第6話「実はイヌも大変だったりする」

 犬ってのは本来外で飼う動物だったのですけど。まあ住宅の問題もあるのですが、かなりでかい犬も室内飼いすることが多いようですね。犬の場合は糞尿臭より、犬のそのもののニオイで深刻なトラブルになるようです。

 特に『動物全般が苦手』という人にとっては、そのニオイすら非常にイヤなものになります。こんな事件がありましてね……。


 世田谷で、中古のマンションを買ったご婦人がいらしたのですが。引っ越してすぐ、寝室で『動物のニオイ』を感じたのですね。それで不動産屋に聞くと、確かに前の住人が犬やら熱帯魚やらいろいろ飼っていたそうなんです。しかし不動産屋はハウスクリーニングをしてクロスまで貼り替えたからニオイが残っているはずがないと言ったのですね。

 一応納得はしたのですが、やはり寝る時になるとニオイが気になる。自分で消臭剤とかを試してみたけど効果がないので、これはもう「どこかから入ってきているに違いない」と考えて、リフォームをやった会社とマンションを建てた会社に苦情を言って調べさせたそうです。でも調べに来た誰も動物臭は感じない。

 『動物臭』と口で言っても、それが実際どんなニオイなのかは説明するのは難しいですよね。オマケに「他人の家に入る」のは、なじみのないニオイ空間に入り込んでしまうことでもあります。

 私がヨソの家のニオイを調べる時だって条件は同じで。なじみのない、言ってみれば異臭だらけの場所で、その中に紛れている1つか2つの異臭を拾い出すのですから大変です。慣れと経験がないと臭気判定士だって難しい。

 そんな状態ですから、専門家でもない人間が行ったところで何が判るわけもありません。結局『ニオイはない』って結果が出てしまったために、事態は余計に悪くなってしまいました。裁判ですね。

 裁判を起こすにあたっては、その被害の状況を公正な第三者に証明してもらわなくてはいけません。

 しかしそんな裁判手続きや業者捜しをやっている間に、持ち主のご婦人はニオイとストレスで不眠症になってしまい、最後はそのマンションの部屋に入ることすらできなくなってしまったのですよ。

 別にニオイ自体に何か毒性があるわけではないのですが、ニオイが原因でこんなに健康に影響が出るってことをその時知りました。

 これだけこじれにこじれた状態で、ようやく私にお呼びがかかったってワケです。

 普通の原因調査だったら単にニオイの元を発見すればそれで終わりなのですけど、この場合『ニオイの元は間違いなくここ! ここもあそこも調べたけど、他には絶対ありません!』って、お城の堀を埋めていくような細かい調査を行う必要があるんです。何せ弁護士さんが扱う書類ですからね。

 

 どうやって調べたのかって言いますと、もう消去法です。まあ普通のニオイ調査と一緒なのですけど、こっちはもっと大がかりで念が入っています。

 まず下水排水の関係を確かめるために、キッチンや浴室トイレと言った、水回りとそのほかの部屋をビニールシートで仕切って完全に隔離しちゃったんです。それで丸1日置いてからもう一度調べると、やはり和室には何かニオイがある。

 次には床下や天井をシートで次々に隔離して、部屋からニオイが消えるかどうかを調べました。

 あ、その問題の『動物臭』なんですけどね、普通に嗅いでいたら私でも辛うじて「これかな?」と認識できる程度のものでした。慣れていない人でしたら、言われて嗅いでもまず判らなかったでしょうね。

 ええ。嫌いなニオイってのは、それぐらい敏感にわかってしまいます。人間の鼻(嗅覚)は人それぞれ全て感度が違う上に、経験や嗜好も感度に影響しますから「平均がこれくらい」なんて線引きができないのです。まあこの現場の場合にはちょっとした謎解きみたいなものがあったのですけどね。

 はいはい。その辺も、もちろんお話ししますよ。


 え~と。それで、水回り床下天井とか全部を隔離してもまだニオイがあるってことは、もうこれは部屋の中のどこかから出ているとしか考えられなかったわけですね。その頃はまだ室内のニオイ調査を始めたばかりで、部屋の中をくまなく嗅いで調べるって技法を編み出していなかったのです。それで、どうにもニオイ源が見つかりませんでした。で、もう一度訊いてみたんですよ。

「どのような時に一番ニオイを強く感じますか?」と。

 そうしたら「フトンに入って寝ようとしたとき」なのだそうですね。もうそうなったら、その状態でニオイを嗅いでみるしかないってんで。その人が寝る場所に横になってみたんです。

 そしたら、立っていたらほんの微かに感じる程度のニオイが、かなりはっきり感じられる位に強くなったんです。「これは、低い位置で出ているのか」と気がつきまして、畳を這って調べました。そこからですね、今のニオイ調査スタイルが始まったのは。

 それで、ニオイの強くなる場所を探し出しますと。これが何と、和室の入り口にある襖の敷居と柱に行き当たったんですよ。もう明らかにそこから動物臭が出ている。

 原因は大型犬の『ニオイ付け』だったようですね。あちこちに体を擦りつける行動です。クロスを貼ってあった部分は古いクロスと一緒にニオイの元もなくなってしまいましたが、ムクの木の部分はそのまま何もされずに引き渡しになったのですね。

 『いぬのきもち』『ねこのきもち』なんてペットの雑誌でも取材を受けたことがありますけど、大型犬は本当に体臭が強いものがいます。フローリングで良く寝転がる場所がニオイでわかっちゃうくらい。犬は肉球もよく臭いますね。

 結局、報告書は『マンションの建物に欠陥はなく、購入者である甲の使用によって発生したものでもない。前居住者のペット飼育によって発生した臭気である。本来その臭気は所有者の責任と費用に於いて除去されるべきであったが、臭気の付着を見落としたために適切な処理が行われず、甲に不快な臭気を感じさせその生活に悪影響を及ぼした』となりまして。その部屋の買い戻しと慰謝料の支払いと決着が付きました。

 まあ、白黒はっきりさせることができたので良かったのですけど。嫌いなニオイを寝ている間中嗅がされるっての、まさに拷問だったでしょうね。

 え?私が嫌いなニオイですか? 何だろうな~? 何せ、普通の生活では嗅げないニオイとか、もの凄く種類が多いし。はっきり言って悪臭嗅ぐ方が多いですからね。好きだの嫌いだの……。

 今まで最悪のニオイ? 話しても良いですけど、コーヒーじゃなくて食事しながら聞きませんか? そりゃもう詳しく描写してお聞かせしますよ。


 つづく

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