5 じゃあ、もらおうか。
+ side流夜
「………もしもし、
「いきなり通報かよ!」
アパートに戻ると、部屋の前に長身の影があった。真っ黒のスーツにシャツもダークカラー。ネクタイは締めずにボタンをいくつか遊ばせている。野性的な鋭みの見た目は、幼馴染の一人の
降渡がわめくので、本当にかけていた電話を切る。吹雪は電話の向こうで吹き出していた。こんな通報をしたところでまともに取り合う吹雪ではない。
「なんだよ不良探偵。うちに来んなよ」
「暇出来たから遊びにきたんじゃん。たまには構えよー」
「やだよ」
「遊ぼーよー」
「
「今忙しいんだってさ」
「こっちも忙しい」
「りゅうは夜の仕事してるからだろー?」
「誤解招く言い方はやめろボケ」
騒ぐ幼馴染を部屋の中へ蹴り入れた。
「なーりゅう、お前、ふゆんとこ行っててちゃんと眠れてんの?」
「いつも通りだ」
「ふーん。変化ないんなら、まいいけど」
言って、降渡は自分で茶の準備をしにキッチンに向かった。俺に料理スキルを求めても意味がない。降渡は放っておいて、面倒なネクタイを外す。
「……ん?」
どうやら降渡は弁当の痕跡に気づいたようだ。カップ皿なんかはそのまま捨てたし、その柄はこの辺りのコンビニやスーパーで使っているものではないとすぐに気づくだろう。
昨日遙音が来た時に、あいつが自分用にと勝手に持ち込んだコップを使ったあとはあるから、そのセンも考えるだろうが――見えた降渡の横顔から、遙音関係でもないとわかったと知れる。
「りゅうー、お前見合いしたんだって?」
「……知ってんのか」
やっぱり、言わなくても知られている。
降渡は愉快そうだ。愛子が仕組んだこと、どこまで承知しているんだか……。
「俺の情報網だもん。相手が在義さんの娘ってトコまでは知ってんだけどさー」
ほぼ総てじゃねえか。
「仮婚約、らしいぞ。詳しいことは愛子に訊け」
「仮婚約ね。もう聞いてるよ」
「………」
愛子。
心のうちで呪いを吐く。あの野郎、口が軽いのはお前かよ。
愛子が降渡の常連客なのは知ってはいるけど。降渡が、何故か俺の分もコーヒーを持って来てローテーブルについた。
「娘ちゃん――咲桜ちゃんと在義さんを政敵から護るための策ねぇ、わかるわかる。お前も愛子も在義さん大すきだかんな」
「お前だってそうだろ」
「そうだけどさ。俺は立場的に龍さんの後継ってことになってるし。ふゆは一応警察入ったけど、あいつ一年で飛ばされたじゃん? 在義さんの後継がふゆっつーのも、微妙なラインだよなー」
アホなことを言いながらカップを傾けてやがる。今日はこのまま吹雪のいる上総署へ行くつもりなので、一応着替え。
スーツのジャケットを脱いでハンガーにかけた。降渡の来訪がなければ適当に投げ出されていたそれは、安心したように壁の絵になる。
「咲桜ちゃんはいいの? 高一つったらこれから彼氏とか出来て楽しい時期じゃん」
「本人も了承の上だ。婚約の件は公にはしないから、華取に彼氏出来ても問題ない。むしろ出来れば解消する理由にもなってちょうどいいだろ」
「ふーん?」
そうなんだー、と、カップの淵からこっちを見てくる。
「で、今日はなんだ。また案件持って来たのか? 昨日、お前の遣いだって遙音が来たばっかだぞ」
胡坐を掻いて、降渡の淹れたコーヒーを取る。
「たまには龍さんが来いよって言ってたから、お前も行くかなーって思って来た」
「わかった」
「あ、行く?」
「ここんとこ行ってないしな。けどな、降渡」
「おう?」
もう一回睨んでやる。声は平坦になった。
「龍さんとこ行く前にてめえでコーヒー淹れる奴があるか」
「あはは、悪い悪い。いいじゃん、龍さんの上手さが際立つと思えば。ふゆにも来るように連絡すっからさ。行こーよ」
ポケットからスマートフォンを取り出して、手早く電話をかける降渡。こいつに華取のメシをやるのは不服なので、署から戻ってから食べることにして私服の上着を取った。
電話はすぐに応答があったようで「じゃー龍さんとこで」という声がして降渡は通話を終えた。
「りゅう、ジャンケン」
「あ?」
「ポン!」
反射的にグーを出してしまった。降渡はパー。
「りゅうの負けー。運転お前な」
「………」
いつもの勝手なノリだ。龍さんのところまでは歩ける距離だが、どうせこの後に仕事があるから、俺が警察署に行く途中でおろしてくれということだ。運転席に乗り込んで発車させた。
「龍さんて咲桜ちゃんのこと知ってんの?」
「華取が知ってるって言っていた。在義さんの友達だから、家にも来るって。お前は知ってたのか?」
「いや? 在義さんに娘がいるのは知ってたけど、詳しいことは。そっちは? ガッコの生徒だったんだろ?」
「一応認識してはいたけど、バラす気もなかったから関わらないようにしてた。だから愛子が連れてきたのが華取とか……あいつは俺を辞めさせたいのか」
チッと思いっきり悪態をつく俺を、降渡は当然のように笑う。
「そりゃそうだろ。愛子がお前を警察機構に入れたいのは公然の事実じゃん。どこから足元掬われるかわかんねーぞ?」
「……気を付けても意味ねえんだよな、あいつは……」
歩く地雷原とあだ名されるキャリア警察官。長年の愛子との付き合いで、それは身に染みていた。愛子の傍で本心からニコニコしていることが出来るなんて、吹雪くらいのものだ。
「本当に――憧れちまったら終わりだな。邪道優等生と正道不良。いいコンビじゃねえか。越えるけど」
「当然」
駐車スペースは三台ほどの駐車場に停まった。
街角の喫茶店は、カウンター席が九つと、テーブル席が五つ。扉には猫の首輪についているような、大振りの鈴がある。
