8 先生、咲桜になにしたんですか?
+ side流夜
忘れられていた……。
咲桜が、昨日深夜にあったことを綺麗さっぱり――までとかいかないが、忘れていたことのショックが今頃来た。昼休みに、旧館の資料室にこもって項垂れるくらいには。
名前で呼んでくれただけ、よかったと思うしかないのか……。
ここに遙音が来たら風邪が悪化したかを疑われるだろう。降渡が来たらからかわれる。吹雪だったら爆笑される。……よく考えれば、周りにこういった相談が出来る奴、一人もいなかった……。
知り合いの中では絆あたりは女性だけど、まず俺の話なんて聞いてもくれないことは確実だ。会えばいつも物が飛んでくるくらいに自分、すごい勢いで嫌われている。バカな弟は相談候補の対象外だ。
……なにがショックって、家族のことを話したこともそうだけど、キスしたこと、咲桜から抱き付いてきたこと、そして咲桜の言葉が忘れられていたこと。……咲桜が憶えていないとなると、あれは全部自分に都合のいい妄想だと思えてくるから凹む……。
朝起きて、咲桜の腕が自分の右腕に絡んでいなかったら、完全に妄想だと思ったかもしれない。
あたたかさは、まだ腕の中にある。
抱きしめた鼓動。繊細な輪郭。涙の瞳。咲桜の行動が全部、咲桜の意思あってのことだと願いたい。そうすれば、あのあたたかさをまた抱きしめることが出来るかもしれない。
気づくのは、感情ばかり。
「………」
手を開いて、また握った。今はない細い指。
今夜は在義さんに呼ばれている。場所が龍さんの店というならば、咲桜は知らない話だろう。
最高の相棒と称される、対角の二人だ。
+ side咲桜
「え……ほんと?」
昼休み。
様子の――というか挙動のおかしい私を、笑満が中庭へ連れ出した。いつもは頼と三人でご飯を食べるけど、今日は笑満が断って二人きりになった。
なんでそんなことをするかと言えば、私が、歩けばが壁や柱に激突する、ペンケースやら教科書やらを持てば落とす、などなど明らかに動揺が見られるからだろう。
笑満に、「紅いんだか蒼いんだかわからない顔色をしている」と言われた。……どんな状態?
「ほんと。……昨日、流夜くんのところにいてしまいました……」
私の告白に、笑満が三秒ほど黙った。
「―――えええええ⁉ 色々と訊きたいことだらけだけど、名前で呼ぶようになったの……? な、なにが――あったの?」
笑満は動揺を隠さずに、私の腕を摑んできた。逃がさんと言わんばかりだ。私は、自分の額に片手を当てた。
「それが……憶えてなくて……」
「……え?」
「昨日、ね、雨降ったから流夜くんのとこで、一緒に夕飯食べたんだ。そんで、ちょっと首のことで発作起こしちゃって……、母さんのこと、話した。それから眠っちゃったのかなあ……意識がぷっつり切れて、起きたら『流夜くん』て呼んでて、一緒の布団にいて、私が流夜くんに抱き付いていた、というのが今朝の報告です。……私はなにをしたんでしょうか……」
話すうちに、項垂れて行く。懺悔でもしているみたいだ。
「なんか……なにを悔いればいいのかとか、もうわけわかんなくて……笑満さん、私はどうすればいいんでしょうか」
「取りあえず状況整理しようか」
詳細を聞いて落ち着いた笑満は、ぽん、と私の肩を叩いた。混乱中の私からすればその冷静さが憎らしい。ので、ぽん、とお返しに笑満の肩を叩いてみた。なんの意味もない行動だけど、笑満は、あはっと笑った。
「記憶がなくなる前はどうだったの? ってか――お母さんのこと……?」
「話した。全部、知ってることは」
「……珍しいね」
「うん……」
笑満は静かな眼差しで私を見て来た。桃子母さんのことを私から話したのは、流夜くんが三人目だった。
一人目と二人目は同じときで、小学生の頃の笑満と頼だ。
でも、二人に話したのは、友達になってから三年近く経ってから。それを、『流夜くん』とは出逢ってから数日で話してしまった。目の前で発作を起こしたから、なのかな……? どうして話してしまったか、自分でもよくわからなかった。
「……目の前で発作起こしちゃった言い訳ついでだったのか、話したかったからなのか……わからない」
私の視線は相変わらず下を向いている。笑満は、私が在義父さんと血の繋がりはないことも知っている。……全部、話してある。
「じゃあそれはあとで考察しよう。お母さんのことを話して、いつの間にか寝ちゃった、ということでいいの?」
「うん。いつの間にか……」
しゅかああっと、頬が一気に熱くなった。い、言っていいのかな、これ……言うの恥ずかしいわっ!
