3 ……なんで、そんなものを?



+ side流夜


「仮婚約ねえ……」

 旧館の資料室の机に寄りかかって呟いた。藤城学園は旧い学校なので、この旧館は創設当時に本校舎だったところだ。

 新校舎が随分前に建設されて、そちらに充実した設備があるため今は授業では使われていない。俺は教科主任に一応承諾を得て、旧校舎の一室を占領していた。

 資料室と言っても、わざわざ旧館に資料を置いておくのは使い勝手が悪い。もう必要のないものを入れておく、倉庫のような役割をになう部屋だった。「そこでいいなら」と、主任はそんな場所を希望したことを深く追及はしなかった。

 今は、昼休み。華取を待っているところだ。

 ……松生には話すように言うかな……。

 松生笑満は、成績トップクラスの優等生だ。松生はいつも華取と一緒にいるから、注意して見ている一人だった。

 華取が在義さんの娘と知っていたので、無暗に関わらないようにしていた。ああそれから、あまりじーと見るなと言わねば。

 登校してすぐの華取が、廊下にいた自分を観察するような瞳で見ていたのは承知している。目を皿のようにしたその様子が面白くて、つい華取の方を見て笑ってしまったのは俺の失態だ。

 そうしたら華取はびくっと肩を跳ねさせて、逃げるように階段の方へ急いで行った。

 ……まさか、忘れてはいないよな?

 色々と。

 昨日、昼休みにここを訪れるよう約束を取り付けたけど、あの時はかなり眠そうだった。

 まさか眠気に負けて忘れているかもしれない。いや、そもそも昨日のこと事態を悪夢とか思っている可能性もある。

 ……連絡先は聞いてあるから、またそう伝えれば――と、机に放りだされていたスマートフォンに手を伸ばしたところで、控えめなノックの音がした。俺の周りにここでそういうことをする人はいないので、「どうぞ」と答える。

 そろりとドアを引いたのは華取だった。いつもと同じタートルネックのアンダーシャツに制服。……昨日の見合い事件は、俺にとっても夢ではなかったようだ……。

 同じことを華取も思っているのか、俺を見て何度か瞬きをした。

「時間作ってもらって悪かったな、華取」

 華取、と、昨日と同じように呼びかけた。その呼び方を聞いて、華取は軽く息をついた。

「本当に神宮先生だったんですね……」

 やはりまだ信じていないようだった。それで今朝のガン見か?

「ああ、すまないことにな」

 思わず苦笑してしまう。

「いえ……昨日の件には先生の方をこそ巻き込んでしまったようですから」

 華取は言うけど、そんなことは欠片もない。一か所に属さずフラフラしている俺を繋ぎとめておくために、愛子が色々画策してきたのは今までにもあったことだ。

「いや……それについては、もう言わないことにしよう。お互い謝り続けて変な格好になるから」

 お互いが相手を巻き込んだと負い目を感じているのはおかしな状況だ。利害は一致しているのだから。

「……わかりました。先生の言ってた詳細って?」

「ああ。どの範囲まで言っても大丈夫かな、と思って」

「範囲?」

「そう。――仮婚約っつーか、偽婚約、な。華取の周り、友達とかで誰なら伝えても大丈夫か、とかそういったことだ。同じように俺の周りはどこまで話しておくか。愛子は学内には関わってこないだろうけど、あまり口の軽い奴がいたら気をつけた方がいいだろう。その辺りもお互い把握しておいた方がいいと思って」