鳴ると奥の方からガタイのいい強面で壮年の男性が出てきた。時間も遅いからか、他に客はいなかった。
「おう、来たのか」
「久しぶりー、龍さん」
「降渡に連れて来られた。なにかあったの?」
降渡が先を歩いて、一番奥まったカウンター席につく。店主・二宮龍生さんはカウンターの中だ。元ノンキャリ刑事の、現ここの店主だ。
「なにかあったじゃねえよ。お前、在義の娘と婚約したんだって?」
「!」
ガクン、とカウンターについていた肘が折れた。……なんで知っている。俺は顔をあげられないまま問う。
「……龍さん、どこでそれを……」
「在義が絡んできた」
龍さんはさらっと言った。まさかの在義さん発信源だと⁉ なんか、裏切られた気分になった。
「お前の後継者だろうってスゴまれてよ。いや驚いた。あいつもあんな親みてーなキレ方出来るんだな」
心の底から感心している風情の龍さんに、俺は冷や汗をかいていた。在義さん、一昨日のあの場では納得したような風だったが、やはり完全に手放しで受け入れたわけではないようだ。そしてキレられていたのか……? ショックだった。
「……ん? 親みてーなって?」
降渡がそう訊き返していた。衝撃で一時停止してしまったが、俺も同じことを疑問に思っていた。母親が亡くなっているとはいえ、在義さんが父なのだろうに。
「ん? ああ、お前ら知らねーか。あいつも言わねーもんな」
頭をかいてバツの悪そうな顔をする龍さん。
また、猫の鈴が鳴った。
「ふゆー、こっちー」
降渡が呼ぶと、春芽吹雪がやってきた。愛子の甥で、キャリアでありながら一年目で所轄に飛ばされたぶっ飛んだヤツだ。
見た目は、よく美人と言われる。叔母の愛子によく似た、女性的な容貌をしているからだろう。だが、美人と言われるとキレる。そのくせ、自分から潜入や内定でソレを武器にすることは厭わない面倒な性格をしている。
吹雪は俺の隣に腰かけた。
「どうしたの? 今日は」
わざわざ呼び出すなんて、と、吹雪が問うと、降渡は龍さんを見た。
「龍さんから来いって」
「そいつが在義んとこの
龍さんの言い方で、またダメージを受けた。ガチでシメられてます……。俺が一人、だんだんカウンターに額をつけているのが通常になってしまいそうになっている隣で、吹雪は素っ頓狂な声をあげた。
「はあっ? 婚約? 在義さんの娘って――あの子? 確か……さおとかいう……」
吹雪は(偽)婚約の件は知らなかったのか? もう半日もあれば吹雪にも調べられていただろうけれど――こいつの悪い癖が出ていなければ。
「娘さんも可哀想に。血の繋がりもないのにやっぱり巻き込まれちゃうんだねー」
吹雪は、欠片も華取に同情している様子もなくそんなことを言った。その発言に、俺と降渡も行動が一瞬停止した。同じ言葉に引っ掛かっているな……。血の繋がりってどういうことだ?
「なんだ、お前は知ってたか」
龍さんの声が吹雪に向く。
「うん? まあね。知ったのは警察入ってからだよ。内部に入れば公然の秘密って言うか、有名な話みたいだし」
吹雪は立ち上がり、勝手にカウンターの中に入った。そして棚を漁ってお茶を作りはじめる。
龍さんはそれを横目に黙認してから、カウンターに額をつけた俺と、吹雪の言ったことを噛み砕いているためか黙っている降渡に目を遣る。
「で、お前らは知らなかった、と」
問われて、口をもごもごさせるのは降渡だ。
「いや、知らなかったっていうか……うん、知らなかった」
「降渡、減点三。知った仲だから慢心してたな」
「うっ……」
突きつけられた評価に、降渡は苦虫を噛んだ。龍さんは警察を辞めたあとは探偵業をしていた時期がある。
そのため、私立探偵の降渡は『二宮龍生の後継』と目されることが多い。俺が黙っていると、龍さんがぼやき半分の響きで言った。
「俺んとこで愚痴ってったってのは、話せってことだからな。訊くか? 流夜」
龍さんと在義さんは幼い頃からの付き合いと聞く。言わずとも通じる阿吽の呼吸もあるのだろう。
俺は面を伏せたまま、軽く頭を上下させることで答えた。
「在義の嫁さんが亡くなってるのは知ってるよな? 嫁さんは、在義が保護した、身の上不明の子だった。そのときには記憶喪失だったとかで、なにもわからなかったらしい。名前も年齢も不明だ。外見からして、当時二十歳くらいっつー予測が出ただけだ。その子は妊娠していた。父親が誰かもわからなくて、警察内では扱いに困ったみてーだな。そこに在義が出てきてよ。身元引き受け人になって結婚するって言い出しやがった。その頃あいつは警視庁のホープってヤツだ。出世街道まっしぐらだったのを、そんなことをのたまった所為で警視庁にいられなくなった。県警に移動出来たのは、まあかなり強引な引き抜きみたいなモンだ。今じゃまかり通らねえよ」
――龍さんの簡単な説明を聞いて、俺の中では腑に落ちるものがあった。
華取の家で在義さんと一緒に食事をしたとき、娘がいい子過ぎるとか、反抗期がないとかいった愚痴をこぼしていた。もしも華取が自分の出生を知っていたなら、そういう性格になったのも肯ける。
――あの子は、十中八九知っているだろう。
「そんなわけでよ、血の繋がりがねえけど在義は堂々と娘を褒めちぎるとこもあるし、娘の方も素直な性格に育っただろ? お前、娘ちゃん弄んだらもれなく俺の拳骨も付属するからな」
警告だとばかりに、こつん、と後頭部を軽く叩かれて、思考に沈んでいた俺の意識は現実に戻った。
……慕っていた在義さんの秘密に、驚いていないわけがない。奥さんが亡くなっているのは知っていたけど、在義さんのことよりも、華取の心配の方が先に立ってしまったことも否定できない。
華取が……自分の出生を知りながら、あんなに頑張っていたのか?