「咲桜? 話せるね?」
笑満に笑顔で脅された。
言うしかないのか……。笑満に隠し事ってのやだしなあ。
腹を決めても言うのには勇気がいって、恥ずかしさ対策に顔を手で覆ってから話した。
「………流夜くんに抱きしめられました……」
「きゃーっ!」
笑満の黄色い悲鳴が聞こえて、耳もふさぎたくなった。いや、笑満の口を塞ぐべきか。けれど私の腕は四本ない。顔を隠すだけで精いっぱいだ。
「それはなに? 流夜くんから? 咲桜から?」
私は顔を隠したままなので、笑満がどんな風ににやにやしているかはわからない。にやにやしていることはわかるけど。
「ええと……発作を落ち着けるため、だと。……流夜くんからです」
「それで落ち着いたんだ? 流夜くんすごいね」
「うん……」
少しだけ肯く。
笑満も、私の発作を目の当たりにしたことはある。その折は、対処法を知るお隣のお姉さんを呼びに行ったり、結構迷惑をかけてしまった。それが抱きしめられて収まってしまうとは。……流夜くん、ほんとに何モノだ? そして笑満も『流夜くん』って呼ぶのか。
「あたしも流夜くんに師事しようかなー」
な、なんの弟子入りをする気だ? 私はまだ恥ずかしさが引かなくて、顔を隠していた。
「それで――抱きしめられていて、寝ちゃった、と?」
「そこまでしか憶えてない……」
「それでいいんじゃないの? 発作起こして、流夜くんの腕で安心して寝ちゃったってことじゃないの? なんてゆうか聞いた感じ、怖くて泣いちゃった子どもを寝かしつける親みたいだよ」
おおう、的確な指摘。笑満の感想に思わず肯きそうになってしまった。けど、続き、みたいなのがあるんだよ……。
「そうなんだけど……起きたとき、私流夜くんの右腕にしがみついてたんだよ。流夜くんが、それが解けなかったから一緒に寝た、って言ってて。私、そんなことした記憶がないのと、あと私が一緒に寝る羽目になったことを、『原因は自分だ』って言ったり、『もしかして忘れたか?』とも言ってたの。……私なにかやらかしたよ、絶対」
私の言葉に、笑満は唸った。
「ふむ。でも、危ないことではなさそうだよね? 一線超えちゃったとか」
「ないよ⁉」
「あったら流夜くん、在義パパに殺されてるでしょ。朝、一緒におうち行ったんでしょ?」
笑満は実にあっさりした口調だった。笑満のあまり騒がないところも私はすきだった。が、今は冷静すぎて恨めしい。
「あー、なにやらかしたんだろ……」
「流夜くん、怒ってたりしたの?」
「怒ってはなかったけど……なんか淋しそうだった。だから気になって」
「ん。じゃあ訊きに行こう」
笑満が、すたっと立ち上がった。
「流夜くん、旧館にいるだろうから、行くよ」
「え、笑満……」
「うじうじ悩んでる暇あったら行動する。はい、行くよ」
「でも、笑満……」
「でもとかだってを言わない。言ったでしょ。流夜くんなら咲桜をあげてもいいって。あたしだって自分の言葉の責任くらいとるよ」
ふん、と腕組みで見下ろされて、私は閉口した。
笑満も自分も、頭で考えるよりも足を動かす方が得意だった。今、その笑満の行動力が発揮されていた。
「さー行くよー」
まだ気が進まない私の腕を摑んで、ずるずる引きずっていく。
