7 今は偽モノ、だけど――


+ side流夜


 規則正しい寝息を立てる咲桜を腕にして、なんとも言えない心地だった。泣きつかれて寝てしまったようだ。

 ――もう戻れない位置まで踏み込んでしまったことは確実だ。

 わかっている。この子が愛らしいだけの存在ではなくなっている。

 咲桜から聞いた話は衝撃しかなかった。在義さんの妻は病死と聞いていた。だが、咲桜の記憶ではそれだけではないようだ。まさかという可能性も、複数出て来た。……そのことで咲桜が負った傷は計り知れない。見えない傷痕。

 それでも、

「……生きてくれて、ありがとう」

 いてくれてよかった。出逢えて嬉しい。そんなありきたりな言葉しか出てこないけれど、咲桜が今、静かに息をしているだけで愛おしい。自分の腕の中で、なんて猶更嬉しくなるだけだ。

 少し腕の位置を変えても起きないので、本格的に寝てしまったようだ。そっと抱き上げ、隣の部屋――本の部屋のベッドに寝かせる。家事はろくに出来ないけど、掃除だけはしているから大丈夫なはずだ。

 洗い物が終わった後にほどかれた長い黒髪はそのままで、頬にかかる。それを払ってやっても起きる気配はない。咲桜は学年の女子の中では一番背が高いけど、線が細い。色々頑固な面も見たけど……。

 生まれてきてくれてありがとう、とは、まだ言えない。言えるのは、生きていてくれてありがとう、だ。

 このまま寝顔を見ていたい気持ちが押し寄せるが、そろそろ在義さんの反応も心配になってくる。あの娘バカさんに色々バレて、逢えなくさせられてしまったらたまったもんじゃない。やっと見つけたのに。

 軽く髪を整えてから、布団をかけてやる。おやすみ。俺のことを怒ったんだから、お前もゆっくり休め。

 リビングで、今日吹雪のところへ行けなかった埋め合わせの作業でもしよう。そう思ったところで、また吸い寄せられるようにベッドの淵に戻ってしまう。

 ……それを繰り返していたアホのところへ、テーブルの上のスマホが着信を告げた。誰だこんなときにっ。起こしてはまずいと慌てて出ると、深夜もお構いなしが安定の降渡だった。

『よー、りゅう。そっち雨すげーんだって? 大丈夫かー?』

「うるさい」

『あれ、いつもより声が辛辣なんだけど』

 辛辣にもなる。せっかく可愛い寝顔を見ていたのに。音を立てないように扉を閉めて話す。

「なんだよ。今日は吹雪んとこ行けなくても文句言われないと思うんだが」

『言わねーよ。反対にふゆは署から帰れなくなってるみたいだしな。少し情報交換しねぇ?』

「あいつは……。いつもの範囲でいいんならな」

『おっけー』

 明るい降渡の声に、後ろ髪を断ち切る。あまり見ていてばかりでは咲桜も嫌かもしれない。パソコンを置いたままの机に戻る。

 いつもの範囲というのは、あくまで俺が知っている情報かつ、警察内部に関わって知ったことは除外する、というもの。同じように降渡も、探偵業関係で知りえた個人情報は示さない了解がある。時と場合によってその境界は揺らぐけれど。