こみあげるものが確かにあって、顔をあげて口元に手の甲をあてた。そうでもしないと何か――言ってしまいそうだった。
どうして俺たちに黙っていたんだと、龍さんに怒鳴りつけてしまいそうだった。そんなことしたら絶対に沈められるけど。
「吹雪、気が済んだらてめえの分だけ持って出ろ」
「はーい」
龍さんが話している間――俺が物思いにふけっている間に、一つ紅茶を作った吹雪は大人しく元いた席に戻った。
降渡が問いかける。
「……なあ、ふゆ。さっきの話、お前はいつ知ったんだ?」
「在義さんと娘さんのこと? いつって言うか……警察に入って、風の噂、っていうのかなぁ。たまに聞こえて来たんだよね、そんな話が。在義さんのことだったから、過去の資料調べてみたら合致するのがあったんだ。内部資料から知ったことだから、僕が二人にそれを話したら情報漏えいになっちゃうでしょ? だから言わなかったけど――流夜と降渡はあくまで『外側』の人間だから、知らなくて当然だと思うよ」
その話を聞いても、俺はまだ動けなかった。正直、衝撃が大きすぎた。今すぐあの子に逢いたい。
あの子に言った『大丈夫だ』という言葉を、もう一度、今度は違う意味でかけてやりたい。学校でも文句も反抗もなく、素直な生徒でいるあの子は――どんな気持ちを抱えているのだろう。
黙り込む俺を見て、両隣の幼馴染二人は何を考えたのか。ふと、吹雪が言った。
「あ、ごめん、僕忘れ物した。戻ってくる。……流夜、ちょっと付き合ってくんない?」
吹雪に言われて、俺は上手く思考が廻っていない頭で肯いてしまった。――その様も、幼い頃から知る三人には観察されていた。
《白》を出て少し歩くと、吹雪の勤める上総警察署に着く。俺が、目立った事件がなくても毎夜来ているのはここだ。
涼しくて心地いい気温だ。ときおり吹き抜ける風は緑のその先に手を繋いでいる。
――手が置かれた、あの子の長い髪。触れたのは、一瞬だけ。
自身の右手に視線が落ちた。あの一瞬は、この先に、あの子はいた――……?
物思いにふけっていると、隣の吹雪が、特に起伏のない声で話し出した。
「龍さんが話したこと、お前が気にすることじゃないんだよ」
「………」
「どうしたのさ、流夜。そんなに娘さんのこと気に入ったの?」
「………」
答えられない。
気にしないことに、なんて、俺にはもう出来そうにないからか。
吹雪はため息を一つ吐いた。目の前はもう吹雪の職場だ。
「偽でも仮でも、なんでもいいんだけどさ。マナちゃんが仕組んだことなら僕は少なからず責任感じるけど。……流夜がその子との関係をどうするかは、流夜が決めることなんだからね」
ギイ、と少しだけ、押し開きの扉が軋む音がした。だがそれ以上はない。どうしたと顔を顔をあげると、扉の向こうに長い黒髪の少女がいた。驚いた顔でこちらを見上げている。
「……華取?」
今すぐ逢いたいなどと思っていたから幻でも見てしまったのだろうか。……え? いますぐあいたいってなに? どこの国の言葉? 取りあえず頭が回転してくれなくて、俺は吹雪の愉快そうな視線にも気づかなかった。
「この子がさおさん?」
言って、吹雪が一気に扉を開けた。華取はびっくりしているためか、すぐには反応しなかった。吹雪がまた問いかける。
「華取咲桜さん?」
「えっ、あ、はい」
華取は泡喰ったように肯く。吹雪は華取を眺めながらにっこりした。
「初めまして。流夜の友達の春芽吹雪です」
「か、華取咲桜ですっ」
丁寧に頭を下げる華取を見て、吹雪は唸った。
「ふーん。僕の方が美人だね」
「………」
だからこいつは……。俺はやっと頭が廻り出して額を押さえた。こういうことを平気で言うんだからな……。吹雪のいつもの暴言は、最早俺の気付け剤か。
華取は、いきなりの吹雪の自分褒めに面喰らった様子だ。まじまじと吹雪を見ている。
面差しが愛子によく似ている吹雪が親戚だと気づいているからかもしれないが、何故吹雪ばかり見る。俺は不機嫌な声で割って入った。
「吹雪、そういうことを言うな。どうしたんだ華取、出歩くには時間が遅い」
「あ、父さんのおつかいです。ここへの急の届け物を頼むって電話が来て。先生は?」
お仕事ですか? と首を傾げる華取。……在義さんは娘にそういうことを頼む人だったのか。あまり、プライベートで関わる人を仕事の方へ関わらせるのをよしとしない人だと思っていたけど……余程、急ぎの用事だったのかもしれない。
「似たようなものだ。帰るのか?」
「はい」
「送る」
「え?」
俺にいきなりの言葉に、華取は間の抜けた声をあげた。
「車で来てるんだ。もう遅いから送っていく」
「いや、先生も用事があって来たんじゃないんですか?」
まだ署内にも入っていないですよ? 華取の顔がそう問うようで、俺は素っ気なく返す。
「今日は吹雪について来ただけだ。もう用も終わったから、問題ない」
「そう、なんですか?」
どうしたものかと、華取を困らせてしまったみたいだ。そんな中、吹雪が口を挟んだ。
「降渡はどうするの? 一緒に来たんでしょ?」
「あいつはどうせこれから仕事だ。歩かせればいい」
俺はいつも通りの言い分だけど、華取は困った顔をした。他人に関心がなさすぎる、とはよく言われる評価だ。
「それは申し訳ないですよ」
「なにも遠慮することはない」
「遠慮しますよ。お友達もいるんでしょう?」
「時間潰しに龍さんのとこを使う様なヤツだ。気にすることない」
「先生そんな言い方……龍さんのとこ、って、《白》ですか?」
華取がそこに反応した。
「降渡に連れて行かれて、さっきまでいたんだ」
「そうなんですか。在義父さんに、まだ行っちゃダメって言われてるんですよ。仕事関係の人しかいないから、って」
在義父さん。華取は在義さんをそう呼ぶ。今更ながら、華取の呼び方の重みがわかった気がする。
「《白》に行ったことないのか?」
「はい。二十歳になったら解禁だって言われてます」
「そうなのか……」
山間の村で育って、中学のときにこちらへ出てきて以来警察に首を突っ込んでいるので、俺たちはそういう年齢制限にはあまり意味を感じてこなかった。
だが、遙音を見つけてしまった身として、在義さんの気持ちもわかると思う。
在義さんは父親として、華取の心配のために行動に制限をかけているのだろう。高校生を巻き込むような荒っぽいヤツが、龍さんの職場を使うことが許されるわけないが。俺たちも、遙音の夜歩きはさせないようにしている。
……遙音と同じ年の頃の自分たちは棚上げにして。
……………………。
「華取。車、《白》の駐車場にあるんだ。少し店も見てみないか?」
「えっ」
食いついた。一瞬、華取が目をキラッとさせた。どうやら、立ち入り禁止の龍さんの店には興味があったようだな。
傍らに立っていた吹雪はいつの間にか腹抱えてしゃがみ込んでいた。ぷははっ、あの流夜が女の子の気を引くために頑張ってるー。やべーやべー、流夜ってこんなだったのかよー。必死に声には出さないようにしているが、内心大爆笑。華取に必死になっている俺は、いつもは気づくそれにも気づく余裕もない。
龍さんの店を見られるチャンスにだろうか、目を煌めかせた華取だけど、すぐに何かに気づいたように顎を引いた。
「でも……父さんに知られたら心配かけるし……それに、帰りは父さんも一緒になる予定ですから――」
「俺から連絡する。在義さんに心配はかけさせないから」
「先生……」
そこまで心配してくれるなんて――華取の唇が小さく動いた。
「先生って、本当に先生なんですね」
「……は?」
どういう意味だ?