「あ――確かにそうですね」

 もし俺の知り合いで話を聞いている奴と華取が会話することになったとき、食い違っては不信感を持たれるだろう。反対も然りだ。華取は口元に手を当てて考えている。

「でも……完全に秘密でなくていいんですか?」

「俺は構わないけど……華取が苦しくならないか?」

 友達にも嘘をつかなくちゃいけなくなる。そう言うと、華取は瞬いた。

「そういえばそうですね。私の方では……笑満には言っておきたいと思います。口は堅いですし、面白がってもからかってきても、下手なことは言いません」

 俺が提案する前に名前が出た。華取も松生のことが大事なんだな。

「日義はいいのか? 三人でいること多いだろう」

「頼は駄目です。あいつは別の意味で問題がありますから……」

 華取は厳しい口調で言って、頭痛でも抱えたような顔をした。あいつは基本いいヤツなんだけど……と呟いている。日義に何かあるのだろうか。

 そんなことを思いながらも、深くは突っ込まなかった。俺の側にだって、どれだけ親しくても話したくない奴らはいる。

 ……あいつらに関しては、秘密にしていようが勝手に知られているので、秘密にすることも話すことも意味がないのだが。

「教師には秘密にしてもらいとこなんだが……」

「あっ、そうですよね。大丈夫です、先生には言いません」

 華取が、はっと顔をあげた。

 ……もしかしたら話しておきたい教師がいたのか、弾かれたような反応だった。……何故だか思考の一端がもやっとした。

「先生の方は? 私が知っている人で話しておく人とかいます?」

「いや……俺の方は誰にも言わないことにする。話すとめんどくさい奴らばっかりだから」

 主に、幼馴染二名のことなのだが。

「いいんですか? 先生が抱え込んじゃったりは……」

「元々そういう性格だ。心配しなくていいし、あいつらは話さなくても勝手に知ってる」

「そう、ですか?」

 華取は心配するような眼差しだ。だが俺の仕事は、関係がないのなら本当に知らない方がいいものだ。今知られている奴ら以上に、誰に言う気もない。

「それで――華取の話は?」

「あ、そうでした」

 華取は少し緊張した顔で、こちらへ歩み寄った。足が止まると突き出されたのは、小さな袋だった。

「……これは?」

「お弁当です。先生のお昼ごはんと、夕飯の二食分あります」

「………」

 ………?

 正直――華取の言動の意味がわからず、受け取ることも返事も出来なかった。

「……なんで、そんなものを?」

 わざわざ呼び出しただけでも、華取の個人的な時間をもらってしまっているのに。そんなに気を遣わせてしまったか?

