第7話 月の瞳を持つ少女
答えを出さなくては、とミコは内心で焦っていた。ひと、一人の面倒を見るのにどれくらいの負荷が掛かるのか、オーサもわからないわかではないだろう。それでも真剣に自らを受け入れようとするオーサを見て、ミコは唇を噛み締めた。
ここにはミコの求めるほとんどがある。
確かに占術もなくて師もいないけれど、温かな家、美味しいご飯があり、何よりこのまま旅を続けなくていい。
オーサの申し出に頷くということは、帰る場所、ミコのいるべき場所が出来るということだ。それはとてつもなく魅力的な申し出に思えた。
これ以上無謀な旅を続けないということは、なくした推薦状を探すこともなければ、間に合わないかもしれないという焦燥感を感じることもなくなるということと同義だ。
ここでオーサの店の手伝いをし続け、セントリアに向かうことも、アルペールに行くこともない。ディエフのミコになる、ということだ。
良いのだろうか。この手を取って。ミコにとっては甘い誘惑だ。今後の恐怖を思えばこれ以上ない申し出だ。きっと、後にも先にもこんな風に手を伸ばしてくれる人はいないだろう。
けれど。
ミコは懸命にベッドのシーツを握りしめた。
このまま流されてしまいたい。それがミコの本心だった。
そうだ。オーサが誘ってくれたから、とそれを理由にして全てを放り出して逃げ出してしまえばいい。なにしろこれは、この旅も占術もミコの意思で始めたことではない。居場所を得るための理由として始めたことだ。
そう、思うのに。そう、分かっているのに。
「……ご、めんなさい」
ミコの口をついたのは謝罪の言葉だった。
「ごめんなさい、オーサさん……」
「ミコ……」
オーサの視線を感じる。ミコはその表情を見るのが怖くて力が入り、白んだ指先を見つめた。
「オーサさんがそんな風に言ってくれるの、私、すごく嬉しいです。だけど……」
考えてもいないのに口からするすると言葉が出てくる。考える間もないほどの、ミコの本心だ。
「だけど、これは……お師匠様が言ったことだから。だから私、守りたい、です……」
バカだ、とミコは自分自身でも思った。破門にされ、もう会うこともないかもしれない。ミコがどれだけ望んでも、届かないかもしれない。そんなことはわかっている。
分からない未来を夢見るくらいなら、ここで幸せに暮らす道を選べばいいのに。
ミコの脳裏に薄暗い森が、たくさんの人混みが過ぎる。セントリアへと向かえばもっと長く旅をすることになり、その途中でなにが起こるか分からない。人はさらに増え、ミコ自身、身動きが取れなくなるかもしれない。それも分かっていることなのに。
ミコは深く息を吸うと、こぼれ落ちそうになった涙を手の甲で拭った。
「お師匠様のお願い、最後くらい……きちんとやり遂げたいです」
そう、言い切った。
今までずっと逃げてきた。師の期待に応えられなかった。だから、最後くらいは。
そう言うミコの真摯な瞳を見て、オーサは思わず息を呑む。それはミコがここディエフに来て初めて見せた、強い表情だった。
「推薦状はなくしてしまったけれど、探します。絶対に」
ミコの青い瞳とオーサの深い青い瞳が交わる。
「お師匠様がくれた、最後の贈り物だから。……だから、受からないと分かっていても、私は行きます」
「……ミコ」
言い切り我に返ったミコは慌ててオーサに頭を下げる。
「ご、ごめんなさい。オーサさんはとてもよくしてくださって、私のためを思って言ってくれているのに……」
そうミコが俯き加減でそう言うとオーサは「いんや」と言って首を左右に振った。
「いいのさ。ミコはそれで」
「え?」
「進むべき道は、そうやって自分で選んでいかないとね」
オーサは笑った。屈託なく、まるでミコを褒めるかのようにそう言って頭を撫でて、笑った。
その優しい温かな温もりに、ミコは拭ったはずの涙が再び浮かんでくるのを感じた。