「いえ、深夜徘徊みたいなことしてるのに理由聞いたら怒らないし、心配して送ってくれるって言うし。先生みたいな人がいるから、頑張れる子っているんですよね、きっと」
大分違う。
確かに藤城にだってそういう教師もいるけれど、俺はそんなタイプではない。深夜徘徊を見つけたら教師として即捕縛するし、なにかあって送るようなことがあってもここまで食い下がらない。でも、華取には自分でないと駄目だ。
……いい方向に誤解してくれているみたいだが、何故か気分はよくない。
「……言っただろう、俺が大丈夫にするからと」
同じ言葉を、華取に言った。あのときは、深い意味などなくて。
今は、底の見えない意味があって、自分でも読み切れていなかった。
「えと……じゃあ、お願いします……」
華取が頭を下げた。
先に帰るのだったら父さんに連絡をしないと――とスマートフォンを取り出した華取の手を、そっと止めた。
「俺が言い出したんだ。こちらから連絡しておく」
出来るだけ穏やかに言うと、華取はこくりと肯いた。
「吹雪、先に帰っている。降渡には言っておくから」
「わかったわかった。気を付けて」
吹雪は未だに愉快そうに顔を歪めている。俺はそれにツッコむ余裕もない。
吹雪を残して、来た道を戻る俺の隣に華取が並ぶ。……なんだ、この妙な感じは。妙に落ち着いてしまうというか……華取が隣にいるのが馴染んでいる気がする。
「いいんですか? 春芽さんは……」
「構わない。本当ならあいつもあがっている時間だ」
……いつもなら、俺がここに来ている時間でもあるが。
「警察官なんですね」
「ああ。キャリアのくせに一年目で上に目ぇつけられて飛ばされた」
「えっ……父さんみたいな人……」
華取の眼差しが大きく揺れたのがわかった。
華取の素直な感想には同意するが、しかし否定もしておかなければいけないだろう。
「在義さんとは違う。吹雪は行動原理が面白いことなら、で、行動理由は面白そうだから、だ。在義さんと並べるととんだ失礼になるからしない方がいい」
「……どんな方ですか」
華取の声が平坦に聞こえた。
あまり一般常識をあてはめてはいけない方だ。
「そういう奴だ。基本、人をからかいしかしないから、華取も、あいつが言うことは本気にしない方がいいい」
「……肯いていいのかわからないですけど、わかりました」
話しながら歩いているうちに、街角の喫茶店に着いた。外観は壁に煉瓦が埋め込まれている造りで、看板はない。
店の名前は《白》だけど、それが伺えるものは一つもない。龍さんは、あくまでここを同業者が使う場所としているから、仲間連中に通じればいいのだ。
「華取、入らないのか?」
俺がドアの前に立っても、華取は少し遅れた場所で立ち尽くしている。
「や、やっぱ私、やめといた方がいいんじゃ……」
言葉がおっかなびっくりといった感じだ。……在義さんの言いつけは守るということか。俺なんかだったら、そこまで気にする必要はないのに、と思ってしまう。
「大丈夫だ」
俺がそう言うと、華取はわずかに目を見開いた。何かに驚いているように見える。
どうかしたのか……思いつつ、華取が道を選びやすいように手を差し出した。華取は俺が伸ばした手に、刹那の躊躇いを見せた後、自分の手を重ねた。
その素直な反応に今度はこちらが驚いたけど、すぐに握り返した。――誰かに手を差し出したことは初めてで、当然にように、手を重ねられたのも初めてだった。
「ただいまー」
俺の声と同時に、猫の鈴が鳴る。
「お、りゅうおかえりー。って、え?」
カウンターの中で洗い物をさせられていた降渡が、笑顔で迎えた。俺の後ろから入って来た華取を見て、その瞳は点になった。
「誰?」
「アホ。在義んとこの
コン、と軽く降渡の頭に、龍さんの拳が落ちた。龍さんは華取のことを『娘ちゃん』と呼んでいるのか。
「久しぶりだな、娘ちゃん。ここに来ていいのか?」
龍さんはカウンターを出て華取に話しかける。
「お久しぶりです。今日はフライングというか……龍生さんのお店が気になってきちゃいました」
首を傾ける華取の隣にいる俺は、鋭い視線を浴びた。
「在義に黙って連れ込んだか」
「今から言い訳するつもり」
薄く笑って、華取を席に導いた。
「在義さんに電話してくるから、少し待っててくれるか?」
「あ、だったら私も話して――」
「大丈夫だから」
そう言い残して、俺は店を出た。
+ side咲桜
先生が出て行ってしまったその背を見送っていると、龍生さんがテーブルに何かを置いた。
「まさか流夜に連れられてくるとは思わなかったよ」
笑いを噛み殺している龍生さんは、どうやら紅茶を淹れてくれたようだ。
「私も……まさか先生が父さんと知り合いとは思ってませんでした」
「まー、あいつら秘密にしてるからなー」
やっぱりそうなんだ。たまに、家に置いてある書類なんかのお届けは頼まれていて今日もそれだったのだけど、父さんは仕事の方には私は関わらせないっていうスタンスだった。
なのに、在義父さんの方にいる先生にこんな風に関わっちゃってよかったのかな……? 仕組んだのはマナさんだけど。あと、たぶん私も、先生へのお弁当作りはやめたくないと思ってる。
「ねーねー、咲桜ちゃん? 咲桜ちゃんだよねっ」
やってきたのは、先ほど龍生さんに黙らされた、先生よりも長身の男の人だった。
漆黒の髪は鴉の羽のようで、野性的な容姿に人懐っこそうな瞳が見える。真っ黒のスーツに、ネクタイはせずにダークカラーのシャツ。こういう人を言い表すのは……たぶん、美丈夫とかいうやつだ。
「はい、華取咲桜です」
「雲居降渡。龍さんの弟子で、流夜の馴染み。よろしくー」
私の手を取ってぶんぶん振っている降渡さんが、急にバランスを崩した。
「勝手に触ってんじゃねえよ」
先生だった。どうやら背後から蹴りを入れたらしい。え……先生ってそんな感じでもあるの? でも喧嘩とかそういう風でもなく、幼馴染とじゃれている風に見える。微笑ましいなあ。またもや新発見だった。
「りゅう……」
降渡さんに恨めしそうな顔で睨まれてもどこ吹く風の先生は私を見て来た。
「在義さんには言ってきた」
「怒られ……ませんでした?」
「大丈夫だ。降渡が傍にいるとウイルスがうつる。帰ろう」
「俺ってウイルスなのか⁉」