木陰で、道中のその声を、寝転がって聞いていた人には、気づかないまま。
「……りゅうやくん?」
頼、だった。
「失礼しまーす」
「………」
笑満の元気な声に、私は小さくなりながら続いた。私ほど無駄にでかいと、小さくなるのも大変だ。
中には流夜くんがいて、私たちに驚いていた。
「松生、どうした?」
「咲桜もいますよ。先生、咲桜になにしたんですか?」
「……は?」
いきなりの挑発的な言葉に、流夜くんは面喰らった様子だ。
「いえ、咲桜が今朝先生のところにいたとか聞きまして。途中の記憶がないって言うんで、まさか妙な真似してねーですよね、と思って確認に来ました」
昏い微笑みを見せる笑満に、流夜くんは眉根を寄せた。
「なにしたって……」
「別に咎めるわけじゃないですよ。ただ、咲桜が憶えてなくて不安そうだったから訊きにきただけです。あたしに隠し立てするようなことがなければいいんです。あ、別にあたしに隠し立てすることがあっても、咲桜が納得するんならいいですけど」
ね? と微笑んで見せた笑満。私が納得するんならいいのか。
「……わかった。咲桜に説明するから、松生は下がってもらってもいいか?」
「どこまで下がればいいですか? 教室の外? それとも自分のクラス?」
ここで教室の外、と答えたら、まあ盗み聞かれるんだろうな、と私もわかった。流夜くんもそこまでは見当がついているようで、苦い顔をした。
「出来ればクラスで待っていてくれ。本鈴までには帰すから」
「あたしに隠し立てたいことをしたんですね」
鋭い一言に、反射的に私の肩がびくっと震えた。ま、まさか……? 不安になる私の視線を受けてか、流夜くんは一度瞼を伏せた。
「そういうわけだ。頼まれてくれるか」
「……咲桜、頑張ってね」
流夜くんの応答を聞いて、笑満は私の肩に手を置いてから静かに出て行った。
残されて、もう泣きそうだった。自分なにしたんだよーっ! お願い笑満戻って来て―っ! 心の中で叫びまくっていると、流夜くんの視線を感じた。
「咲桜、」
「はうっ、ごめんなさいっ!」
「いや、だから謝るのは俺の方なんだって」
流夜くんは椅子を立って、私の傍まで歩み寄った。
「なんでそんな顔をする」
色々な不安が怯えに変わっている私に、流夜くんは不思議そうな顔だ。
「だ、って……私、流夜くんが淋しくなるようなことをしたんじゃ……?」
その答えが意外だったのか、流夜くんは瞳を見開いた。
「今朝、そんな風に見えて……」
離れた背中が、そう見えて。言うと、流夜くんはゆっくり喋り出した。
「そんな風に見えていたのか?」
「う、ん……」
私はびくつきながら肯く。流夜くんは手を口元にあてて何か思案している。
「……もし本当にそうなら、淋しかったのは、咲桜が自分で言ったことを憶えてなかったからだと思う。その前のことで、淋しいことなんてない」
「……私、なに言ったの……?」
「……今は気にしなくていい」
ふいっと、流夜くんはそっぽを向いてしまった。そ、そんな言いたくないようなことを言ったの⁉
「別に悪いことを言われたわけじゃない。だから、気にしなくていい」
「………」
――そこで下がったら、私ではなかった。在義父さんの娘ではなかった。
私に背中を向けようとする流夜くんの腕を摑んだ。右腕。――あれ?