 降渡の質問に答えたり、訊きたいことも訊いておく。咲桜が目を覚まさないように声はいつもよりひそめていた。

「……せんせい?」

 はたと気づくと、隣の部屋との扉を開けて、咲桜がこちらを見ていた。……起こしてしまったか。急いで降渡に言う。

「降渡、悪い。続きはまた今度でもいいか?」

『おう? いーよいーよ。大分もらったし。じゃーなー。オヤスミー』

 切るときまで軽快だった。俺もスマホを机に置く。

「ごめん、うるさかったか?」

「いえ……すみません、私こそお電話邪魔しちゃって……」

「そろそろ切り上げたかったからちょうどよかったよ」

 俺が言っても、咲桜は困ったように視線を彷徨わせている。ローソファは横になれるように二人掛け用で、空いている自分の隣を叩いた。

「おいで」

 呼ぶと、咲桜はちょこちょこした足取りで隣まで来た。手を差し出すと、自分の手をそっと重ねて腰を下ろした。

「のど乾いてたりしないか?」

 さっきだいぶ泣いたから、水分をなくしているんじゃないだろうか。顔を覗き込むと、首を横に振った。とられた手に力がこもった。……淋しそうな力だ。

「……すみません、でした……」

 咲桜は、俯いて意気消沈している。

「あんな、こと話してしまって……。忘れてください」

 触れている手が震えていた。……どれほどの恐怖だったか。自分の命を否定されたようなものだ。それには答えず、手を握り返す。

「先生、って呼んだよな。さっき」

「……え?」

 咲桜の顔があがる。こういう素直な反応は咲桜の長所だ。

「何回も言ってたろ。名前で呼べって言ったのに」

「それは――無理ですよいきなりっ」

 ちょっと泡喰った様子がいつもの咲桜で、安心する。大丈夫。この子は完全には呑まれていない。

「構わないだろ? 仮だけど婚約者演じなきゃならないんだ。名前くらい呼べるようにならないと」

「だからって――」

「はい」

「…………くん」

「くんしか聞こえない」

「~~~りゅうやくんっ」

 咲桜は、もう自棄と言った様子で呼んだ。

「よく出来たな」

「………」

 頭をわしゃわしゃ撫でると、咲桜は口を尖らせた。

「大丈夫だ、咲桜」

「………」

 からかっていた手が落ち着いて、今度は整える。

「残酷なんて世界のどこにだって転がってる。お前も俺も、たぶんそれに近づくのが早くて、残酷性が目に見えて強いだけだ。咲桜を否定する要素になんかならない。だから、胸張って生きろ。頑張らなくていいから、胸張っていろ。俺や在義さんや、松生たちの愛情を素直に受け取っていればいい。――お前は、愛されているよ」