騒ぐ降渡さんを無視して、先生はまた私の手を取った。え、あの、先生? 困りながら立ち上がったところで、はっと思いだした。
「あのっ、ご馳走様でした」
「そこの馬鹿弟子からいただくから気にすんな」
「いや、それは」
申し訳ないです、と続けようとすると、先生が振り返った。
「弁当の礼だと思ってくれればいい」
その言葉を聞いてか、降渡さんが一度黙った。そこまで言われては私も黙るしかない。
龍生さんと降渡さんに頭を下げてお店を出た。
「すみません、先生」
「何がだ?」
《白》の裏手側に設えられた駐車場まで歩く間、もう一度謝っておいた。けれど先生はなにを言っている? と隣を歩く私を不思議そうな顔をして見て来た。
「お友達といたところに私が割り込んじゃったみたいな形になっちゃって……」
「そんなことはない。あいつらとは別に友達してるわけじゃないし。俺が言い出したことだしな」
そう言って私を見下ろす瞳は優しかったけれど、やはり『神宮先生』とはどこか違う気がした。
……なんだかドキドキするのは気のせいだろうか。気のせいか。
「……ありがとうございます」
「ああ」
「明日もお弁当持って行っていいですか?」
「作ってくれるのか?」
「父さんの分も一緒に作ってますから、いつものことですし」
私が言い終わるより先に、先生の手が伸びてきた。
その意図がわからず立ち止ると、手は一度中空で停止して、それから私の頭に触れた。風でなびいた髪を整えてくれたみたいだ。
……なんでこんな素で女子の扱い? 慣れているんだ。いやまあ、先生のこのパッと見だけでも、女子は放っておかないだろうけど……。
「ありがとう」
お礼を言うべきは私の方じゃないかな。間近な先生に上手く口が廻らず、軽く頭を上下させるしか出来なかった。
……『神宮先生』じゃない顔しか、あの日以来見ていない。
先生、なんだけど、もう、『先生』ではない気がするのは、なんでだろう。
+ side吹雪
「あれー、流夜もう帰っちゃったのー?」
猫の鈴を勢いよく鳴らせてやった。まだ二人ともいるかなーとも思ったんだけど。
「帰ったよー。咲桜ちゃんと一緒に」
カウンター席でコーヒーを飲んでいた降渡が答えた。なんだ。もういないのか。
「本当に送って行ったんだ」
「お前が驚いたツラすんなよ。仕掛け人」
降渡のにやり笑いの野次に、僕はその隣に座った。
「咲桜ちゃんがいることと、帰る時間を知っててわざとさっき出て行ったんだろ。りゅうを試すためか?」
その
「咲桜ちゃん、僕が出てくるのと入れ違いで入ったからね。今までにも在義さんのつかいで見てるから、まあ時間くらいわかるよ。長居する理由も、
「お前の時期感覚ってマジ怖―な」
「なに言ってんの。咲桜ちゃんが来るように仕掛けたのは降渡でしょ?」
「あ、ばれてた?」
「当然。咲桜ちゃんが来るように、マナちゃんあたり使ったんでしょ。流夜が咲桜ちゃんと一緒にいるとこ見たかったんじゃないの?」
「あららー。全バレかよー」
かはっと、乾いた笑いをもらす降渡。マナちゃんは降渡のところの常連客だ。
マナちゃん本人がよく問題の渦中にいる人だけど、人の世話を焼くのもすきだったりする。
流夜は頼み事自体しないけど、降渡や僕の頼み事は聞いてくれることが多い。そして降渡は、マナちゃんの頼りどころが絶妙。僕の方を見てカウンターに頬杖をつく。
「りゅう、気づいてた?」
「うーん。流夜が気付かないはずないんだけど、気づく余裕がなかったって感じかな。もう咲桜ちゃんしか見えてないよ、あれ」
「わあ、重症」
「だね」
二人そろって流夜を笑う。流夜って学生時代から事件頭だから、女の子に興味あるか心配なくらいだったんだよね。でも咲桜ちゃんへのあの態度は――
「……いいのかな、あの二人。近づけちゃって」
ふと、らしくもなく僕の声のトーンが落ちていた。
「ただでさえ、流夜色々大変なのに。それに咲桜ちゃんのことまで抱え込んじゃって。反対に、生まれに負い目のある咲桜ちゃんが、流夜の色々まで受けちゃうことになったら、なんか嫌だよ」
僕ら周囲の人間から見た流夜の性格の根本に、『他人を
……咲桜ちゃんだけ、特別例外なんだろうか。
降渡はのほほんと答える。
「そうだなー。でも、りゅうが女の子に本気になったってのはいいことだと思う」
「本気……だと思う?」
「結構思ってる。あいつ、俺が咲桜ちゃんと握手してたら『勝手に触るな』とか言って来たんだぜ? 信じらんねー」
「へー、流夜って独占欲強いタイプなんだ。知らなかった」
「あいつ、まともに彼女いたことねーかんな。どうするかは二人次第だろ。第一、今は同じ学校の教師と生徒だし。咲桜ちゃんには彼氏いないって聞いてるけど、咲桜ちゃんの気持ちがどう動くかにもよる。りゅうのこと、恋愛対象になるかなんてわからん」
現実に迫る問題はこれだろう。降渡は口にした。
確かにそうだね。僕は肯いた。
「しかしまー、在義さんの邪道優等生を継いだのは明らかにりゅうだよなー」
「そうだねぇ。龍さんの正道不良は降渡が継いでるし。僕もなんかないかなー」
「愛子は?」
「マナちゃんは現役だからそんなこと言ったらぶっ飛ばされる」
「ぶっ殺されるの間違いだろ」
お前ら冗談じゃ済まねーぞ。言い合っていると、龍さんからそんな注意を喰らった。
確かに、マナちゃんにはどこから知られるかわからない。さっき淹れた勝手にブレンド紅茶はすっかり冷めていて、香りも消え失せている。
良い香りの代わりに見せてもらった、流夜の必死な顔。……あんなの、見たのはいつ以来だろうね。
+ side流夜
「どうした?」
助手席でそわそわしている華取に声をかける。
落ち着きのない様子に、なにか嫌な思いでもさせてしまったかと、刹那不安になった。
……そもそも、勝手に連れてきてしまったし。在義さんに連絡済みとはいえ……。華取が、弾かれたように顔をあげた、
「いえ……なんか落ち着かないなー、と。神宮先生と話したこともあまりなかったですし……」
ああ……そういやそうだな。むしろ、ほぼ初対面に近い相手に緊張するなと言う方が無理だろう。
華取にとって俺は、教師と父親の知り合い、両方として相手にしなければならないから戸惑うこともあるだろう。
