第9話 別れ
青年に、今度は少年が聞いた。
「お兄さんはどこへ行くの?」
青年はニコリと笑って少年を見た。
「俺さ、海外に行くんだ。ギター一本で食っていけるようになるんだ」
決意を込めた声だった。
「歌手になるの?」
「まぁ、そんなとこ。歌も作るけどね」
「作曲?」
「両方」
「じゃあモーツアルトだ。学校で習った」
少年が言うと、「シンガーソングライターって言ってくれないかな」と青年は苦笑し、「それってどんな人?」と少年は聞いた。
青年は困ったように頭を掻き、「人を勇気づけるヒーローのことさ」と言った。
「お兄さんはすごいなぁ」
「ちっともすごくはないさ」
「どうして? 夢を持って、それを追いかけるってすごいことなんでしょう? 学校で先生が言ってたよ」
「違うよ。夢は持つものじゃなくて、出会うものさ。〝これだ〟ってものに出会うとさ、力が体から湧き上ってくるみたいに、やってみたくてたまらなくなるのさ。自分の実力とか、全然関係なくな。俺はたまたまそれが歌だっただけ」
青年は楽しそうに話をする。
「けれどお兄さんは歌がうまいから、きっと夢はかなえられるよ」
少年が言うと、少し照れたように「サンキューな」と青年が言った。
「俺、ここの、この時間の景色が好きでさ。最後に見ておこうと思って」
「もうここへは来ないの?」
少年が少し残念そうにきいた。
「あぁ、これでお別れだ」
青年も少し悲しそうにつぶやいた。
二人の間を、そよ風がさらさらと通り抜けて行く。
二人の髪が同時に揺れる。
「僕もいつか自分の夢に出会えるかな」
「あぁ。大丈夫さ」
青年が笑った。
つられて少年も笑う。
もう迷いはもうどこにもなかった。
青年はその後何曲か歌を歌い、少年はそれを何も言わず、ただじっと聞いた。
どれも透明で、人の心を優しくしてくれる気がした。
青年がすべて歌い終わる頃には、もう夕日も沈んで、辺りは紫色に染まっていた。
もうじき夜が来る。
そろそろ帰ろうか。
今日もきっとカレーだから、たくさんおかわりをしよう。『おいしいね』っていっぱい言おう。そして、お父さんに今日の話をしてあげよう。
お父さんなんて思うかな。『お前そんな遠くまで行ったのか』って笑ってくれたら嬉しいな。そしたら『それくらいもうできるよ』って笑って言うよ。
少年は立ち上がると、青年のそばに駆け寄り、ポケットに入っていた750円を差し出した。
「なんだこれ?」
青年が不思議そうに尋ねた。
「歌のお礼」
少年は、まっすぐに青年を見つめた。
「いいよ、君のだろう?」
青年がそう言って首を横に振っても、少年は手を引っ込めようとはしなかった。
青年は観念したように、「わかった」と言ってそれを受け取り、少年に笑顔を向けた。
「さて、俺も行くとするよ」
「今から?」
「深夜便がもうすぐなんだ」
そう言って持っていたギターを大切そうにケースにしまう。
「また会える?」
「さあな、そんなの誰にもわからないさ」
青年は立ち上がる。
少年はリュックを背負い、「そうだね」と少し残念そうに笑った。
青年はケースを持ち上げ、「会えなくてもきっと平気だよ」と返した。
そして二人は背を向ける。
それ以上、手を振ることも、言葉を発することもしなかった。
それから少年は父がいる家に向かって、青年は次の駅に向かって、
少年は熱く焼けたアスファルトの上を、
青年は舗装されていない砂利道を、
それぞれ歩き出した。
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