第16話

「……んんぅ」


 ひんやりとしていたはずの背中に、なんの感触もないことに気付くのにしばらく時間を要した。きっと、眠っているあいだに横向きになってしまったんだろう。


 腕を枕にしているのもそのせいだ。ボクの嫌いな、無駄に柔らかい腕が側頭部に当たって、なんとも言えない気持ちになる。おなかのほうで組んでいた手を放す。


「…………え?」


 。――では、この側頭部の感触は?


 まだぼんやりとしている視界で、ふと何かが耳に触れた。それから、ボクのくすぐったい場所を的確に逆撫でしてくるような動きに、どうしても戸惑いを隠せない。


 90度反転した世界から空を見上げる。ボクが望んでいるものはなんにもないけれど、それでもやっぱりその青さには心が浄化される気がする。


 その隅に、何かうごめくものが見える。虫? いや、違う。これは――髪の毛?


「あら、お目覚めかしら? よく眠れた?」


「……五反田ゆき。これはなんの真似だい?」


 見上げればすぐのところに、五反田ゆきの澄まし顔が見えた。彼女は細くて滑らかな髪を掻き上げ、小さい耳を露わにする。白い陶器のような肌が美しい。


「地べたで寝ているあなたを見ていて、とても苦しそうだったから。なんか魘されていたみたいだしね。青空がどうの、時計がどうのって」


「だからって、フツー、膝枕はないだろ。弐宮雄二以外の男子とは関わったことなかったんじゃないの? ひょっとして、きみって相当な男好きだったりする?」


「ヒトのやさしさを無碍にしないでもらえる? 無防備な格好で眠っていたあなたを日陰に避難させただけでも、かなりの功労者だと思うけれど……あたし」


「それはどうも。でもそんなの、ボクは頼んでいないよ。きみが勝手にしたことだ」


 五反田ゆきの膝を枕にしたまま、呟く。涼しげな風が吹いて彼女の髪がふわりと揺れた。女の子特有の奇妙に柔らかい匂いが漂ってきて、ボクは思わず口元を抑える。


 ボクの言葉に苛立って地面に落とすような真似をするかと思ったが、彼女は反論すらせずにボクの頭を軽々しく撫で続けていた。やめろ、と言うのもアホらしくなる。


「……で、きみはここに何をしに? わざわざ僕を追いかけて――趣味が悪いね」


「教室で落とし物をしたでしょう? ほら。この、プリクラ付きのペンダント」


 五反田ゆきがボクの目の前にぶら下げたそれに、瞬時に手を伸ばす。だけど届かないまま眼前でペンダントが消え――怒りの沸点に達したボクは素早く起き上がり、


「ヒトのものを勝手に見るなんてサイアクだよ。どういうつもりなの?」


「見られて困るものを落とすほうがどうかしているわ。こっちは授業をサボってまでわざわざ届けてあげたのに。膝枕も堪能しておいて、ひどい言い草じゃない?」


「いいから返してよ。ボクのことなんか放っておいてくれ。きみには関係ないだろ」


 もう一度五反田ゆきに詰め寄り、ペンダントの返却を催促する。それでも五反田ゆきは頑なにボクの私物を返そうとしない。胸ぐらでも掴んで奪ってしまおうか。


 そう考えた矢先、五反田ゆきはボクの顔色を窺いながら、ゆっくりと口を開く。


「ねえ、二取君。ちょっとしたゲームをしましょうか。左手と右手、どっちにペンダントがあるか当ててみて。正解だったら返してあげる……どうかしら?」


「暇つぶし感覚にボクのペンダントで遊ばないでもらえるかな? まあ、どうせ乗らないと返してくれないんだろうけど」


「そう。あなたに拒否権なんかないわ。――さあ、選んで。左か、右か」


 怪しげな笑みを浮かべる五反田ゆきに内心で戸惑いつつ、差し出された両手の観察に努める。左か、右か。どちらでもいいし、早く返してほしい。直感で左を選ぶ。


「本当に左でいいの? ファイナルアンサー?」


「ファイナルアンサー。間延びした溜めなんか要らないから、早く開けてくれよ」


「……ええ。じゃあ、手をオープンするわね。不正解だったら2問目に行くからそのつもりで」


 ふざけるな。くだらないことに時間を割いていられるか。今度は無理やりにでも奪ってやる。五反田ゆきが痛い目に遭っても知らない。そんなの、知ったことか。


 ――と、彼女が手を開くまでは思っていた。


「…………え? これって、まさか――」


 。――いや、そんなことはどうでもいい。いまペンダントのことは問題じゃない。? 


 五反田ゆきの、小さな手のひらに乗せられたものには見覚えがあった。否、その程度の認識では済まされないレベルで、ボクはを知っていた。


「そんな……きみが、、なの?」


「そうよ。1ね、蛍くん」


 ――狼の懐中時計。かつてボクが、或る少女のために修理したはずのもの。


 それがしっかりと五反田ゆき――ユキの手に握られていた。

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