「そうだな。まあ……申し訳ないが、在義さんの娘だと知っていたから、極力関わらないように、俺もしていたし」
「なんか……すみません」
「謝ることない。俺も、警察事案に首突っ込んでるなんて学校にバレたら面倒だから黙っているしな」
「ああ……、そうですね。さきほどの……吹雪さんは警察の方なんですよね? 先生はならなかったんですか?」
「ならないな。苦手なんだ、ああいうしがらみ全開のところ。……最初は警察に関わる方も、探し物さえ見つかればすぐに辞める気でいたんだが、そうもいかないところまで関わってしまった」
「探し物?」
「ああ。探すために、警察に関わるのは一番手っ取り早かったんだ。その関係で在義さんにはたくさんお世話になった」
「そうなんですか。……なら、うちに来てもよかったのに。あれ? もしかして来たことあります?」
「行ったことはないよ。一昨日が初めてだ。でも、もっと早くに行けばよかったとも思った」
「ですか?」
「ああ。在義さんの面白い面を見ることが出来た」
洗面台で寝るとか。そして娘に助けを求める情けない声。怒らずに対応する華取は、出来た娘だと思った。在義さんがべた褒めするのも肯けてしまう。
「また来てくださいよ。父さんの知り合いって形なら大丈夫でしょう?」
少し、華取の声が明るくなったように聞こえた。それに、俺もどことなく安心した。この子に、あまり息苦しい思いをさせるのは嫌だったから。
「いいのか?」
「はい。うちは親戚とかいないから、来てくれる人がいると嬉しいんですよ」
「いや……俺が行くと、顔見知りになった降渡や吹雪までついてくるぞ?」
「大丈夫ですよ。大人数の料理は慣れてますから」
「……華取は器が大きいな」
見習え、と龍さんあたりにどやされそうなくらいだ。
ほっこり笑う華取。自分の出生もなにも、受け容れての上の言動なのだろう。親戚がいないというのも、母方には望めないことだ。在義さんの両親は、早世していると聞いている。そういうことも含めて、親戚がいないと言い切ることが出来る。
この子は、強いな。そう思った。
だから、出来たら――
「あまり無理はするなよ」
「え?」
「華取は頑張り過ぎだ。学校でも。適度に力を抜いていいんだからな」
「………」
反応がない。気に障ることを言ってしまったかと思いそろりと窺うと、華取は口を半開きにこちらを見上げて固まっていた。一瞬ドキッとした。……まずかったか?
「……華取?」
「……あっ、す、すいませんっ。えーっと、今……えと………」
華取の声が嗚咽に変わるのがわかって、路肩に車を止め停車ランプをつけた。
「どうした? ……すまない、嫌なことを言ってしまったか?」
華取は口元を抑えて首を横に振った。違うと言いたいようだ。
「いやな、ことなんかじゃなくて……そう言ってもらえたの、初めてで……」
「………」
「今まで、よくがんばってるね、とか、がんばっててえらいね、とは、言ってもらってきました……。でも、そういう風にゆるしてもらったのは、はじめてで……」
がんばらないことを、ゆるしてくれたのは……華取の声は小さく、途切れ途切れだ。
「……せんせい、私の母さんのこと……知ってるんですか?」
華取の震える声と瞳。
俺は、黙ることで答えた。
+ side咲桜
ああ……やっぱり知っているんだ……。それでも、私を在義父さんの娘として見てくれる。ずっとずっと、そのためにがんばってきた。
「がんばって、ました……。がんばらないとわたし、自分が生きてることを、ゆるせませんでした……。母さんを死に追いやったのはわたしです……わたしが、いたから………父さんが再婚しないのもわたしがいるからです。だから……」
料理も、洗濯も、家のことは父さんの手をわずらわせないよう頑張った。出来ることはなんでもした。そうしないと、自分が生きていていいと思えなかった。
記憶喪失、出所不明な母の許に生まれた自分。父が誰かもわからず、また母の正体が誰かもわからず。
自分の仕事を犠牲にしてまで結婚した相手は死んでしまい、血の繋がらない子供だけが残されて。
父さんの負担にしかなっていない。いついらないといわれるかわからない。
だから、がんばるしかなかった。
「………」
先生の手が、また私の頭に乗った。さっきは髪を整えてくれた指。でもその手は頭の上で止まらず、背中まで廻った。
そのまま抱き寄せられて先生の胸に額がくっついた。急に暗くなった視界にびっくりしていると、囁くような声が聞こえて来た。
「……いてくれて、ありがとう」
吐息のようなその声に、言葉に、心臓が跳ねた。
大事な人が、出来たら。
……もし叶うなら、大事な人からもらいたいなー、なんて、密かに願っていた以上の言葉をもらった気がする。
誰にも言う気はなかった願い。言ってはいけないと十字架をかけていた言葉。
「……ふっ………」
そのまま泣き出しても、先生は咎めはしなかった。ただ、指先に熱がこもったように感じて、あたたかさは浸み込むようだった。
……誰かの前で泣いたのは、笑満と夜々さん以外では初めてだった。
+ side流夜
「……なんか、在義さんにぶっ飛ばされそうだ」
華取の涙が引いた頃、運転を再開して思わず苦笑気味に言ってしまった。
華取は驚いたようにこちらを見た。
「えっ? あ、私が泣いたからですかっ? 傍目にわかりますかっ?」
「目が真っ赤だ。瞼は腫れているし。俺が泣かせたと思われる」
「ごめんなさいっ、父さんは私が説明しますからっ」
「だから――」
信号が赤になった隙に、正面から華取の顔を見て右の頬を捉えた。
「そういうことは俺に任せろ。偽婚約者でも頼れよ」
幼馴染や弟以外の誰かに頼られるなんて煩わしいだけだった。そんな俺が、まさか生徒にこんなセリフを吐いているなんて。なんか、自分が色々変わっているような気がする。変な方向に。
華取はぎこちない動きで肯いた。
「よし」
否定されなかった。それだけで、満足した気分だった。
「へえ、それで私の迎えを待たずに咲桜を連れてきてあまつさえ車中で泣かせたと。……なにをしたんだ君は」
在義さんはいつだって声を荒げることはない。しかし絶対零度の眼光を持った異端の刑事には、俺も若干負け気味だった。
ただいま、リビングで正座させられています。在義さんは俺の前に仁王立ち。
「すみません――」
