第30話

「大切なヒトが傷つけられて、黙っているはずがないでしょう。あのとき、あたしは確かに何もできなかったかもしれない。でもいまなら、あなたのそばで寄り添ってあげられる。たとえ拒絶されたって、自分本位に手を握ってあげられる」


 言いながら、ゆきはワタシの手にそっと触れ、迷いなく握った。それも、汚いほうの手を。嘘偽りのない言葉に、思わず胸がきゅんと高鳴る。


 なんだろう、すごく顔が熱い。胸の奥が、頬っぺたが、形容できない感情で熱を帯びている。鼓動が早い。視界が霞む。なんだかゆきのほうをまともに見れない。


「――あたしはね、ほたる。どうしようもなく、ただひたすらに、あなたの笑顔が見たいの」


「う、うん……」


 ゆきがずっと、ワタシにそんなことを秘めてくれていただなんて。ふと、いつもより風が冷たいことに気付いて、そっと頰を撫でる。涙で少し濡れていた。


 そんなことにも気付かないほど自然に流れていた涙に驚く。悲しくないのに泣いてしまう自分に困惑する。ほんの少し報われたような気がするだけで、現実はもっと悲惨なくせに。心のほとんどが氷漬けで溶け切っていないくせに。


 なんて都合の良い涙なんだ。――ワタシ、どうかしている。


「だから、ほたる。これ以上、自分を責めないで。あなたが苦しいと、あたしも苦しいの。あたしね、ほたるには笑っていてほしいの。あの頃のあどけない笑顔で」


 言って、ゆきは目を閉じ、おもむろに口を尖らせた。アンサーソングは行動で示さなくてはならないらしい。――ほんとにいいの? 心のなかだけの問いに、なぜかゆきは頷いて答えてくれた。


 それでもちょっぴり勇気が出なくって、視界の隅っこにいたはずの2羽の蝶を追うが、いつの間にか遠くへ飛んでいっていたみたいだった。いまはもう見えない。どこか不安定で、なのに自由なルートで羽ばたいていったのだろう。きっとそうだ。


 幾ばくの逡巡。だって、はワタシにとって大きな分岐点だ。ボクならどうする? きっとゆきの感情を蔑ろにしてそのまま立ち去るだろう。ひどいやつだ。自分のことながらけいには呆れる。――でも、これはワタシの問題だ。


 無駄に深呼吸したりして自分を整える。よし、覚悟を決めた。顔を近づける。


「んんっ……んむ、ちゅ……っ」


「んあ……っ、蛍遅すぎぃ……っ」


「ご、ごめん。こういうの初めてで、どうしていいか分からなくって」


「……続けて。こんなんじゃ足りないわ。もっとあなたを感じさせてちょうだい」


 最初は触れるだけのやさしい口付け。そしてこれまでの想いが加速し、啄むように何度も何度も唇を重ねる。ゆきの甘くて切ない吐息がワタシの頭を溶かしていく。


 ああ、ワタシ……ゆきと繋がっているんだ。それがどうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく心地よい。このまま果ててしまいそうな多幸感に包まれるが、当たり前に、これで終わりにはしたくなかった。――もっと繋がりたい。ゆきと、深く。


「んちゅ……んく、むぁ……んんむ!?」


 どっちが先に昂ったのかは分からないが、勢い余って口腔内に舌が侵入してきた。突然のことに戸惑いを隠せなかったが、不快ではなかった。そのまま受け入れる。


「んんっ、ちゅぱ……あぁはぁぁん、ああっん……」


「ひゃあぁぁん……! ゆひのひたぁ、あったかくて柔らかいよぉお」


「ちゅ、ちゅぱぁ……んちゅ……んんんむ、あっんん……!」


 そのまま流れるように自分の舌も絡めていく。お互いの唾液が混ざり合い、ねちっこいキスを繰り返す。なんだか舌同士で指切りげんまんしているみたい。


「オトナのキスしちゃってる……ゆきと。すごいね、これ……脳がふやけちゃう」


「もっとあたし色に染めてあげても良いけれど……今日はこのくらいにでもしておきましょ。キスばかりだと切ないことになりかねないから。変な意味じゃなくてね」


 急に理性を取り戻した人間になって、ふふ、と笑ってしまう。さっきまであんなにお互いを貪っていたくせに。獣みたいに重ねていたくせに。ゆきの色に染まり切りたい思いはあるけれど、最後を迎えるのは少なくとも、こんなところじゃない。


 そういうのはもっと、ふたりだけの空間ってところじゃないと許容できない。舌まで絡めたキスをしておいて、いまさら何を言っているんだとは思っちゃうけど。

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