第9話「紫の煙……って、煙だけじゃないいんだな」

 ああいらっしゃいませ、今日はわざわざ私の事務所まで……おやどうしましたか? しかめっ面で。駅からここまで、前を歩いている人がずっと歩きタバコしてた? そりゃお気の毒。上着にニオイが付いちゃいましたか。

 そこのハンガーにかけて、そこの右側のキャビネット、一番上の引き出し開けてみてください。それじゃなくてもういっこ右の。ハンドスプレーがいっぱい入っているでしょう?

 そうです、それ全部消臭剤。その中にアルファベットで『CL』って書いてるのがあるはずですから、それを上着に吹き付けておくと良いですよ。

 はいはい、それです。全体に満遍なく。あ、霧になったの直接吸わないほうが良い。いや、毒じゃありませんけどね。ちょこっと化学物質が入っていますから。大丈夫大丈夫、上着に穴が開くなんてことありませんから。


 タバコのニオイはそれ自体が刺激が強い上に、くっつきやすいですからね。結構たちが悪い。アルデヒドとアンモニアが主体らしいですけどね。さっきの薬はそのアルデヒドを、付いたその場に固定して発散させなくする効果があります。それで布地表面から発散しなくなって、結果臭わなくなる。

 ええ、臭気専門屋が使っている物ですから、強力ですよ。火事現場のニオイをこれで消すんですから。そうです、ホルムアルデヒドもアルデヒドの一種。強弱はありますけど基本的に全部有害です。二日酔いしたことあります? あれは体の中でエタノールが分解されてアセトアルデヒドが生成された中毒症状です。

 タバコですか? 二十歳でやめました。以後全く吸っていません。二十歳はウソですけど、三十手前で止めましたね。それまでは『ゴロワーズ』なんて超クサい両切りのフランスタバコなんか吸っていました。格好付けじゃありませんよ、ちゃんと理由があったんです。かまやつひろし? よくそんな古い歌知ってますね。そうじゃなく。

 『ゴロワーズ』はフランスで『ゴロワーズカップ』って二輪のレースを主催していたことがありましてね。今じゃラインナップから全く消えてしまいましたけど、RZ250って2ストの、当時じゃえらく速いモデルがあったんですよ。そのバイクがやっぱり世界中で人気になって、ゴロワーズとタイアップして開催していたんですけどね。規定が「アマチュアで、ゴロワーズカラーのRZ250とレース用ツナギを着ていること」だけなんです。

 それだけで名もないアマチュアレーサーが経験とチャンスと、上手くすれば賞金だって稼げた凄く良い企画でした。それに敬意を表して『ゴロワーズ』を吸っていたんですが。まあ、実際のところ全然美味いと感じませんでしたね。


 え? タバコの臭いのことをもっと詳しく? 今日は臭気の対策とか人間の嗅覚のことをもっと詳しく話すんじゃありませんでしたっけ? あまり面白くなさそうだからタバコがいい? 現場のことをいろいろ話すのも良いけど、嗅覚の基本的なところももっと知ってもらいたんだけどな……。

 タバコの苦情ですか? そんなに、私の仕事としては入ってくることはありませんね。喫煙可能な場所が減ったし、それに喫煙者自体少なくなったからじゃないですか?

 まあ住人が退去した後で部屋にタバコのニオイが残って取れないとか、マンションで隣の部屋からタバコのニオイが流れてくるなんて相談が来ることはたまにあります。

 そうそう、良い所気がつきましたね。『タバコのにおい』ってのは、ふたつに分類して考える必要があるんですよ。

まず「たばこを吸っている間に空気中に漂い出すにおい」、それから「その辺にくっついてしまうにおい」です。最初の漂い出すにおい成分、つまりガス分が90%以上、あとの10%未満がくっついちゃう方の、ヤニや粒子の成分です。


 はいはい……それぞれの成分でしょ。ちょっと待ってくださいね、資料出しますから。え~と……。

「漂うにおい」の場合はですね、『アンモニア・アセトン・ブタジエン・アルデヒド類・ベンゼン・トルエン・キシレン』何かこれじゃ塗装の排気みたいだな。それから『ビニルピリジン・オクタデセン』なんて普通じゃ聞いたことがないような成分もありますね。

 それから、「くっつちゃうにおい」。こっちの方が種類が多いんだ。『アンモニア・アセトン』は漂うよりもくっつく方に多い。『ピロール・トルエン・キシレン・スチレン・フルフラール・フェノール・ノネナール・デカナール・ニコチン類・オクタデセン・リモネン』含まれている物質は2000以上もあるらしいですよ。

 このうち『ノネナール』は加齢臭の原因物質だな。これを積極的に体に取り入れていたんじゃ、そりゃオッサン臭くなって当たり前だな。

 まあこれだけでも服なんかにくっつく臭いがなかなか取れない理由がわかりますけど、それにしてヘビースモーカーが住んでいた部屋の凄い臭いはたまったモノじゃありませんね。はっきり言って、悪臭嗅ぎ慣れた私でも吐き気を催したことがあります。これは何か特別な理由があるに違いありませんね。

 考えてみますと……これは全く私の想像ですけどね。漂っているにおいは換気を行えば当然すぐに出て行ってしまいます。問題はやっぱりそこらにくっついちゃう成分で、これが何でくっつくかと言えば、ガス以外の「10%未満」の成分のうち、その8割くらいがタールとニコチンだからでしょうね。さらに残り2割は前に名前を挙げた物質がタールに溶け込んだ状態でくっついている。

 悪いことに、ただでさえくさい物質であるアルデヒド類とフェノール類がほとんどタールの方に残っている上に、これは何かで読んだのですが、成分のいくつかが活性酸素で分解されてアルデヒドに変わってタールから漂い出すこともあるそうです。だからいつまで経ってもにおいが抜けない感じがするんでしょうね。


 つづく

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