「わ、わたし――」
が、
言葉が頭から飛び出しそうだ。けれど、明確ではない。
流夜くんは私を見下ろして、口元を緩めた。
「
「私、なんて言ったのか知りたい。お願い教えて」
口を開いた流夜くんを遮って、言い募った。自分はどんな思いを流夜くんに打ち明けたのだろうか。知らなくていけない気がした。
「………」
真っ直ぐに見上げていると、流夜くんは観念したように軽く息を吐いた。
「俺が、家族がいないって話した。そしたら、咲桜が「自分が家族になるから」って言ってくれた。それだけだよ」
「え……」
「な? 忘れてた方がよかっただろ」
流夜くんは私の頭に手を置いて、雑に掻きまわす。私は目が点になった。そんな……ことを⁉
「言ったの⁉」
「俺の幻聴か妄想でなければ」
「マジメな顔でそういうこと言わないで!」
どういう事態だ。私が顔を紅くさせたり蒼くさせたりしていると、流夜くんは嘆息して腕を組んだ。
「それは俺が訊きたい。確かにお前は「家族になる」って言ってくれたよ。でも、それはちゃんと咲桜の意思あっての言葉なのか。もし一時の同情なら、本当に忘れてほしい」
静かな声で言われて、私は軽く身を引いた。
右腕に抱き付いたとき、思い出してかけていた。自分の言葉。そして、流夜くんに抱き付いたこと。私……言ったな。だんだん記憶が帰ってくる気配だ。
「………」
「よし、忘れろ。俺もそうする」
波に流されて出た言葉なら、本気にしないうちに消してしまえばいい。流夜くんはそういうように、また背を向けようとした。
「やだ」
私から出たのは、頑固な声だった。
「咲桜?」
不審そうな声と共に流夜くんが振り返る。真っ直ぐ、見上げる。
「私、一度言ったことの責任は取るよ」
「……は?」
「責任は取ります。流夜くんの家族になる、って出任せや同情なんかじゃないから」
「お前……なんでそういうところ男らしいんだ」
「父さんの影響です」
「そうか」
やはり在義父さんの名の前では簡単に納得してしまう流夜くんだった。
「それで……出任せや同情じゃなかったら、どうするって言うんだ? 責任取るなんて、方法もわかってないだろ、お前」
「うっ……」
た、確かに……。
「それに、そんなことを言ったら俺はもっと責任を取らなくてはいけなくなる。なにせ、手を出してしまったからなー」
「……え?」
てをだした?
やけにのんびりした口調で言われた。私がぽかんとすると、流夜くんは首を傾げる。
「俺はそれで万全いいんだが……なんだ。そこまでは思い出していないのか?」
「えええっ⁉」
「面白かったなー、あのときの咲桜は」
「ちょ……どういう意味⁉ 流夜くん⁉」
「ああ、もう本鈴が鳴るな。クラスに戻れ」
「流夜くん⁉ なにがあったの⁉」
「咲桜が思い出したら教えてやるよ」
「思い出せないから教えてほしいんだよ!」
「ほら、早く帰らないと松生に怒られるぞ」
「くっ……笑満の使い方を心得やがって……っ」
「はいはい。またそのうちしてやるから」
「だからなにしたのー!」
「……責任を取るようなことをされた?」
「らしいです……」
放課後。昼と同じ場所で、笑満に報告反省相談会が開催されていた。
私はまた顔を両手で覆っている。
「て、咲桜。あんたの発言も結構でかい爆弾じゃない?」
「だって言っちゃったんだもん! 一度口にしたら責任は取らねばいかんでしょう」
「ほんと男らしいね。でも――その、自分で言ったことは思い出したんだ?」
「うん。流夜くんが、……家族を亡くされてるって聞いて、その様子が淋しくて……私でもいいんだったら、家族になりたいって思った」
「ふむ。で、流夜くんの言葉繰り返すけど、どういう責任の取り方を考えてるの?」
「………」
「考えてないのね。まー普通に繋げるなら、結婚、だよね」
「……⁉」
「流夜くんもそうだと思ったんじゃない? 咲桜からプロポーズされたって」
「えええっ⁉」
