第42話 求める女と求められる男

 それは、短い間だったかもしれないし、長い間だったかもしれない。

 永遠のようにも思える間を経て、僕は彼女から目を逸らしながら口を開いた。

「……年上をからかうんじゃないよ」

「からかってなんかいません」

 小泉ははっきりと言った。

「あたしは、本気です」

 彼女は箸を置いて、席を立った。

 そのまま僕の傍まで歩いてきて、手を伸ばせば触れられるところまで距離を縮めて、僕をじっと見下ろしてくる。

「先輩になら、何をされてもいい。今この場で押し倒されても、受け入れられます。それくらいの覚悟はあります」

 若い子っていうのは、物怖じしない。自分の思ったことをストレートに口にしてくる。

 ミラといい、小泉といい。

 何故彼女たちは、そんなに簡単に自分をあげると言うことができるのだろう。

 僕は持っていた箸と茶碗をテーブルの上に置いて、彼女の方に向き直った。

「……簡単に自分をあげるなんて言うんじゃない」

 眉間に皺を寄せて、かぶりを振る。

「僕は、誰とも付き合う気はないし、結婚のことなんて考えてもいない。あんたが僕のことを好いてくれているのは有難いことだとは思うけど、僕はあんたの相手には相応しくないよ」

「そんなの、付き合ってもいないのに分かるはずないじゃないですか」

 彼女は僕の左手を手に取った。

 そしてそれを、自らの胸元へと押し当てた。

 彼女のおっぱいは、かなり小振りだ。御世辞にも豊満だとは言えない。しかし掌には、確かに柔らかい肉の感触があった。

 僕は慌てて手を引っ込めようと左腕に力を入れた。

 しかしがっちりと掴まれているせいで、手はこれっぽっちも動かなかった。

「おい、急に何を──」

「先輩、して下さい」

 唐突すぎる彼女の申し出に、僕はびっくりして言いかけていた言葉の後半を飲み込んでしまった。

「今、この場で、あたしとして下さい。あたしがどれだけ本気なのか先輩に見せてあげますから」

「……何を言い出すんだ。あんた、少しおかしいぞ」

「とっくに狂ってますよ。先輩に」

 ぐ、と掴まれている左手が更に強く肉に押し付けられる。

「お願いです。あたしのことが嫌いでないのなら……してほしいです」

「何でそんなに僕としたがるんだよ。意味が分からない」

「…………」

 彼女は僅かに唇を噛んで、俯いた。

「……だって、そうしないと」

 声が、震えを帯びる。

 ぐすっと鼻を鳴らして、彼女は目を潤ませながら言葉の続きを口にした。

「既成事実を作らないと……先輩は、あたしのものになってくれないじゃないですか。あの女のところに、行ってしまうじゃないですか」

 あの女、がミラのことを指していることは、すぐに分かった。

 これは、小泉の嫉妬なのだ。ミラに対しての。

「あたしには、これしか先輩を引き止める方法がないから……だから……」

 遂には、涙をぽろぽろと零して泣き始めてしまった。

 左手を掴んでいる力が緩む。僕はそっと彼女の胸から手を離した。

 彼女は──ずっと、胸中にこの想いを溜め込んで苦しんでいたのだろう。それが遂に抑えきれなくなって、今日、こんな行動に出たのだ。

 僕は、何だか申し訳ない気持ちになった。

 もしも僕が普通に三次元の女を愛することができる人間だったら、この場で、もっと気の利いた言葉を彼女に掛けてあげられたのかもしれないが。

 僕は、彼女の想いに応えることはできない。此処で上辺だけの言葉を返したら、かえって彼女を傷付けてしまう。

 だから、言う。心を鬼にして。

「あんたの想いは、嬉しいよ。こんな男を愛してくれてありがとうって素直に言える。……だけど、その想いに応えることは僕にはできない。僕は……現実の女を愛することができない男だから」

 小泉が涙でくしゃくしゃになった顔を僕の顔へと向ける。

 真っ赤になった瞳が、僕の姿を映していた。

「曖昧な言葉じゃかえってあんたを傷付けるだけだから、はっきり言う。僕は、あんたを愛してはいない。今までがそうだったように、これからも、会社の後輩としてしか見ることができないと思う。……だから、すまないけど、僕のことは諦めてほしい」

「…………」

 小泉は目を閉じて、深く息を吸った。

 口元に笑みを浮かべて──悲しみで震える唇を懸命に笑みの形に作って、言った。

「……分かってたんです。先輩がそう言うだろうってことくらい。あたしは、空気が読めないほど馬鹿じゃないので」

 涙の粒がひとつ、顎を伝って、雫となって落ちていった。

「でも、この想いは伝えたかったので……どうしても、言っておきたかったので……だから……」

「……ありがとな」

 僕は立ち上がり、手を伸ばして、小泉の頭を優しく撫でてやった。

 彼女は僕の胸に飛び込んで、それまで我慢していたものを一気に吐き出すように大声を上げて泣き始めた。

 僕はそれを黙って受け止めて、彼女が泣き止むまで、頭を撫で続けた。


 空に浮かぶ月を見上げながら、僕は考えていた。

 どうしてこうも、人の想いはすれ違うものなのだろうかと。

 何故僕は、こうも人の想いに応えることができない男なのだろうかと。

 ミラも……小泉のように、僕への想いを胸の内に封じて苦しんでいるのだろうか。

 ふっと胸中に浮かんだ女のことを思いながら、僕は、彼女が待つ家への帰路をゆっくりと歩いていったのだった。

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