第9話 大人の役割

「ふわぁ」

 床の上に敷かれた布団をぽんぽんと叩いて、ミラはまるで猫の子のように顔を輝かせていた。

「凄い、あったかい。ふわふわで気持ち良いです!」

「そりゃ良かったな」

 キッチンで水を飲みながら、僕は彼女の言葉に相槌を打って答えた。

 結局、僕たちは買い物で一日を丸ごと消化することになった。

 買ってきたのは、ミラが着る替えの服、替えの下着、布団、歯ブラシやタオルなどの身の回りのもの。後は今日の夕飯の支度で使う食材などだ。

 金額にして五万ほど費やす羽目になった。

 普段からこつこつと貯金してきて良かった、と思える一日になった。

 僕は趣味のフィギュアにそこそこの投資をしてはいるが、一応将来のことは考えて節制はしているのだ。

「今日からはそれがお前の寝床になるからな。ベッドは僕が使う。分かったな」

「櫂斗さん! あの……」

 ミラは僕の名を呼ぶと、何やらもじもじとしながら、言葉の続きを口にした。

「……ありがとうございます。私のために、色々買ってくれて」

「気にするな」

 僕は肩を竦めて、マグカップに入っていた残りの水を一気にくいっと飲み干した。

 改めて礼を言われると……何だかむず痒い気分になるな。

「あんたに不便な生活をさせて自分だけ物が揃った生活をするのは落ち着かないんでね。これは僕のためでもあるんだ」

 これは本音だ。

 いくら気のない相手だとはいっても……人に不便な思いをさせて自分だけ恵まれた生活をするのは何か違うって思うのだ。

 同居人になった以上は、対等な立場でいたい。

 そう思うのは、間違いじゃないだろう?

「だから、礼は別に言わなくていい」

「やはり、私の目に狂いはありませんでした」

 布団の上に姿勢を正して座り、僕の顔をじっと見つめる彼女。

「櫂斗さんは優しい御方です……相手として選ぶに申し分ありません」

 するり、と服装を乱して、ワンピースの襟首から肩を覗かせる。

 その行動が、彼女なりに僕を誘惑しようとしていることに僕はすぐに気付いた。

「今なら、何もかもが上手くいく気がします。櫂斗さん、此処で私と子供を作りましょう」

「肩をしまえ。僕を誘惑しても無駄だからな」

 僕は半眼になって空のマグカップを流し台に置いた。

「僕は、絶対にあんたを抱かない。あんたがどんな手を使って僕を誘ってこようともだ」

 僕にとって、彼女はただの同居人だ。それ以上でもそれ以下でもない。

 性欲の対象にはならないし、例え彼女が裸で迫ってきたとしてもそれを見て欲情することはないだろう。

 僕は、一刻も早く彼女に気付いてもらいたいのだ。

 この暮らしも……所詮は彼女が現実に戻ってくるまでの一時の出来事にしかすぎないのだということに。


「早く、現実を見つめられるようになれ。そして自分が本当にいなければならない場所に帰れ。今日の買い物が無駄になったと、僕を後悔させられるようになれ」


 十年後、今日のことを思い出して「ああこんなこともあったっけな」と笑い話の種にできるように。

 彼女には、現実と向き合えるようになってほしいと思っている。

 それが──きっと、彼女のためなのだから。

「……あんたがそうなれるように、僕も、できる限りの手伝いはしてやるから」


 年上の、大人の責任として。

 人生に迷っている子供がいるのなら、正しい道に導いてやるのが大人の役割なのだ。

 その大役が僕に務め上げられるかどうかは分からないけれど。

 僕なりに、精一杯、真剣に彼女に訴え続けようと思う。


「……さ。夕飯作るぞ。あんたも手伝ってくれ」

 僕は袖を捲って、棚の中からまな板と包丁を取り出した。

 布団から立ち上がったミラが、僕の隣にやって来る。

「お手伝いですか?」

「キッチンの使い方を教えてやるから。あんただって早く料理が作れるようになりたいだろう?」

「はい、宜しくお願いします!」

 元気の良い彼女の声を聞きながら、僕は冷蔵庫からジャガイモと玉葱を取り出した。

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