「一応ですけど、仮でも偽でも、ですから」

「いや、そういう負担もかけてしまうわけには……」

「世話焼くのはすきなんです」

「……は?」

 断ろうとした俺を遮って、華取は微笑を見せた。

「最近父さんがしっかりしてきたんで、もう親離れする時期かなって。だから替わりに先生の世話を焼くことにします」

 どんな理論だ。

 そしてそれを少し嬉しく思ってしまった自分、どうした。

「……華取の負担にならないか?」

「なりません」

 即答だった。はっきり断言されてしまっては、継ぐ言葉を見失ってしまう。

「料理はすきですから負担なんかじゃないです。私は先生に護られているという状況ですから、そのお礼みたいなものだと思ってください。毎日持ってきます」

「だからそれはもう気にしなくていい――」

 護られてるとかそういう話はもう終わりで――、そう言おうとしたら、華取の方が先に口を動かした。

「気にしているわけではないです。私の気が収まらないだけで。だから先生は私のわがままを押し付けられているだけです。いらなかったら捨ててください」

 ……そこまで言われては、もう受け取らないわけにはいかない。昨日の夕飯も美味しかったし。

「……なら、ありがたくいただく」

「はい」

 見せる、華が綻んだような笑顔。普段大人びて見えるだけに、その笑顔に漂う幼さがやっぱり愛らしい。……昨日から俺の頭の中は花でも咲いたか? 変な単語ばっかり浮かぶ。

「明日も来ていいですか?」

「俺は構わないけど……松生たちはいいのか?」

「笑満にはこれから話しておきますし、頼は最近落ち着いているんで大丈夫です。疑われないように来ますから」

「……わかった」

「じゃあ、ちゃんと食べてくさいね」

 言い残して、華取は資料室を出るために背を向けた。思わず、俺から呼び止めた。

「はい?」

 振り向く華取に、刹那、これは言ってもいいのだろうか悩んだ。だが、考えるより口をついてしまった。

「いつになるかわからないけど、弁当の礼がしたい。何か考えておいてくれないか?」

「えっ、い、いいですよ? 私がすきでやってることなんですから」

「それこそ俺の気が収まらん。……愛子に言われたんじゃないか?」

 そう問うと、華取はしまったというように顔をゆがめた。

「やっぱりか。愛子の頼みだったら断りにくいよな」

「べ、別に私、マナさんに弱み握られてるとかじゃないですよっ? マナさんに提案されて、私がやりますって言っただけで――」

「それでも、愛子がけしかけた話だろう?」

「……私がやりますって言ったことです」

 ……案外頑固だな。こういうところ、表への出し方は違うけど、在義さんに似てるって思う。

 しかし華取は華取で、この件にやる気を出してしまっているようだ。これを無理に辞めさせても、むしろ申し訳なくなる。そうだなー……。

「何か――華取のすきなものとかあるか?」

「すきなもの、ですか? なんでですか?」

「華取がやってくれることへの礼だ。そう思えば、お互い様だろう?」

 こうでもしないと俺は在義さんだけでなく、華取にまで恩義が返せなくなりそうだ。なんとなくだけど、華取とは対等でいたい。……そんな感情があって、少し扱いに困る。

「ええと……」

「………」

 華取は口元に手を当てて考え始めた。自分から振った話だが、こんな踏み込んだことを訊いてしまってよかっただろうか……。

 在義さんに問い詰められても、礼だと言い張ろう。

 ぱっと、何か思い至ったらしい華取が笑顔を見せた。

「笑満と桃子母さんと夜々さんとマナさんがすきです」

 想定外の答えだった。戸惑うしかねえ。

「………いや、人物で言われても……というかそれ、総て女性か?」

「あ、在義父さんと龍生さんと頼もちゃんとすきですよー」

 ……そう言ってもらえなければ、在義さんは泣いてしまうかもしれない。継いだ言葉が若干投げやりだったのは、この際気にすまい。

「けど、その人たちに礼をするのも違うと思うな……」

「ほかにすきなのは、紅茶とか蒸し饅頭とかですかね。あ、天霧猫あまぎり ねこ様は大すきですっ」

 紅茶と蒸し饅頭。緑茶や洋菓子じゃない辺り、組み合わせが特徴的だ。天霧猫は小説家で、俺もその名はよく知っていた。

「そうか」

「でも、ほんとに気にしないでくださいね? 私のやりたいことやってるだけですから」

 華取が焦ったように手を振った。

「うん、ありがたくいただく」

 そう答えると、華取は少し安心したように表情をゆるめた。

「あの、訊いていいのかわからないんですけど……先生って、実際のところどういう立場なんですか?」

「実際?」

「警察に捜査協力? しているとか、本業が犯罪学者とか……」

 昨日は、上辺のことしか説明していなかった。疑問に思って当然だよな。

「俺らの育ての親の一人が、龍さん――龍生さんなんだ。龍さんのことは知ってるんだろう?」

「はい。父さんの親友ですから、よくうちにも来てます」

「龍さんが警察の人間だった、その関係で事件に首突っ込むようになって、中学のときアメリカの大学に留学して博士号取って来た。だからその後は、まあ学者って立ち位置になるかな」