「だって普通そうでしょ。他人が家族になるって言ったら、結婚しかないでしょ。咲桜、どういうつもりでそう言ったの?」
「………」
「咲桜」
「ただ……一緒にいる、と」
「……あー、可愛いねー咲桜は」
笑満が横から抱き付いて、腕を伸ばしてくしゃくしゃと私の髪を掻き混ぜた。
「まー、流夜くんが笑ってくれてる間なら、危ないことにはならないでしょう。しばらく流夜くんに弄ばれてなさい」
「言い方非道いな!」
「なに騒いでるのー?」
「え、あっ
「二人はまだ帰らないの?」
ひょこっと姿を見せたのは、白衣姿の養護教諭だった。ふわふわのセミロングの髪に可愛い顔立ち、小柄な先生は女子にも男子にも人気だ。
「咲桜の恋愛相談中でーす」
「ちょ、笑満!」
「あら」
口元に手を当てておどける様子に、私は一気に恥ずかしくなった。
「全然ちっともそんなんじゃないですから! 笑満、帰るよ!」
「あはは。咲桜面白―い。じゃあねー、先生」
「気を付けてねー」
ぶんぶん手を振る笑満の腕を引き寄せる。
「笑満! ばれたらどうすんの!」
「ばれないって。あたし、咲桜と話すときは『流夜くん』て呼んでるでしょ? そういう小さなとこ気を付けてれば、案外大丈夫だよ」
「あ……そういえば」
そういう意味だったのか。ただの嫌がらせか、からかいだと思っていた。
「今日も流夜くんのとこ行くの?」
「ううん。今日はお仕事あるって」
「あらーん。淋しいねぇ」
「ないよっ」
終始からかい調子の笑満と別れて、疲れながら家に向かう。その途中、竹林の入り口でぼけーっとしている顔を発見した。
「頼?」
「んー?」
空に向けていた、指で作った四角が私に向いた。
「あ、咲桜」
「帰り? 一緒に帰る?」
「んー」
頼はぼんやりした動きで私のところへやってきた。
「咲桜、最近なにかあった?」
「私?」
ドキッとした。頼には話していないけど、実は大きなことがあったからだ。笑満といい、鋭いな。
「なんか変に見える?」
「変って言うか……まあ、いいや」
喋るのが面倒だとでも言うように、頼は欠伸をした。
相変わらずの頼のローテンション。……頼は、このテンションの時の方が問題ないから困るんだよなあ。
「なんかあったら言えよー」
「なんかあったらね」
ばいばいーと、頼の家との分かれ道で手を振る。
在義父さんは、今日遅くなると言っていた。もっとも、その予定があてになることはろくにないのだけど。
+++ side流夜
《白》の猫の鈴が鳴る。
龍さんの手伝いで茶葉の整理をしていた俺は、その音にはっとして振り返った。在義さんだ。
「待たせてしまったかな、流夜くん」
「いえ」
軽く会釈する。在義さんは、口調こそいつも通りだったが、纏う雰囲気は違う。一言、苛烈。『華取本部長』の色に近い。
「流夜、もういいから在義んとこ行ってやれ」
龍さんに促され、カウンターを出た。本当は手伝いを要求されたわけではないけど、待っているだけはどうしても落ち着かなくて申し出たのだ。
「龍生、すまないが奥の部屋使ってもいいか?」
「お? おお、すきに使え」
在義さんの提言で、カウンターの奥へ入る。龍さんが休憩室として使っている部屋だ。
中は小さな机と椅子と本棚、テレビがある。机を挟んで、在義さんと向かいに座った。
「私から話、と言うか、見てもらいたいものがある」
在義さんが懐からくたびれた封筒を取り出し、それを受け取った。宛名も差出人の名前もない。
「桃の最後の手紙――見ようによっては、桃の遺書になるかもしれない」
「……!」
桃子。在義さんの妻で、咲桜の母の名だ。在義さんが『桃』と呼んでいるのは知っていた。
「知っての通り、その名は私がつけた。身元がわかるようなものを、一つも持っていなかったからね。……そこにある、それが咲桜の総てだ」
「読んで、いいんですか……?」
こんな重要なものを――
「読んでくれると思ったから、呼んだんだ」
在義さんは静かだった。
