第3話 男は平穏な日常を渇望する
「うーっ、背中が痛い……」
会社のデスクに突っ伏して、僕は情けない呻き声を漏らしていた。
隣に座っている同僚の青木が、苦笑しながら僕の背中を撫でさすってくる。
「ソファで寝たんだろ? そりゃ体が痛くなるって」
「……クッションを下に敷くんだった……」
「……あんまり変わらないと思うけどな。それ」
青木の労わるような笑顔が眩しい。
青木は人の悩み事を真摯になって聞いてくれる優しい男だ。
ルックスも良く、女子社員の間では人気を集めていることを僕は知っている。
それを妬ましいと思ったことはないが、僕と違って人望があるのは正直に羨ましいと思う。
「それで……ミラちゃんだっけ? その
「家を出る時に一緒に外に出てもらったよ。留守番を任せるつもりはなかったし、そもそも一晩だけ宿を貸すって約束だったからな」
僕は青木に、昨日の出来事を包み隠さず話していた。
青木には……何というか、こう、悩みを打ち明けたくなるオーラがあるというか、つい相談したくなる雰囲気があるのだ。
どんな話でも彼は馬鹿にすることなく聞いてくれるし、僕にとって、彼の存在は心のオアシスのような存在だった。
「今頃自分の家に帰ったんじゃないか? 一人になれば、自分がどんな馬鹿なことをしてたんだろうって自覚するだろうさ」
「おいおい。女の子なんだからもう少し優しくしてやれよ」
「僕は三次元の女に興味はない。優しくしてやる義理なんてこれっぽっちもないね」
僕はがばっと身を起こして力説した。
「女は二次元に限る! 文句を言わないし可愛い子揃いだし、どんな扱い方をしても非難はされないからな!」
「俺はお前の趣味をとやかく言うつもりはないけど……そういうもんなのかねぇ」
「抜けるか抜けないかっていったらかなり重要なことだぞ? 男として、やっぱり勃つ相手っていうのは……」
「馬鹿、声が大きい」
青木は僕の口を掌で塞いだ。
僕たちの背後を、楽しそうに会話をしながら女子社員が通り過ぎていく。
彼女たちが離れていったところで、青木はようやく僕の口から手を離した。
「……ま、何にせよお前の杞憂が片付いたんなら良かったよ。心配事を抱えたままじゃ仕事にも身が入らないだろうからな」
「ああ。これで落ち着いて毎日を過ごすことができるよ」
昨日机の上に置いてそのままになっていた荷物をゆっくりと開けることができる。
今日は帰ったらゆっくりとフィギュアを飾ろう。そして細部までじっくりと堪能しよう。
昨日は何かと落ち着かなかった分、自分の時間を大事に過ごしてやるんだ。きっと楽しいだろうなぁ。
思わず顔を緩ませる僕を微笑ましそうに見つめながら、青木がそうだと急に思い出したかのように言った。
「そういえば、駅前の大通り。前にコンビニがあったビルがあるだろ?」
「ああ、あったな。フリーエフだったっけ」
「あそこに、新しく居酒屋ができたんだよ。家族向けの店で、料理が結構美味いって話題になってるんだ」
「へぇ。家族向けの居酒屋って珍しいな」
居酒屋っていうとどうしても会社帰りの中年のおっさんが行く店ってイメージが強いんだよな。
家族向け……っていうと、ファミレスみたいな雰囲気の店ってことなんだろうか。ちょっと興味そそられるな。
「今日、帰りに行ってみないか?」
青木の誘いに、僕は少し考えた後に頷いた。
「いいよ。美味い店は大歓迎だ」
「決まり。それじゃあ、残業にならないように仕事頑張るか」
「そうだな」
僕は姿勢を正して、デスクの上にあるパソコンの画面に目を向けた。
会社帰り。青木と二人で行った話題の居酒屋は、開店したばかりということもあって多くの客で賑わっていた。
その客層は、家族連れが殆ど。サラリーマンもそれなりにいるが、年齢層は全体的に若めの印象を受ける。
僕は居酒屋の雰囲気があまり好きではないのでちょっと構えていたのだが、これはなかなか好印象だった。
料理は、酒のつまみだけではなく実にバラエティに富んだ種類が揃っていた。ファミレスと遜色のないラインナップだ。
まあ、間違いなく居酒屋なので酒の種類も負けてないくらいに豊富なんだけどな。
明日も仕事なので、僕たちは酒に関しては軽くビールを一杯頼んだだけで、後は純粋に料理の味を楽しんだ。
この店、居酒屋にしては当たりの店だな。此処なら仕事帰りに同僚を誘って来たいって思えるよ。
今後誰かに酒飲みに誘われたら迷わずこの店を紹介しよう。
十分に腹が膨れたところで青木とは別れ、僕はすっかり真っ暗になった通りを家に向かって歩いていた。
空に、まん丸の月が浮かんでいる。それから注がれる光が僕を照らし、足下にはうっすらと影が浮かび上がっていた。
何となく、僕は腕時計を見た。
時計の針は二十時を指していた。
何のかんので居酒屋に結構な間いたんだな。青木とつい話で盛り上がって時間が経つのを忘れていたよ。
家に帰ったら風呂に入って、それから予定通りに荷物を開けるとするか。
アルコールが入っていることもあって気分が高揚していた僕は、軽い足取りで家路を急いだ。
やがて、見えてくる僕の家。
僕の家はアパートの一階にある。古い建物ではあるが、小洒落た外観がなかなか素敵な物件だ。
腰のポケットから鍵を取り出しながら、自宅の玄関に近付いていく僕。
そこに──何かがいるのを見つけて、僕は足を止めた。
月の光を浴びて白銀に輝く髪。白いワンピース。ほっそりとした手足に、やたらと存在が誇張された巨大な女の象徴。
「……え?」
見覚えのある姿が玄関のドアを背凭れにして座っている。
その様子に、僕は思わず目を丸くしたのだった。
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