「中学って……ど、どういう頭してるんですか……?」

 華取が目を見開いて驚いた。……変なこと言ったかな。

「それが――なんで先生やってるんですか?」

「……三年ほど、教師をやっていた方が都合よくなってな。再来年度には教師は辞めるつもりだ」

「再来年……私が卒業する前ですね……。そのあとはどうするんですか?」

「教師として呼ばれてるとこもあるんだけど、あまり行く気はないかな。学者の本業一本になるかと思う」

「そうなんですか。……あと、どうしてマナさん、先生にしたんでしょうか?」

「愛子は俺が警察に入るモンだと思ってたからな。俺らの中学や高校を決めたのも愛子だ」

「そう言えば寮があうところに放り込んだって言ってました。……俺ら? ほかにもどなたか?」

 あ、と俺は失態に気づいた。つい癖でそういう言い方をしてしまった。

「……同じところで育った奴が二人いるんだ。そいつらも、中学高校も俺と同じところに愛子に放り込まれた」

「その方たちには話されるんですか?」

「必要ないな。一人は警察官で、一人は探偵やってる。気になったら勝手に探ってくる」

「それはむしろマズいのでは……?」

「勝手に調べても他言することはない。二人とも、愛子のこともよく知ってる」

「先生がそう言うのならいいのですが……」

「安心していい。言ったろ? 大丈夫にするからって」

 華取は何度も瞬いたあと、「はい」と微笑を見せた。




+ side咲桜


 旧館を出た私は、先生がいた二階の資料室を見上げた。

 朝は、昨日逢った人が本当に『神宮先生』なのか信じ切れていなかったけど、帰り際に注意されてしまった。「あまり学内で見るな。話があったらいつでも聞くから」と。……ガン見がばれていて少し恥ずかしかった。

 笑満に話すことを反対されなかったのはよかった。笑満に隠し事はしたくないし、かと言って先生に嘘をついて話してしまうのも嫌だった。最初から私の中には、笑満に『話す』以外の選択肢はなかったから。

 ……先生のやっていることは、聞いたことの半分も飲み下しきれていないけど。

 でも、マナさんが仕組んだ相手が先生でよかったと、心のどこかが思っている。

 はっきりとは言えないけど、先生は安心出来る人な気がする。……あ、ご飯の好き嫌いとか聞いておけばよかったかも。

 先生の方から私の好みを訊いて来たから、それに乗じて訊いておいたら今後の参考に出来たかもしれない。残念なことをした。……けど先生、ほんとにいいのかな? マナさんのやったこと、乗っちゃって……。

 先生は何度も気にしなくていいと言っていたけど、生徒と個人的に親しくなっていいのだろうか。……親しく?

 ん? する必要もあるのかな?

 先生にお弁当を持って行くのはマナさんからの頼みだから、当然請ける。けどそれ以上があるのだろうか。そもそも、それ以上ってどんな状態?

 ………。

 考えてみたけど、わからなかった。んー……また父さんが先生を家に連れてくる、とか?

 そのくらいなら、在義父さんの同僚の人と変わらない状態だ。

「そのくらいでいいのかな?」

 それだけじゃ足りない気がする。

 頭の中――心の中? で反論してしまった。一度頭を振った。危ない。誰に聞かれるかわからないんだし。

 旧館とはいえ、ここは学校内だ。どこに耳があるかわからない。これからも、先生絡みの考えごとは声には出さないように注意しないと。

 ……何故今にやっとした、自分。

 思考が自分の行動にツッコミを入れている。大丈夫かな、私。

 あとは、ま。先生にどこまで話して大丈夫か、かな――。

 そして、先生はどこまで知っているのか。

 ………。

 さっきまで浮かれていた気持ちが、ふと一段低くなった。いやいや、先生は私と父さんのために請けてくれたんだし、そこまで巻き込めないって。

 また、頭を一つ振った。笑満には話すとして、どこで言おうかな……学校内ではまずいよね?

