第3話 始まりは【別れの曲】

コンサート当日、私は都内の音楽ホールを訪れていた。


開演時間間際なこともあって、150席程度の小さなホールには既に沢山の人が来ている。


平日の午後だからかな、観客の年齢層は結構高めだ。


というより、ざっと見渡した感じ、20代の若者なんて私以外にいない。


困ったな……。


一番後ろの席で聴くつもりだったんだけど。


前列の席しか空いてないや。


私は階段を降り、前から2列目のグランドピアノ寄り。


中央左側の席に腰掛けた。


受付でもらったプログラムには、ヴァイオリンとピアノの演奏曲が10曲ほど書かれている。


ラフマニノフ、エルガー、ブラームス、シューマン。


作曲家の名前や曲名は聞いたことがあるものばかりだけど、実際に知っているのはピアノソロ……ショパンの別れの曲だけだった。


あはは、まさかの選曲だな。


あの日見た、義成の悲しそうな顔が頭をよぎる。


プログラムを眺めながら苦笑していると開演のブザーが鳴り、客席の照明が暗くなっていった。



ステージの袖からヴァイオリンを持った赤いドレスの若い女性と、黒いドレス姿の舞さんが現れると場内は割れんばかりの拍手に包まれた。


舞さんのドレス姿、キレイだな……。


小柄な体型に、ロングの黒髪。


童顔なこともあって、とても30代の子持ちには見えない。


普段、陽だまりに来る時のジーンズ姿を見慣れているせいか、ステージ上の彼女はまるで別世界の住人に見えた。


数曲を弾き終え、ヴァイオリン奏者の女性がステージから姿を消すと、グランドピアノに向かった舞さんがそっと両目を閉じる。



照明に照らされた彼女の横顔は凛として、ゆっくりと鍵盤の上に両手を添えた。


そして、1音目が鳴った瞬間、私は息を呑んだ。


美しくて、優しくて……だけどどこか切ない音色。


舞さんの細い指は滑らかに音を紡ぎ、優雅な演奏に惹き込まれていく。


義成と向かい合った喫茶店で聞いた時とは、全然違う。


同じ【別れの曲】だけど、録音と生演奏の違い……?


それとも、彼女の奏でる音が特別なのか?


滑らかでゆったりとした曲調から、テンポを上げて耳を刺すような複雑な和音。


まるで恋の不安定さや悲しさを感じさせる、ピアノの音色。


旋律のイメージに合わせて、舞さんの表情も変わる。


そして、また聴き慣れた美しい旋律に戻ると私の心臓が高鳴った。


なんて色っぽい表情をするんだろう……。


彼女の周囲を包む空気が、華やかに色付く。


クラシックのコンサートは初めて訪れたけど、こんな素敵な世界があったなんて……。


私は今までに味わったことのない感動に、心を震わせていた。



ピアノソロのあとも素晴らしい演奏が続いたものの、私の中では別れの曲が一番心に響いていた。


終演後の音楽ホールは開演時とは比べ物にならない程、熱気と興奮が渦巻いている。


「ステキだったわね」


「また、聴きに来たいわ」


それぞれの感想を口にしながら、観客たちは席を立って行く。


うわっ。


心臓がまだ、ドキドキしてる……。


私はゆっくり立ち上がると感動で震える手をズボンのポケットにしまい込み、ホールの外で舞さんが出て来るのを待った。


お花やお菓子などをもらいながら色々な人に囲まれてにこやかに笑っている彼女を遠目に見ていると、なぜかこちらまで微笑んでしまう。


まるで、芸能人とファンとのやり取りを見ている気分だ。


「それじゃ、また」


「ご来場ありがとうございました」


ひとしきり話し合えたのか、ようやく観客たちから解放された舞さんにそっと歩み寄る。


「ああっ!」


すると、私を見つけたドレス姿の舞さんがこちらに走って来た。


小動物っぽくてあどけない表情は、ステージ上の彼女とはまるで別人。


「薙先生!」


「おっ……」


お疲れ様でした。私がそう言い終える前に、彼女は私に勢いよく抱きついた。



えっ?


何で、舞さんが私の腕の中に……?


ほんのり汗ばんだ彼女の肌に触れて、思わず鼓動が早まる。


「もう、すっごく緊張していたから、演奏終わってからも興奮状態で……。でも薙先生の顔見たら、なんだか安心して腰が抜けちゃった」


驚いている私をよそに、安堵の表情を浮かべてしがみ付いている彼女に益々心臓は煩くなっていく。


何だろう、この感じ……。


女性に抱きつかれることなんて、今までも数え切れないくらいあったはずなのに。


すごく……ドキドキする。


自分の顔が熱を帯びて、赤くなっているのがわかる。


あれ? 舞さんって、こんなに可愛い人だったかな……。

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