第17話

「蛍くん。あたしのこと、覚えていてくれたの?」


「忘れるはずがないよ。一度たりともね」


 きみは忘れているかもしれないけれど、ボクは覚えている。さっきあったことのように鮮明に覚えている。忘れるはずがない。あれはきみがボクにした最大の施しだ。


「これ、覚えているかしら。あなたに直してもらった時計。プリクラも貼ってあるのよ? あたしもだけれど、ふたりともぎこちない笑い方をしているわね。あはは」


「昔話をするためにボクの跡をつけてきたのかい? 1年も姿を消していたくせに」


 最後にボクがユキと会ったのはあのときだ。それからしばらく友好的に話すことはなく、現在に至る。でもまさか彼女が遅咲きの高校デビューをしていたとは思わなかった。最後のユキと髪の色がだいぶ違うし、なんなら髪の長さも変わっていた。


「ごめんなさい。あなたとはなんとなく話しにくい雰囲気だったから。それに、あたしも1年のあいだに色々あったのよ。たとえば、この髪も染めた訳じゃないの」


 物憂げに目を伏せるユキを、ボクは見逃すことにした――当たり前だ。ユキには自分の罪を認識していてほしい。どうか永遠に。でないと、ボクが救われない。


 自覚的じゃなくていい。まだ意味を知らなくていい。ボクがきみに向けた悪意は、が苦しんだときのものよりずっと、鋭利なはずなんだ。


 きみが苦しんでくれるぶん、が救われる。――だけど、それから無理に笑顔を作ろうとするユキを遮って、ボクは涼しげな表情を浮かべてやる。


「ふ。きみが居ない世界は楽園だったよ。まあ、こんな身体だから教室よりも保健室に通っていたけれどね。それでもあのときよりずっと、『幸せ』だった気がするよ」


「やっぱり、あたし……あなたに嫌われていたのね。そりゃあ、そうよね……あたし、蛍くんにきっと、ひどいことをしたの。ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 冷たい風が頬を撫でてくる。不快な気分がどうにも収まらない。ユキのうるんだ瞳がボクのあらゆるところを深く突き刺してくる。――裏切られたのはボクなのに。


 影を落とした雪色の眼差しから逃れるようにして、乱暴に口を開く。


「なんで泣くんだよ。ボクを裏切ったのはそっちじゃないか。いまさら現れて謝るんじゃない。きみのことはもう忘れたいんだ。はるちゃんだかのとこにでも行けよ!」


「は、はるちゃん……?」


「きみの恋人だろ。それとも、もう別れたのかな。女心と秋の空って言うくらいだし、いまは違う男と付き合っているのかな。いずれにせよ、きみは最低な人間だよ」


「え……ええと。はるちゃんってだれ……?」


「まだ惚けるの? 去年の秋、抱き着いていただろ。往来の場で、男と!」


 それでも心当たりがないといった風に首を傾げるユキ。三沢なつと同じだ。相手を、自分の都合のいい存在としか認識していない。そんなの、愛じゃない。


 太陽の光に照らされて煌めく彼女の瞳には、既に涙のあとはなかった。ただひたすらに困惑しているような表情が鼻につく。まるで無実だと訴えているみたいで。


「……えっと、蛍くん。もしかして、廿六木とどろきさんのこと? あたしの知り合いに『はる』が名前に付くヒトは、廿六木さんくらいしか居ないのだけれど」


「廿六木さん……? だれそれ?」


「廿六木遥斗はると。五反田家の執事よ。まあ、それも肩書ばかりで形骸化しているけれど。簡単に説明すると、あたしの家庭教師兼召使いかしら」


 執事……? 召使い……?


 ユキがなにを言っているか、まるで分からなかった。聞き返そうにも、執事だの召使だの非現実なことばかりを繰り返し供述している。思わず首を小さく傾げる。


「あたしは、廿六木さんのことは優秀な召使いだと思っているけれど、馴れ馴れしい呼び方で――しかも、悪質タックルよろしく抱き着くなんて、恥ずかしくてムリよ」


「この期に及んでまだ惚けるの? 廿六木さんだろうが、はるちゃんだろうが、ユキ……きみが彼に抱き着いたんじゃないのか。あの懐中時計を着けて……!」


「蛍くん。悪いのだけれど、あたしはこれをアクセサリとして使ったことはないわ。大切なものだもの。持っているにしてもお守りとしてポケットに入れているだけよ」


 ユキはいつになく真剣な眼差しでボクを見つめてくる。透き通った白い肌はレプリカを思わせた。触れてみたいと感じたのは嘘じゃないが、そう惑わせるのは卑怯だ。


 ボクが先に目を逸らしたタイミングで、ユキが声を上げる。


「……あ。そういえば、蛍くん」


「なに?」


「不本意だけれど、あたしに姉が居るって知っているかしら?」


「初耳だね。それがどうしたの?」


「蛍くんが見たあたしって、姉のことじゃないかと思って。ハイテンションで廿六木さんに抱き着く芸当ができるのは、毎秒生き恥晒しが趣味な姉くらいだもの」


 確かにあのウザいくらいの積極性は、冷静沈着なユキには出せないかもしれない。それになんだか、ユキが猫撫で声で男性に媚びている姿をうまく想像できない。


 ――あれ。じゃあ、ボクは。

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