「謝るようなことをしたのか? 親の私に謝るようなことを咲桜にしたのかい? ――流夜くん」
冷えたと言うよりも凍てついた声で名を呼ばれ、さすがに頬が引きつる。やっべー人を怒らせてしまった……。在義さんが本気で怒ってるの、初めて見た気がする。
「なにもしてはいません。話の中で華取が泣くことを言ってしまっただけです」
「へえ?」
「……申し訳ありません……」
在義さんに睨まれれば謝るしかない。しかし内容は話せない。というより、話したくない。絶対に。
在義さんは追及してこず、しばらく睨んできた。う……まさか在義さんにこんな瞳で見られる日が来るとは……。自分から掘った墓とはいえ、尊敬している人なだけにショックだった。でも、どうしてか引き返す気もなかった。
「咲桜。なにも危ないことはなかったね?」
「ないよっ。だから先生睨むのやめてってっ」
お茶の準備をしてくれていた華取が吠えると、在義さんは取り調べ以上に剣呑な瞳でこちらを見てきた。それから一つ、息を吐いた。
「……なら、いい」
在義さんはまだ不満気味に顔をそむけてダイニングの椅子についた。ようやく解放された……。
立ち上がって、在義さんに一度頭を下げた。そのまま玄関の方へ歩き出すと、華取が小走りで寄って来た。
「じゃあ、華取。俺はこれで」
玄関に降りたところで、華取を振り返った。
「帰っちゃうんですか? お茶だけでも……」
「今日はもう帰るよ。……あまり在義さんの、娘との時間を奪うともう逢わせてもらえなさそうだから」
間取り的に、玄関からはダイニングの一部が見える。まだ機嫌の悪そうな顔で華取の淹れたお茶を飲んでいる在義さんの目を盗んで囁くと、華取は驚いた顔をした。
たぶん俺の言った言葉の意味がちゃんとわからなかったのと、『奪う』とか言われたことにもびっくりしたのだろう。恋愛事に免疫はなさそうだな。……恋愛事? いや、そもそも俺、どういう意味で今の言葉を言った?
……最近、俺の口と脳は連動していない気がする。こんな体たらく、弟に知られたら絶対バカにされるから早くどうにかしないとな……。
+ side咲桜
「それじゃ。また明日」
「はっ、はい。また」
玄関で先生の背を見送るのは妙な心地だった。また先生がここに帰って来そうな気がするからだろうか。
自分の頭に手を置いてみる。一昨日も、あの大きな手は頭に乗った。私は小さい頃から背が高い方なので、あまり頭を撫でられる経験はない。嬉しい。……じんわり、あったかさがただよってくる。
「………」
どうしてあんな言葉をくれるんだろう。どうしてあんなに優しいんだろう。
「……やっぱりいい先生だ」
教師は続ける気はないみたいに言っていたけど、私は十分適職だと思う。もったいないなあ。
「………」
ねえ先生。ご飯、ちゃんと食べてくれてますか? どんなものがすきですか?
明日、訊いてみようかな。だって、明日がもう楽しみなんだ。……言葉一つで、逢える約束をしてしまったからかな。
+ side流夜
車に乗り込んで、思いっきり深く息を吐いた。在義さんに睨まれることを重ねてしまった……。
それでもさっき、華取と一緒にいてよかったと思う。華取が……泣いてくれてよかったと思う。
やっぱり華取は自分を押し殺してがんばっていた。生きていることをゆるしてもらうために。
「……そんなの、俺がいくらでも支えてやるのに」
頼ってくれたら、いつだって華取の味方でいるのに。
でもそれは、きっと教師の領分ではないところまで感情がある。領分ではないそこまで、俺は華取に踏み入ってしまった。
「………」
この際だ。愛子が敷いてくれた『偽婚約者』の位置――思いっきり利用させてもらおうじゃないか。
+++ side咲桜
「こんにちはー」
「ああ」
そろりと開けた資料室の中では、先生は机に置いたパソコンに向かっていた。授業関係……だったらやばいよね?
「入って大丈夫ですか? 学校のお仕事されてるんだったら出直してきますけど……」
「問題ない。向こうの仕事だ」
あ、あちらの仕事を学校に持ち込んでるんだ……。いいのかな? 不安に思ってしまうけど、先生はすぐにパソコンを閉じた。
「あの、今日は私だけじゃなくて……」
「こんにちはっ」
私の後ろから現れてハキハキした挨拶をするのは笑満だった。先生は驚いた顔をしたけど、すぐに状況を理解してくれたみたいだ。笑満には話しておくと伝えてあるから、『先生に』ではなく用事があるとわかってくれたらしい。こんなことを言った。
「お茶も出ないとこでよかったら」
「いーですよ、そんなの。あたしは咲桜のおまけなんですから」
ね、と笑顔を向ける笑満に促されて、私は今日のお弁当を渡す。
「ああ、ありがとう」
「いえ。あの、すきなものとか嫌いなものあったら教えてください。気を付けるので」
袋を手渡しながら言うと、先生は少し考える素振りを見せた。
「嫌いなものはないな。何でも食べないと投げ飛ばされたから」
「投げっ⁉」
「飛ばされた。厳しい時代を生き抜いたじいさんに育てられたからな。その辺りは厳しかった」
す、すごい教育方針だ。スパルタってこういうことを言うのだろうか。
「華取が作ってくれるものは全部美味いから、どれもすきだ」
「………」
いきなりべた褒めされて返事に困る。むしろ一気に顔が熱くなって頭から湯気出そうだ。それを隣から笑満が、にまにましながら見ていたことにも気づかなかった。
「先生、あたしにも普通に話してくださいって言ったら、そしてくれます?」
「普通にと言われても……」
「それとも、その顔は咲桜限定ですか?」
「………」
笑満のひっそりとした問いかけに、先生は一瞬真顔になって、軽く口元を緩めた。
「ああ、そのつもりだ」
「そうですかそうですか。それは重畳」
あの、日本語変換をしてほしい……。二人のやり取りの意味がわからなくて、私は疎外感に引きずられそうになった。けれど、笑満がやたら楽しそうな明るい顔で振り返った。
「咲桜! あたしいいよ、先生なら」
「? なにが?」
振り向いた笑満の、満面の笑みの宣言に瞬く。
「咲桜の婚約者。先生ならガチでもいいよ」
「こ………ちょっ、な、なに言ってんの!」
はっきりと言われて、慌てて笑満の口を塞ぎに走った。学校でなにを言ってるんだこの子は!
