第8話 青年

『最後のときが迫っています。死というものを意識するたびに、押し寄せるものは後悔でした。私が病気に気づいたのは、今からちょうど半年前です。けれどもその時はすでに効果的な治療法はないと告げられました。まるで鈍器で頭を割られたような衝撃を受けました。死の恐怖に体が震え、喉がカラカラに乾いてゆきました。

 その事実を知ったあの人は、酒におぼれるようになり、以前よりも仕事に打ち込むようになりました。

 そんなあの人の背中を見るたび、胸が痛み、自分への怒りで狂いそうになりました。

 そして私の傲慢さで、愛する人たちを突き放してしまいました。


 許してください。


これ以上あなたが苦しみに耐える姿を見ることが出来なかったのです。

 この後あなたがどうなるかなど考えもせず、別れを切り出しました。それでもあなたは最後には、笑って「いいよ」と言ってくれました。

 その時の泣きそうなあなたの笑顔が頭から離れません。

 けれどこれで私は安らかに逝ける。そう思っていたのに、やはり死ぬのは怖いと心が叫びます。泣き叫ぶことが出来るのならば、どれだけ楽になることでしょう。

 誰でもいい。

 どうかどうか私の叫びを、聞いてください。

 私は愚かで、どうしようもなく醜い人間です。貴方には、どうしてもそれを知られたくなかった。

 けれども本当の私はこんなにも自分勝手で、臆病です。


 あぁどうか、私を許してください』



 辺りはすっかり夕日に染まり、海も空と同じ色に染まっている。

 リンゴみたいに真っ赤なお日様が、海の向こうに隠れていく。

 もう家にお帰りと、少年に優しく語りかけているようだ。

カラスの鳴き声とともに、遊びから家に帰っていく子どもたちの声が聞こえ、切ないような、悲しいような気持になった。

 少年が夕焼けの海を眺めていると、ギターのケースを抱えた青年が、駅に近づいてきた。

 どこか少年に似た雰囲気を持つその青年は、ベンチには腰掛けず、そのそばの地べたに座ると、ケースからギターを引っ張り出した。

 そしてその弦をジャランと鳴らすと、そのまま歌を歌いだした。


 青年の透明な声に乗せられた、どこか優しい気持ちにさせてくれるメロディー。

 透き通る声は、少年の心を貫いて、そのまま遠くへかけていく。世界の果てに行きつくまで、音はどこまでも続いていくのだ。

 この歌が、目の前に広がる雄大な海を、より鮮やかに輝かせているに違いない。

 音に色がつくと歌になるように、景色に光が射すと、それはきっと一枚の絵になるのだろう。

 今まで少年の心をギュッと握っていた何かが、スッといなくなり、解放された心臓が強く脈打つのがわかった。


 あぁ、ほっとするというのは、こういうことなんだ。


 弾いていた曲が終わると、青年がギターを下して口を開いた。


「君は一体どこへ行くの?」


 突然の質問に少年は少し驚いた。

 言葉につまり、目を泳がせる。

 けれども青年の瞳は、なおも少年の姿をとらえたままだ。

 考えて、ぽつりと言葉をこぼす。

「分からないよ。行くところはないから」

「じゃあなんで君はここにいるの?」

 青年は静かに聞いた。

 少年は聞かれて、困ったように下を向いた。

 なぜここにいるのか。その質問に対して、誰もが納得できる明確な答えを、少年は持っていなかったのだ。

「分からないけど、きっと逃げたかった……」

 蚊のなくような声で少年がつぶやいた。

 そうだ。きっと逃げたかったのだ。

 息の詰まるようなあの生活から。変わってしまったあの父から。きっと。

 すべてを放棄して、否定して、自由になってしまいたかったのだ。

 俯く少年に向かって、青年は小さな声で「それで」とつぶやいた。

「逃げ出してみた感想は?」

「……変わらなかった。僕、お母さんがいなくなっちゃって、それでお父さんも変わっちゃって……。だからもう嫌だって逃げ出したかったのに。恋しくなるばかりで、何も変わらなかった」

 泣きそうな声で言葉を発する少年に、青年は優しい声で告げる。

「本当にそう思う?」

 不思議な質問だと少年は思った。

「どういうこと?」

「……」

 青年は黙った。

 少年も口を閉ざした。

 急に静かになった駅のベンチ。けれど少年には、この沈黙がなぜだか心地よかった。波の音や風の音が少年を優しく慰めてくれるようだ。

 少し間をおいて、青年が「父さんのことが嫌いなのか」と聞いた。

 一瞬迷ったが、少年は思ったことをそのまま口にする。

「嫌いじゃないよ。いや、嫌いじゃなかったのに。今は嫌いになりそうで怖い」

「母さんは優しかったのか?」

「うん。とっても。怒ったことなんか一度もなくて、いつもニコニコ笑ってた。いつもめまいがするほど優しくて、眩しい人なんだ」

 青年は悲しそうに海を見た。

 目の前は、世界中の赤色を寄せ集めたように、それはもう真っ赤に染まっている。

 黒いはずの二人の髪もリンゴのように真っ赤だ。

 青年の横顔が、いつかの父と重なった。

 青年が口を開いた。

「大好きだったんだな、両方とも」

「うん」

 少年は小さくうなずいた。青年の方へ視線をやる。

 けれど青年は海を見たままで、目が合うことはなかった。

「でもさ、お前の母さんは、本当に優しいだけの人だったのか?」

 少年はその言葉の意味が、いまいちわからなかった。

 首をかしげる。

「どういうこと?」

 少年が尋ねると、青年は切なそうな声で告げた。

「いつもニコニコしているっていうのは案外難しいものなんだぜ」


『けれどそれは簡単なことじゃない』


 父が言った言葉が頭の中にちらついた。

「きっと強い人だな」

 青年が言った。

「僕もそう思うよ」

 少年が答えた。

 青年は「そうか」とつぶやくと、また歌を歌いだす。

 その旋律は風にも似ていて、魂をそのままさらっていくのかと思った。夕日に溶け込むように、青年の声は美しく響いく。どこまでもどこまでも流れていく。

 この歌に終わりが来なければいいのにと少年は思った。

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