第29話

 具体的に吐き出すものがなくなり、少しずつ呼吸が緩やかになっていく。違和感のあった喉もそれなりに落ち着いてくると、今度は周りが気になってしまう。


 なんというか。静寂なのは間違いないんだけど、断続的に聞こえるものがあるというか。これはなんの音だろう。四つん這いというだらしない格好のまま、耳だけを覚ましてみる。


「……えっと、ゆき? どうして泣いているの?」


「な、なんであたしが泣かないといけないの。そんな場面あったかしら?」


 ゆきがそう言うのなら、きっと、ないのだろう。でも確かに聞こえた。頷きはするが、退きはしない。無言でゆきのほうを見つめる。


 しかし、依然として音は止まない。明らかにゆきが啜り泣いているような感じがする。何に対して涙を流しているかは想像がつく。


 ……でも言葉では追及しない。できるはずがない。あまりにも独りよがりな想像で、ゆきを汚したくはなかった。


「な、なに? そんなに見つめないでよ。あたしだって、蛍が吐いているとこ見なかったんだから」


「それはありがたいんだけど、でも……」


 毒にも薬にもならない問答を続けていくうちに、はじめは抵抗していたゆきだったが、やがて観念したかのように、ゆっくりと重たい口を開いた。


「……だって、蛍は何も悪くないのに! どうして蛍だけが傷つかないといけないの! そんなの、絶対に間違っているわ! 抱える必要のない痛みを抱えて、それでもあたしは蛍に対して何もできないだなんて……!」


 ――ああ。この少女はすごく真っ当に怒っている。正しい怒りを、しかし行き場のないやるせなさを、さながら当たり前の主張のように表現できている。


 それがなんだかちょっぴり嬉しくて、口許がつい綻ぶ。他人の痛みをあたかも自分の痛みとして怒れてしまうゆきを、涙を流せるゆきを、美しいとさえ思ってしまう。


 だから相対的に、ワタシがひどく醜く思える。ゆきにできることといったら、その涙を拭うことくらい。どちらかと言えば、何もできないのはワタシのほうだろう。


「――泣かないで、ゆき。その涙は醜いワタシのために流すべきじゃない。あなたの、もっと大切なヒトのために取っておいたほうが……」


「醜いだなんて自分をそう悪く言わないで! あたしの大切なヒトなんて、最初からずっとあなただけよ、ほたる……!」


「……え?」


 とたん、柔らかい衝撃がワタシに押し寄せた。想像もしていなかっただけに、驚きを隠せない。


「ゆき……!? き、汚い、よ……?」


 いくら濯いだとて、ワタシのそれはまだ汚れている。口のなかも、喉ですら落ち着いたとはいえ、水で薄まっただけの汚穢に変わりはないのだから。


「……ほたる。あたしはずっと、あなたのことを見ていたの。中学のときからずっと。これが行き過ぎた気持ちであることを知ってしまったのは、皮肉にもあの日だったけれど」


 焦点の定まっていない目をして、ゆきは遠くを見つめる。青く澄んだ空がどこまでも広がっていて、そのなかにひらひらと舞う蝶が2羽いることに気付く。


 ゆきが、ワタシに、そんな気持ちを……? 彼女から触れてくれたワタシの唇をそっと指先で撫でる。ゆきの情熱的な温度がまだそこに残っている。

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