 大丈夫。また、そう繰り返した。

「せん……流夜くんも、なにかあるの……?」

 戸惑いに揺れている瞳と、砕けて来た口調。俺は素直に答えることにする。

「少しばかり、俺も変わった生まれをしているからな」

「生まれ……?」

「ああ。……咲桜がもう少し大丈夫になって、そのとき知りたかったら教えてやるよ」

「……今は、ダメなの?」

「駄目。さっき大泣きしたばかりだろ。俺のことまで抱え込まなくていい」

「やだ」

「やだって……」

 子供っぽい反応に、今度は俺が当惑した。でも、大人びた咲桜の口調と態度を多く見ているから、こういう幼い反応を見る度、心をゆるしてくれるような気がしてしまう。

「流夜くんは私のことまで抱え込んじゃったじゃん。私だけ、一人分の問題でいいっていうのは、やだ」

 仲間外れは嫌、みたいな、子供っぽい内容かもしれない。それでも、咲桜が俺に対してそう思ってくれることが、やっぱり嬉しい。

「……わかった。確かに、咲桜の方だけ聞くのはフェアじゃないか」

 観念して、目線を落とした。咲桜は強くこちらを見て来て、片方だけ繋いでいた手にもう片方も添えた。それに少しびっくりした俺は目線を咲桜に戻した。

 観念した、というよりも、諦めがついた。そして、勇気をもらった、そんな気がした。こんなことを話すのは、本当に勇気がいるから。……いくら俺でも。

「……俺な、家族がいないんだ」

「………」

「俺が赤ん坊の頃、殺された」

「―――」

 俺の申し訳ない響きの告白に、咲桜は目を見開いた。

 ……今までに、自分からこのことを話したのは、降渡や吹雪たち同郷以外では一人だけだ。

 ニュースにもなったような事件だから、調べようとすれば簡単に調べはつく。その一人以外は、大体向こうが調べて知ったという感じだ。

「犯人は捕まってない。それが、俺が警察に関わるようになったきっかけだ。……大丈夫か?」

 咲桜の顔色が悪い。いや……こんな話を聞いて、気分のよくなる者はいないだろう。やはり話すには焦り過ぎたか。

 ……あまりに咲桜が真剣に踏み込んでくるから、自分もその距離をうまく摑めないでいた。余計に心を重くしてしまっただろうか――

「っ、咲桜?」

 首筋になにかが巻き付いて、正面から衝撃を受けた。

 一瞬遅れて理解する。咲桜が抱き付いて来たのだと。

「咲桜? どうした? ……苦しくなったか?」

 ぶんぶん、と、俺の顔の脇で、咲桜の首が横に振られる。

「今は偽モノ、だけど――」

 咲桜が少し空気を吸って、巻き付く腕に力がこもった気がした。

「私が流夜くんの家族になる」

「―――」

 呆気にとられた。

 まさかそんな考え方に行きつくなんて。

 今まで、吹雪や降渡、ほかにも龍さんや在義さんと、近くにある人たちは俺の家族にあった事件を知っている。けれど、まさか『家族になる』なんて言われたことはなかった。

「咲桜……」

 いつもはすぐに対応が出来る頭がうまく動かない。どうして? 咲桜の言葉が嬉しすぎる。

「私が、流夜くんを大丈夫にするから」

 苦しいほど抱き付かれて、抱きしめ返した。

 愛らしい、だけじゃない。……愛おしい。この子が。

 自分だって辛いくせに、こうやって誰かを抱きしめることが出来る。

「……ありがとう、咲桜」

 本当にこの子は強い。だからこそ不謹慎ながら、さきほど泣きついてくれたことが嬉しくもある。

 しばらくそのままお互いが腕の中にいた。

 偽モノ婚約者。

 教師と生徒。

 家族になる、という言葉の意味をちゃんと理解しているかは不安だけど――このまま。咲桜を抱きしめていられる時間だけ、一緒にいることをゆるしてもらえたらいい。

 咲桜の父親の在義さんに、咲桜の親友に、そして世界に。

 ――この子が、俺の一番大事な人だ。

「咲桜」

 腕の力を緩めると、咲桜は身体を離した。大事な熱が遠くなるのが淋しくて、その額に口づけた。咲桜はびっくりした顔になる。俺は満足げな気持ちになったが、それだけではまだ足りない。右手で咲桜の頬をとらえ、そっと唇を重ねた。

 軽く触れあわせただけで離れると、咲桜は真っ赤になって固まっていた。可愛い。

 キスしてしまった。なにを言うべきか思案していると、俯いた咲桜が右腕にしがみついてきた。

 額を二の腕に押し付けて服の裾も握りこみ、伝わる熱は先ほどよりも熱い。

 なにも言うことが出来なかった。

 咲桜が隣にいてくれる。それだけで、総てが満たされた気持ちになる。

 空いている左手で、咲桜の髪を撫でた。ぴくりと肩が跳ねたけど、そのあとに咲桜から緊張が消えたように感じた。

 じっと、動かない時間だけがあった。



+++ side咲桜


 ぼんやり目を開けると、すぐ傍に流夜くんの顔があった。驚きが過ぎて悲鳴もあげられなかった。うーん、やっぱり綺麗な顔だち……。頭がまわらなくて、そんなことしか考えられなかった。

 私が目を開けたまま固まっていると、流夜くんが少し唸ってのろのろ瞼を持ち上げた。

「……さお?」

「………」

 寝起きの声はやたら甘い。心臓が、さっきまでとは違う音を立て始める。流夜くんはしっかり目を覚ましたようで、瞼をこすっている。

「気分はどうだ? 悪くないか?」

 その問いかけに、私は昨夜あったことを思い出した。抱えていた黒々としたものを全部吐き出したのだ。流夜くんはそれを抱きしめてくれて――。

「だいじょうぶ、です……」

 ずっと、傍にいてくれたのだろうか……。私が、在義父さんの娘ではないと知っても?

「それならよかった。一緒の布団で寝てしまって悪かったな。どうにも解けなくて」

 苦笑気味に、流夜くんは自分の右腕を示した。そこにはしっかり巻き付いた私の腕もある。…………え。

「わあっ! す、すみませんっ」

 自分が離さなかった所為で、相当寝苦しかっただろう。って言うか、え? なんでこんな近いの?

