第28話

「……ぐっ、うぉえ……っ」


「だっ、大丈夫、蛍⁉ あ、あたし、ちょっと水買ってくるからっ!」


 数分にも満たない深淵のなかで、ボクは永久にも感じられる地獄を鮮明に思い出してしまう。死にたくなるような苦しみと不快感が、断続的に押し寄せる。


 その度に、ボクの喉は焼き焦がすかのような熱に魘され、同時に惨めなほど体液にまみれる。思考の一切を奪われ、吐き出した混沌をただ眺めることしかできない。


 苦味と酸味でぐちゃぐちゃになった口腔内が、ひたすらに気持ち悪い。不快だ。


「う……っ、ふぅっ、はあ、はあ……っ」


 ボクの内側が収縮を繰り返し、まだ何かを吐き出そうとする。苦しい。楽になりたい。ほとんど本能的に指を口腔内へと忍ばせ、それから勢いよく嘔吐する。


 獣の咆哮にも似た喘ぎ声をあげながら、胃のなかのものが迸り、逆流していくさまを俯瞰する。そのときのボクは意外にも冷静で、内容物の内訳を考えていた。


「わかめ……? これは、昨日食べたラーメン、かな」


 なんて呟くと、意識の隅っこで不意に音がした。


 カチャリ。ドアの開く音だ。ゆきが居なくなったのには気づいていたので、たぶん帰ってきたのだろう。足音が静かにボクのほうへ近寄ってくる気配がする。


「蛍。大丈夫……? 水、買ってきたわよ。とりあえず、これ飲んでっ」


「あ、ありがとう、ゆき。あとで払うね……」


「気にしなくていいから。それより、蛍。体調はどうなの?」


「たぶん大丈夫だと思う。朝食べ過ぎちゃったかな……あはは。ねえ、ゆき。見てみて。げぼらーめん。どんぶりに入れたらお客さんに提供できそうじゃない?」


 楽観的に振る舞ってさえいれば、ゆきに気付かれることはないだろう。数分目を閉じていただけで、彼女にはなんのことだか分からないはずだから。


 ――なのに、ゆきは神妙な顔つきで口を開く。


「……ごめんなさい、蛍。あたしのせい、よね。あなたはきっと思い出したくなかったことを思い出して、それで……」


「ええと、ゆき。それ、なんのこと? ワタシにはなんのことだかさっぱり」


「誤魔化さないで。過去を思い出すよう執拗に迫って、あなたの最悪なピースを埋めたのはあたし。それに、蛍が蛍くんになるきっかけを作ったのもたぶん、あたし」


「ほんとにどういうこと? ボクはボクのままだよ。変に自分を責めないでよ」


「……普段の蛍くんなら、一人称は『ボク』のはず。ところどころ動揺していたでしょう? 『ワタシ』なんてふつう、言わない。昔の蛍に戻っていたわよ」


 惚けることに徹していたが、おそらくこれ以上は無理だ。ゆきはとっくの前から気付いてしまっている。ボクがワタシだったことに。そのベールが剥がれたことに。


「でも、ゆきのせいじゃない。これはワタシが招いたことなんだから」


「蛍が? それだけは絶対に違う。あのとき、あたしは蛍の様子が違っていたことには気付いていたの。でも、予感だけに留めてしまった。ぜんぶ、あたしのせいなの」


「さすがに傲慢が過ぎるよ、ゆき。どんな思惑があろうと、けっきょくトリガーを引いたのはワタシなんだよ。あらゆることに対して迂闊だったワタシが悪いんだ」


 こう言えば、ゆきは引き下がってくれると知っている。なんて卑怯なんだ。自分で自分が嫌になる。でも、それでいい。元からワタシはワタシがいちばん嫌いだ。


「……分かった。蛍がそう言うなら」


「ありがとう、ゆき。ごめんね」


 精いっぱいの笑顔で応える。だって、ゆきは最初から、ちっとも悪くない。

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