 そんなことを考えながら、いつも笑満と頼と一緒にお昼ごはんを食べている中庭へ向かった。




+++ side流夜


 学校での仕事を終えて、アパートへ戻った。華取家は、歩けば十五分程度の近さだった。

 昨日は華取の手料理をごちそうになり、今日は夕飯の分までお弁当をもらった。なんだ、この青天の霹靂みたいな状況は。普段料理なんてしないだけに、自分の状況が恵まれ過ぎていて怖い。

 幼馴染の一人が、最寄りの上総かずさ警察署にいる。俺は、夜はいつもそこへ行って、過去の資料を漁っていた。

 晩飯なんかテキトーに済ませていたから、食事が卓に並ぶ、なんて現象は久しぶりに見た。

 華取からもらった夕飯を広げたところで、チャイムが鳴った。誰だかわかっているので、出迎えはしない。

 幼馴染からここの合鍵を勝手にもらっている毎度の客人は、いつものように勝手に入ってきた。

「よー、じんぐー。メシ持って来てやったぞー……なっ⁉」

 入って来たのは藤城学園の制服の男子生徒、二年の夏島遙音なつしま はるおとだ。藤城首席と呼ばれるほど頭のいい奴だが、ワケありの知り合いだ。

 スーパーの惣菜が入った袋を手にしていて、俺の前に料理があるのを見ると同時に固まった。

「また来たのか、お前」

 遙音が、バイトしているスーパーで余った惣菜を持ってくることはよくあった。

 生徒であるが、遙音に対しては何も取り繕うことはない。

 俺が高校生の頃からの知り合いで、素の顔どころか警察に深く関わっていることも知っている。――関わっていたからこその知り合いとも言える。

「神宮がメシ食ってるって……なに、いきなり料理出来るようになったのか⁉」

 遙音に驚愕された。ため息をひとつ。

「ちげーよ。もらった」

「誰に?」

 華取咲桜に。

 なんて言えるわけがない。今のところ、遙音は隠しておく相手だ。何せ華取の同じ学校の先輩なのだから。

「……知り合い」

「知り合い? んー、神宮だから女出来たってわけじゃないだろ?」

 いや、出来た。偽者だけど。

「取りあえず、お前座れ。あとあまりでかい声出すな」

「あ、おー悪かった」

 遙音は腰を下ろし、弁当を覗き込んだ。

「なんつーか、すげー美味そうなんだけど。食ってもいい?」

「全部食ったら追い払う」

「わかってるよ。少しだけ。いただきまーす。……うわっ、うめえ! なにこれ、家庭の味ってやつ? 誰に作ってもらったんだよ。俺もほしい」

「秘密」

「えー、あ、じゃあこっちやるからもうちょっと食わせて」

 と、遙音は持って来たスーパーの袋を出す。大人げなくも少し悩んだ。

「……嫌だ」

 そして出た答えがコレ。遙音は、当然のように不満顔だ。

「えー、けちー」

「けちで結構。それより、今日はなんだ?」

「あ、ほうはな」

 俺が断っても、勝手につまみ食いをする遙音。けどまあ、遙音ももう食事を作ってくれる人もいないからと自分を納得させ、弁当をわけてやることにした。だが食いながら喋るな。

雲居くもいのつかい。昨日、神宮に書類届けてほしいって言われて」

降渡ふると? てめえで来ればいいだろうが」

「俺もそう言ったけど、今忙しいんだと」

 ほれ、と、鞄に突っこんであった封書を取り出す遙音。それを受け取り、適当に中身を眺める。……吹雪のところへ行ったら報告だな、と意識の中で判を捺した。

「美味かったー」

 綺麗に平らげられた弁当。二人でわける形になってしまったから、当然食べた量は少なくなったけど……まあ、たまにはこいつにも美味いものを食べさせてやっていいだろう。華取に感謝した。

