている彼をじっと広い道路脇の歩道から僕は見ていた。彼は何も気にせずに、むしろ煙草を吸う以外の何もせずにそこにいた。携帯を触るわけでもなく煙草だけを楽しんでいたから、それがなんとも言えない気持ちにさせられた。
散歩をしていると時折こう言うことがある、こう言う目が離せなくなるくせにそれがなぜだかわからないことが。だけど僕は尼崎で感じた確信はこれだとわかった。彼を見つけることが大事だった。元町へはこれから何度も行くだろうし、その度にぼくは彼を思い出す。
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