奥歯を噛んで封を開ける。
咲桜に見えない傷を遺した母。逢うことのなかった咲桜の生みの親。
封筒は、十二年分の疲れに包まれていた。
『在義さんへ
今までありがとうございました。
在義さんのおかげで、私は短いながら幸せな時間を過ごすことが出来ました。
何度生きても、在義さんに出逢えた人生に勝る生き方はないと、言い切れます。
叶うならば、わたしの本当の名前を呼んでもらいたい、と何度も思いました。
何度も思い出したい、と願いました。
けれど、なにもわからなくて……さいごまで、ごめんなさい。
わたしは、咲桜の命に手を伸ばしてしまいました。触れることなく引っ込めたけれど、咲桜は何かを感じたようで、意識を失ってしまうほど怖い思いをさせてしまいました。
あれほど愛している子だからこそ、わたしの娘である事実がゆるせませんでした。
咲桜は、ただ純粋に在義さんの娘であってほしかった。わたしなんかとは関係ない方がよかった。
桃子の名も、咲桜の名も、在義さんからいただきました。
在義さんが連れて行ってくれた、桜の中。咲き誇る桜を見て、隣にいてくれたあなたを見て、娘に名づける勇気がもらえました。
咲桜の父が誰だか、名前しかわかりません。名前も、本当かどうかはわかりません。気づいたら私は、その人とずっと一緒でした。記憶が曖昧になる時間です。
在義さんに見つけていただいたとき、私はその人のことも忘れていました。
でも、少しずつ思い出して……いいえ、背けていた目が、向いてしまって。
その人は、罪人でした。
どのような罪を犯した人か、そこまでは思い出せませんでした。ただ、罪を犯した人。ゆるされない罪を犯した人であるという、認識だけはありましたこと、思い出しました。
やさしかったです。
わたしには、自分のことがなにもわからないわたしに、その人はやさしかった。
それでも気づいたらわたしは、在義さんのところにいました。
その人のもとを逃げ出したのか、それとも捨てられたのか。ごめんなさい、そこはわかりませんでした。
見つけてくださったのが、在義さんでよかった。
わたしのせいでお仕事をなくしてしまったり、謝っても謝り切れない優しさを、あなたにいただきました。
見つけてくださって、愛情をくださって、ありがとうございました。
在義さんの愛情と、咲桜の存在だけが、私が持つことをゆるされた真実でした。
ごめんなさい。わたしはやはり、あなたの傍にいるべきではなかった。
あなたはいつも笑ってゆるしてくれました。でも、わたしはわたしをゆるせませんでした。
そして、とうとう……。
咲桜は、生きています。一緒に死んでしまおうと思ったことは、否定できません。でも、出来なかった。
咲桜に望める幸せを、私は奪えなかった。
どうかお願いします。今までわたしにくださった愛情、総て咲桜にあげてください。あの子はわたしの罪咎とはなんの関係もありません。ただの子供です。そして、あなたの子供でいさせてください。
図々しいお願いばかり、すみません。
咲桜を、在義さんの娘として育ててください。
わたしのことは、話さなくて構いません。
咲桜、愛しています。でも、わたしは咲桜の幸せの邪魔になる。在義さんの未来を壊すだけになる。
ここで退くこと、どうか。
ゆるさなくていいです。ただ、わたしのことは過去として、お願いです生きてください。
愛しています。愛していました。
いただいた愛情を、少しも返せなくてごめんなさい。』
「………」
はたはたと涙が落ちた。
「流夜くんが泣くの⁉」
「え?」
俺が手紙から顔をあげると、在義さんが泡喰っていた。
「ま、まさかそこまでとは思わなくて……すまない」
「なにがですか?」
在義さんが慌てる意味がわからず問うと、背後から手刀を喰らった。
「てめえの現状把握ぐらいしろや」
いつの間にいたのか、龍さんだった。促されて頬に手を当てると、何故か濡れていた。……あれ?