「じゃー俺帰るわ。ごちそーさま」

「寄り道すんなよ」

「おー。今度手作り弁当の彼女紹介しろよー」

 にやりと笑みを残して、遙音は愉快そうに部屋を出て行った。

「……彼女?」

 慣れない単語に、ぽつりと呟いてしまった。

 いや、意味としては恋人だけに使われる言葉ではないから、他意は……たくさんありそうだな、あいつ。

 遙音は帰り道、既に色々邪推しているだろうが紹介する気はない。そもそも彼女じゃないし。

 弁当箱を返すために洗って、華取が渡してきた袋に戻した。

「………」

 当然のように渡されたそれ。少し見つめてしまった。

 俺自身、母と呼べる人がいない育ちをしている。

 華取の母――在義さんの妻がとうに亡くなっているとは聞いているが、俺が在義さんと知り合うより以前のことなので、どんな人かまでは知らない。在義さんが妻と娘の写真を持ち歩いているらしいとも噂はあるが、お目にかかったことはない。

 華取の父という意味で在義さんの話を出せば、俺には父もいない。祖父母もいない。物心ついた頃から、血縁関係のない、龍さんの実家で育っている。

「……あまり近づかない方がいいよな……」

 ふと、そんなことが口をついた。

 いくら華取の父親が県警のトップだからといって、華取自身はこちら側の人間ではない。

 在義さんも、それを望んではないだろう。そして自分は、事件の世界から離れる気はない。ここが自分の生きていく場所だと決めている。

 はじめから失った身として、自分にしか出来ないことがこの世界には多くあった。

 これ以上失うものがないから、捨て身で飛び込める。

 どれほど血まみれだろうと。どれほど死にまみれていようと。掌からこぼれるものを、持った覚えはない。

 腐れ縁の幼馴染は、勝手に傍にいる。だから俺も、勝手に二人の傍にいる。どちらが先か、なんて鶏と卵の問題は発生もしない。

 でも、あの子は違う。こちらの――事件の世界に巻き込まれるべきではない子だ。

 勿論、本人が望めば話は変わってくる。警察官になりたいと本人が進路を希望すれば、教師として生徒の進路を邪魔する気はない。今のところ、華取からそんな話は聞いたことはないし、在義さんからもうかがえない。

「………」

 あくまで自分は、華取と在義さんを政略から護るための偽モノ婚約者。在義さんには、そんなことでは返しきれない恩をたくさんもらっているから、その位置に不満や文句はない。