「はがへ、ふぇんふぇ」
「お願いだから黙って! 誰に聞かれてるかわからないんだから!」
仮とはいえ、そんな関係はまずいことくらいわかっている。必死の形相で言うと、笑満は肯いた。私が手を離した直後に吹き出す親友。
「あははっ、咲桜必死過ぎー」
「必死になるよっ。先生の迷惑にだってなるじゃん!」
「俺のことは気にしなくていい。別にすぐに教師辞めても構わないし」
机に肘をついて、手に顎を載せてこちらを見ている先生がとんでもないことを言った。
「先生っ」
私が蒼ざめて咎めると、先生はしかしどこも気にした風がない。
「それより松生。本当に婚約者でもいいのか?」
「え? いいですよ。先生なら咲桜をあげても」
急に話を振られて一瞬間の抜けた顔をした笑満だけど、すぐに人を喰ったように返した。先生はふっと笑みを浮かべる。
「じゃあ、もらおうか」
「先生⁉」
またもや飛び出したとんでも発言に、私は驚きのあまり同じ言葉しか返せない。何言ってんのこの人たち⁉
「お、いいですねー。あたしそっちの先生のノリすきですよ」
しかし笑満は先生と話が合うのか、楽しそうだ。だからなに言ってんだこいつら!
――それが起きたのは、どちらの口から塞ぐか、一瞬思案している間のことだった。
「へー、華取咲桜が神宮の見合い相手だったんだー」
カタン、と音がして、資料室の奥にある、隣の部屋と繋がっている扉が開いた。そこにいたのは男子生徒――藤城主席と称される、夏島遙音先輩だった。
「……!」
私は一気に蒼ざめる。き、聞かれた……⁉ い、今、私が先生のお見合い相手、って言ったよね……?
固まったのは笑満も同じだった。さっきまで饒舌だったのが、驚いているせいか口を結んでしまっている。
「何しにきた、遙音」
――え?
全然慌てていない先生の様子に、また驚く。そんな落ち着いている場合じゃないですよ! けど今、『遙音』って名前で呼んだ……?
「冷てーな、神宮。俺だって誰に告げ口するわけじゃないんだから、話してくれてよかったのに」
夏島先輩は資料室に足を踏み入れ、先生の机に手をついた。その間、私も笑満も動けなかった。
「お前に言ったら降渡や吹雪に筒抜けになるじゃないか」
「あ? あいつらには言ってねーの?」
「………」
先生が黙った。言わなくても知られる、って言っていた二人って、昨日逢った吹雪さんと降渡さんのことだったの?
「えーと、華取咲桜と松生笑満ちゃん?」
夏島先輩がこちらを見てにっこり笑った。
「は、はい……」
私は怖々反応する。夏島先輩は先生の知り合い? 降渡さんや吹雪さんの名前も出ていたし……。
夏島先輩は、私たちに向かって挨拶してきた。
「ハジメマシテー。神宮の知り合いだから警戒しなくていいよ」
「知り合い? 夏島先輩と……?」
私がそろりと先生を見ると、先生は軽く息を吐いた。
「……こいつが小学生の頃からの知り合いだ。口外することもないだろうから、心配しなくていい」
そうなんだ……。先輩は一つ上だから……先生が高校生くらいからの知り合いってことになるのかな?
「えー、神宮ってそんなに俺のこと信頼してくれてんの? 嬉しいねー。でも俺のことそんな風に思っていいわけ?」
「……お前は本当に降渡に似て来たな」
ため息をつきながら冊子でぺしりと夏島先輩の額を叩く。
「先生、いいんですか……?」
盗み聞くような真似をしている夏島先輩に、どこまで話して大丈夫なのだろうか。不安は引いてくれない。
「構わない。どうせどっかから拾ってくるだろう、こいつなら。うちにまで押しかけてくる奴だ」
おうちまで? そこまでプライベートな付き合いなんだ……。
――そのとき、予鈴が鳴った。
「あ、咲桜行かなくちゃっ。次理科室だよ」
「そうだった。それじゃあ、先生。夏島先輩も……」
「固いなー。遙音でいいよ」
「お前もさっさと行け」
先生に小突かれて、夏島先輩は「俺、次自習―」と簡単にかわしている。
賑やかな夏島先輩を残して、私と笑満は資料室を出た。
「あー、急がなきゃだね。走ろ」
時間が迫っている。ここは旧館だから、近道をして行こう。そう思って笑満を見遣ると、その顔は思案気だった。
「笑満?」
「あ――、何でもないよ。早く行こ」
素早くいつもの笑満に戻った。
何でもない、ことはないだろう。
+ side流夜
「ふーん。春芽さんの企みねえ」
「そういうわけだから。口外すんなよ」
「どーしよっかなー」
一通り話を聞いた遙音はにやにやするばかりだ。こういった情報を悪用する遙音ではないが、乱用されては困る。
「お前も後輩苦しめたいわけじゃないだろ」
「そうだけどな」
遙音は少し机から距離を取った。
「今度華取のメシ、また食わせてくれたら黙っててもいい」
「……華取に頭でも下げて頼んで来い」
「やだなー。神宮のを横取りするのがいいんじゃん」
「……お前は吹雪の影響も受け過ぎだ。あまりあいつらみたいになるなよ」
「そこまで影響受けてる気はねーんだけど……。ちょっと気をつける」
じゃーなー、と後ろ手を振りながら出て行った。相変わらず騒がしい……。
遙音が隣の部屋にいたこと、当然承知していた。その上で華取や松生が入ってくるのを止めなかったし、宣誓もさせてもらった。
軽口を叩くのは降渡に似てしまったが、俺たちに続こうとしている奴だ。
自分で俺たちに引導を渡すことは考えても、他人の手を借りてそれをする奴でもない。そして、遙音の導き手になると決めたのも、俺たちだ。
簡単に言って遙音は、『味方』だ。華取は知らないだろうが、在義さんとも面識はある。
……華取とのことを隠すのに手を貸してもらうか。あいつは文句は言うだろうが、言うだけだ。
一度閉じたパソコンをまた開く。リアルタイムで事件が起きたときだけ、この資料室で『
基本的に、家に学校の仕事を持ち帰らないかわりに、学校に私事を持ち込まないようにしているが、火急の場合だけその境界は揺らがせている。
しかし、松生に好印象だったようなのはよかった。なんかさらっと色々言っていたけど……まあ、おいおい。
やはり華取の友達だ。偽モノの婚約者でも、よく思われていたい。
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