第4話 太陽の思い出

『私は愛する人に別れを告げました。その人は青ざめて私に「最後まで一緒にいたい」と言いました。

 私は首を横に振りました。

「それはできません。私はもうだめなのです。耐えられません。あなたではなく私のために、どうかどうか別れてください。」

 その人は泣きました。いつまでもいつまでも泣いていました』



 男が去った後、一人ぽつんと残されたホームがひどくガランとしていることに気が付いて、少年はとっさに耳をふさいで目を閉じた。少年の心に突然何かがこみあげてきて、泣きたいような、叫びたいような気持に襲われ、唇をかみしめる。

 この気持ちは知っている。

 お母さんが荷物を抱えて出て行ったあの日と同じだ。大切なものだけカバンに詰めて出て行った自分の母親。


 大切じゃないものは置いて行った。


 どんなに足元にすがっても、どんなに懇願しても母は振り返らなかった。

 この気持ちに名前を付けてはいけない。認めてしまったら、戻れなくなることを知っているから。

 少年は膝を抱え、この気持ちが通り過ぎるのをひたすら待った。けれど気持ちは大きくなるばかりで、しまいには涙が溢れた。

 押し寄せる慟哭を必死に耐える。

 肩が震えないように、膝に回した手にグッと力を込めた。皮膚に食い込む爪の痛みも気にならなかった。


 お母さん、お母さん、お母さん。

 ねぇどこへ行ったの?

 どうして帰ってきてくれないの?


 いつも家に帰ると母がいて、『お帰り、学校はどうだったの』と、優しい声で自分にきいた。

 母の膝はいつも暖かくて、心地よくて、いつまでもそこにいたい気分になった。時には反抗して、全てを母のせいにしてふてくされたこともあったけれど、それでも最後には母に泣きついてしまうのだ。

 大好きだったお母さん。

 いつも優しい、太陽みたいな人。懐かしい石けんの香り。今はもうない傍らのそれに、飽きもせず何度も何度も思い焦がれる。

 こんな幸せがいつまでも続くと、少年は信じて疑ったことはなかった。


 けれどある時から、父は酒におぼれるようになり、母は実家に帰ると言って家にいることが少なくなった。

 父と二人きりになった家はなんだか広くガランとしていて、自分の家ではないような気にさえなった。

 そして父の煙草と酒の交じったような息を嗅ぐ度、早く母に帰ってきてほしいと心の中で懇願するのだ。

 けれど少年が何も言わなかったのは、必ず最後に母は帰ってくるとわかっていたからだ。

 父と母が離婚する話を聞いたとき、少年は母と行きたいといった。けれどそれは認めてもらえず、父と暮らすことになった。

 難しい話は分からなかったが、『そうしなければいけないよ』と、大人たちに言われた。

それから母が家を空けるようになると、父は朝早くから夜遅くまで仕事に明け暮れ、家に帰っても酒を飲むことしかしなかった。そんな父とどう接すればよいのか、少年にはわからなかったのだ。

 けれど『お母さんに会いたい』と言うと、きっと周りの人を困らせてしまうから、一人で座っている今でも、声に出して、叫ぶわけにはいかなかった。

「……っ……」

 それでも、肩が、目が、喉が、手が。

 代わりに何かを訴えるように震え、かみしめた唇の間から嗚咽が漏れた。

 ボロボロと流れ落ちる涙が、少年の膝を濡らしている。

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