 だから、それだけでは嫌だと思ってしまった心を戒めねばなるまい。

「……それだけって、どれだけだ?」

 ……昨日から、思考の隅に意味のわからない感情や単語が落ちていることがある。なんだこれ。

「華取には……言わない方がいいよな」

 在義さんは承知している、俺の生い立ち。聞いて気分のよくなる話でもない。そんなこと、わざわざ言う必要はないだろう。




+++ side咲桜


「あ、父さん?」

 夕飯の準備でキッチンに立っていると、ダイニングテーブルに置いたスマートフォンに呼ばれた。出ると在義父さんからの電話だった。

『ごめん、今日は帰れなくなった』

「わかった。気を付けてね」

『ありがとう』

 何があって署に泊まりになるのか、在義父さんは詳しくは話さない。私も、自分から訊いたことはない。そこは私が関わるべきではないと承知している。

 ……そういう風に育てられたからか、自分でその境界線を破ろうとは思わなかった。

『あと咲桜、流夜くんのことなんだけど……』

「うん? 先生にはお弁当は渡したよ? マナさんに頼まれてるやつ」

 在義父さんには、マナさんから先生へ食事の差し入れを頼まれたことは話してある。

『……そうか。流夜くん、何か言ってたか?』

「んー? 世間話しただけ、かなー? あ、あと、先生うちの呼ぶの、私に遠慮しないでいいからね?」

『……そうか』

 何故かさっきの『そうか』と違って、黒い響きに聞こえた。私の気のせいだろうか。

「あとさ、父さん」

『うん?』

「うちで時間あるときでいいから……先生のこと教えてもらえる? 私と父さんのために偽モノ役買ってくれたんだし、ちょっとは把握しておきたくて――」

『…………』

 今度は返事すらなかった。

「在義父さん?」

『あ、ごめん。そうだね、ゆっくり時間あるときにね。流夜くんのことは、あまり短くはまとめられないから』

 言って、『じゃあ、戸締りしっかりね』と重ねて、在義父さんは電話を切った。

「………?」

 様子がいつもと違った。通話終了画面を見て、首を傾げる。まー父さんとしても、自分や娘のごたごたに関係のない先生を巻き込む形になったことを悔いているのかもしれない。

「………」

 自分や、娘。

「……かー……」

 ………本当に、先生には申し訳ない。

 マナさんは当然承知の上でこの話を持って来たのだろうけど、本来こんな話に一番関わりのないのは――私だった。

 恐らくは、先生よりも。

 一つ、頭を振った。

「おかず余っちゃうな……笑満と頼のお弁当に廻そうかな」

 在義父さんの仕事は本当に読めない。明日の何時に父さんが帰って来てもいいように残しておくにしても、量が多い。

 こういうときは、翌日の笑満と頼の昼食に消費を頼んでいる。手にしたままのスマートフォンで、二人にメッセージを送った。

《明日のお昼に二人の分お弁当持って行くね!》

 送信すると、笑満と頼から即座に返事があった。思わず笑みがこぼれる。

 頼はいつも寝こけているくせに、連絡の返事が遅れたことはなかった。夕飯用だったものを弁当用に取り分けておく。

「先生用には……」

 と、食器棚から必要なカップを用意する。お弁当箱もローテーションすれば、毎日持って行けるだろう。

 いつ帰れるかわからない在義父さんのお弁当を作っているので、お弁当箱やマグボトルは余分に用意してあった。

「あ、夜々さんと師匠せんせいにも食べてもらおっか」

 お隣の家のおねえさんとその母である師匠にはよく作り過ぎたものを持って行っていた。

「………」

 それを思い出した私、一時停止した。あれ? い、今の今まで、師匠のことに気づかな

かった? そんなことを師匠に知られたら――

「……師匠にしばかれる……」

 顔から血の気が引いて行くのを感じた。

 おねえさんこと夜々さんは私の母代りをしてくれる人で優しいのだが、師匠はかなり手厳しい。

 私に礼儀礼節や武道の基礎を教え込んでくれたから師匠と呼んでいるのだけど――正直な話、あまり折り合いはよくない。と言うか、師匠には一方的に嫌われている。

 師匠が、そんな私の面倒を見てくれたのは他ならぬ在義父さんの頼みだからだろう。

「………」

 師匠が、マナさんの仕組んだ見合いの件に噛んでいるのは、私を早く独り立ちさせるためだろう。――もっと簡単に言えば、この家から早く出て行ってほしいのだろう。

「……て言っても、先生と結婚するわけないしなあ……」

 先生も、結婚どうのという話にはならない方向にしたかったようだし、そもそもそういうことを面倒だと言っていた。

「……ん? なんで今もやっとした?」

 変な気分だ。お隣のことでもやもやするのなら今までもあったけど、今のはそれと時間のずれがある気がする。

「……ま、私の出来ることをやるか」

 今のところ家事炊事だけなんだけど。

「どうせだったら先生には美味しいもの食べてほし――」

 だ、だからなんで先生を名指しする!

 無意識に口をついた言葉に心の中でツッコんだ。

 ……今日の自分、色々とおかしいな……。

「……早めに寝よ」

 と、自戒したところで、手の中のままのスマートフォンが振動した。

「ん? ――えっ」

 うそっ、先生からだ⁉ え、連絡とかくれていいのっ?

 短いメッセージを見て一転、私の気持ちは浮足立ってしまった。こ、これは……美味しいものを作るしかない!

 俄然気合の入ってしまう私だ。

「なんてゆーか……単純だなー、私」

 急いで返信をして、もう明日の昼休みが楽しみになっていた。

 まさか師匠から感想をもらえるなんて、思っていなかったから。


『弁当美味かった。ありがとう』


 一行にも満たない、それだけでとても嬉しかった。



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