「うあっ⁉ すみませんっ、……なんか……」
「いや、流夜くんが謝ることじゃない」
「ああ、桃子のそれ、見せたのか」
慌てて涙を拭っていると、龍さんの顔つきが変わった。
「咲桜が自分から、話したみたいだから」
「娘ちゃんが?」
在義さんの返事を聞いて、龍さんは俺を振り返った。
「流夜。勘違いする前に言って置くが、桃子はこれを遺して死んだワケじゃねえ。自殺でもない。これは桃子が亡くなったあと、桃子の手帳から出て来たもんだ。娘ちゃんの発作は知ってる。たぶん、桃子が書いたことが原因だろう。……在義と娘ちゃんに申し訳ねえ気持ちだけは、終生消せなかったんだろうな」
「……補足をありがとう、龍生。……あの、流夜くん? まだ涙ひかないの?」
未だにボロ泣きしている俺を、心配そうな顔で見てくる在義さん。慌てて拭った。泣いたのなんていつぶりだろう。……バカ弟の教育に失敗したと知ったとき以来かもしれない。
「すみません……。咲桜の母親が、咲桜のことを疎んだり嫌っていたわけじゃないってわかったら……」
安心した。……とは、少し違うかもしれない。
咲桜が嫌ってはいない母が、咲桜を嫌っていなくてよかった。……そんなところだろうか。
「……罪人、ってところに反応するかと思ってたよ」
在義さんは肘掛けに頬杖をついて言った。言われて、俺もはっとする。
「だから君には――勿論、今まで咲桜に関係がなかったから、ていうのもあるけど、見せなかったんだよ。不用意に傷つけたくはなかったから」
「………」
「……傷付いては、いないようだね」
「はい。……むしろ、俺の方が非道いことを思っていると思います」
「非道いこと?」
在義さんが問い返す。
「……咲桜の母君が、どんな思いでいたか、俺には計り知れないところです。でも――、すみません。俺は咲桜に逢えて嬉しい。咲桜がいてくれてよかった。咲桜が生まれてきてくれて、ありがとう、咲桜を生んでくれて、ありがとう、と……桃子さんに、思ってしまいました。在義さんにも咲桜にも、母君も、俺の方が傷つけてしまうことを思ったかもしれない……」
「……桃は、本当に自殺ではないよ」
「………」
在義さんの声は穏やかだった。
「これを見ると、咲桜と心中しようとしたみたいに見えるけど、桃が亡くなったときと、咲桜が意識を失ったときというのは、大分日数が離れているんだ。咲桜は幼いゆえの混乱もあって、自分が意識をなくした直後に桃が亡くなったように思っているみたいだけど、そうではないんだ。桃は……老衰のような亡くなり方だった」
「……老衰? ですか?」
「これといった病気ではないんだけど、身体が――とくに内臓がね、限界だったんだ。若かったけど、生き切って、自然に亡くなった。その日は私も非番で家にいて、咲桜は桃の膝で寝ていて、すうっと眠るように、心臓が止まった。……咲桜はその後に目を覚ましたから、時間感覚をずれて認識してしまっているんだろう」
「……そうですか。最期まで、在義さんが傍にいてくださったんですね」
「………」
「桃子さんが在義さんを慕っているのはよく見えました。咲桜も。この言い方もおかしいかもしれませんが……少し、安心しました」
在義さんがぽつりと呟いた。
「……やっぱり流夜くんが婿でいいな」
「お前気ぃ早過ぎだ」
なにやら掛け合いのようなことを言っている師匠たち。手にしたままだった手紙を畳んだ。これが咲桜に見せられる日は、来るのだろうか。
それは在義さんの一存次第だ。
「……流夜くん。一つ確認しておきたい」
「はい」
封筒に戻した桃子さんの手紙を手に、俺は前を向いた。在義さんは真っ直ぐに見てくる。
「咲桜はこういう子だ。それでも――例え偽ものでも、婚約者でいられるかい? 春芽くんが言い出したことも、今なら取り消せる」
在義さんの提言に、俺は一度瞼を伏せた。開いた視界の在義さんは、問う眼差しのままだ。迷いは、俺には必要ない。
「その必要はありません」
「………」
「咲桜に恋人が出来て、偽ものでもその存在が必要なくなるまで、俺はそこにいます。偽ものでも婚約者として、咲桜を護ります。……俺が、そう望みます」
宣言した。
在義さんに向かって、咲桜の婚約者でいると。
「……龍生」
「あ?」
「どうしてくれるんだお前の後継は……!」
突然、在義さんが語気を荒げた。龍さんは目を眇める。
「なんだよ。流夜が気に喰わねえのか?」
「違う! むしろ真逆だ! 流夜くんのどこを否定すればいいのかわからないじゃないか! お前、後継をこんないい子に育てて、私への嫌がらせか!」
「……流夜、これって俺が怒られることなのか? それとも褒められてる?」
「………わからない」
在義さんの謎のブチ切れに、龍さんと一緒に困った。
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