 慌てて離れると、流夜くんは身体を起こした。

「在義さんに謝る内容が増えた」

 からかうような口調で言われて、私は閉口した。うう……また迷惑を。

「気にするな。原因は俺だから、ちゃんと謝るよ」

「原因?」

「そう。……もしかして忘れたか?」

 流夜くんは軽く眉をひそめている。私は必死に記憶を振り返るけど、桃子母さんのことを話して、眠ってしまって、というところまでしか思い出せなかった。

 その様子でなにかを悟ったらしい流夜くんはため息をついた。

「まあ……いいよ。忘れてて」

 軽く私の額を小突いて、ベッドを降りていく。少し淋しそうに見える背中。……記憶にない自分はなにかやらかしたようだ。

「流夜くんっ、私、なにし――」

 あれ? 流夜くん?

 咄嗟に出た呼びかけに、自分で驚く。流夜くんのことは『先生』と呼んでいたはずなのに――そう言えば、『流夜って呼べ』とは言われた記憶がある。けれどどこか、そこまで至れずにいたのに。今自分はさらりと『流夜くん』と呼んでいた。もう『先生』という単語が抜け落ちている。

「咲桜? 今日は学校だろ。早目に家に送っていくから、支度しろ」

『咲桜』。流夜くんの呼び方も変わっていた。昨日までは『華取』だったのに。な、何があった……?

 ものすっごく戸惑った、けど。……どこかくすぐったく、嬉しい。気になる背中の淋しさ。でも嬉しい呼び方。

「はいっ」

 返事をして、準備に取り掛かった。時計を見るとまだ六時だった。

「流夜くん、朝ごはんは?」

「いつも食わない」

「そうですか……」

 やっぱりか、この人は。

「それより、すぐに送っていけば咲桜は家で食べられるだろ」

「じゃあ流夜くんもうちで食べて行って。少しは頭の動きも違うと思うよ」

「いや……」

「大丈夫。父さんには私から言うから」

 私の声は、自分でも驚くほどしっかりしていた。

 もう、大丈夫だよ。



+ side流夜


「咲桜!」

 咲桜が玄関のドアノブに手をかけると同時に、在義さんが飛び出してきた。後ろにいた俺もびっくりした。

「うあっ、父さん」

 疲れた様子の在義さんに、咲桜が驚きの声をあげた。

「こんな時間に帰ってくるとか、心配で流夜くんのところに乗り込むところだったよ」

「大袈裟だって。雨止まなかったから仕方ないでしょ」

 咲桜は咎められてもあっさりしていた。力関係、本当に咲桜が上だな。

「すぐに朝ご飯作るね。父さんはさっき帰ってきた? ご飯食べたら出勤まで少しは寝てね。流夜くんも入って」

 呼ばれた俺は、顔を強張らせるしかない。ギリッと在義さんに睨まれ続けているからだ。逃げ出したい。在義さんが薄く唇を開いた。

「流夜くんには面倒かけたね。……少し色々詳細まで話を聞かせてもらおうか」

「………」

 在義さんの瞳に炎がちらついて見える。

 せっかく咲桜が腕の中にいた朝なのに、自分、二千回地獄にでも落とされたようだ。



「聞いたのか……」

 俺は、咲桜から聞いた母の話を、在義さんにも話した。在義さんが知らないわけがないし、咲桜が気にしていることを知っておいてほしかった。咲桜の出生がどうあれ、咲桜の父親は在義さんしかいない。

 リビングにL字に置かれたソファに座っていると、距離的にキッチンの咲桜には聞こえないようだ。在義さんが言った。

「自分から話すだろうとは思っていたけど……思ったより早かったな……」

 在義さんは口元を片手で押さえ、独り言ちている。そしてなにかを決めたように顔をあげた。

「流夜くん、今夜、龍生のところへ来られるか?」

「龍さんのところ、ですか? 《白》へ?」

「ああ。咲桜が話したなら、本当のことも話しておきたい」

「………」

 真剣な瞳で言われて肯いた。本当のこと? 咲桜が話した以上のことが……?

「それに」

 にぃ、と在義は不気味な笑みを見せた。

「昨日まで『先生』と『華取』って呼んでたのに……どうしたのかなあ、とも思うしね」

「………」

 ……この人のところへ来ると、天国には地獄もセットなのだと感じるようになった。

 シメられる覚悟しねえと……。


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