次の列車の出発まで今日の半日と明日一日、つまりは一日半ある。
ミコは気合を入れ直すと、与えられた部屋で精神を研ぎ澄ます。
息を吸って、吐いて。昨夜採取したばかりの水を小瓶から、ルビーニの杯に入れる。
ミコの言う聖水は「満月の光を浴びた水」のことだ。占術の方法は多々あれど、ミコの占術は月を信仰する。月に力が宿ると信じ、そしてその力を浴びた水を月の力を吸収した水とし、そうしてそれはミコにとっての聖水となる。
すなわち月を飲み込むと言われ、月に関する伝説を持つゴドゥム湖は湖そのものがミコにとっての聖水だ。
「……」
集中、集中、と言い聞かせる。手順を守り、進めていく。焦る気持ちはもちろんあるが、焦っていては成功するものも危うくなってしまう。そのことをミコ自身がいちばんよく知っていた。
今日、占うべきことはただひとつ。ミコのポシェット……推薦状の行方だ。
「……え?」
誰かが持っているのだろうか。それとも捨て置かれているのだろうか。それは分からない。それでも絶対に見つける、という強い意志の元、占術を行った。
ミコは占術の結果を読み取り眉間にシワを寄せる。
「ゴドゥム湖……」
ミコの占術によれば推薦状はゴドゥム湖にあるそうだ。あのとき気付かなかっただけで本当は近くにあったのだろうか、それともあの黒い影がやはりいらないと捨ておいたのだろうか。
もちろん自分の占術が正しい答えを導き出したとは限らない。けれど、他に手がかりがないのであれば行くしかない。
「よし」
ミコはそう声を発し、気合を入れ直すと再度その聖地へと向かうことに決めた。
いつも以上にフードを目深に被る。
昨日との違いは今が昼間だということだ。
ディエフの人にとっての聖地に入ということで、どうしても人目が気になってしまう。
この地を踏み荒らさないのが暗黙の了解。しかしミコは昼間の、人の目があるうちからそこに足を踏み入れようとしているのだ。
そう考えて、いつも以上に慎重になってしまう。
深く呼吸をし、ミコは一歩森へと足を踏み入れる。
瞬間、昨夜は感じなかった圧のようなものを感じた。ぶわりと身体の奥底からなにかが湧き上がるような、そんな感覚。
得体の知れない熱いものがミコの体内を駆け巡るような感覚だ。びりびりと締め付けられるような、思わず身震いをしてしまうようなもの。
歓迎されていないのだと直感的に感じた。湖へと通じる森が、ミコを拒絶する。
一歩足を踏み出せばそれだけで疲労してしまうような、そんな緊張感がある。
どうしようか、と逡巡する。このまま逃げ帰り夜になるのを待つか、この重圧に耐え進むか。
しばらく考えて、答えは前者となった。
夜になれば視界も狭くなる。そうなればきっと探せるものも探せないだろう。今、行かなくては。そう自分に言い聞かせてミコは歩みを進めた。
昨夜と同じ森の中。その違いは夜と、昼。ただそれだけ。昼の方が明るいはずなのにどうにも恐怖を覚えてしまう。
月明かりの照らす道の方が、ミコには明るく感じられたのだ。
「ごめんなさい……」
ミコを拒否しているのは湖なのだろうか、森なのだろうか、それは分からない。
ざわざわと葉が擦れる音がする。風など感じないのにざわめく木々はミコに帰れと訴え掛けているようだ。
怖い、怖い、怖い怖い
唇を噛み締めて歯を食いしばる。泣きそうになるのを必死に堪え、少しでも視界を狭くするためにフードを思い切り掴む。一点だけ見ていれば、余計な目移りをしなければ、恐怖など感じない。そう思ったからだ。
「きゃっ」
狭い視界のせいで、頭上がよく見えていなかったのだろう。そのせいで背の低い木の枝にフードが引っかかりそれに驚きその場に倒れ込んでしまったのだ。
フードを持って塞がっていた両手は前に出ることがなく、べしゃりと音を立て顔面から思い切り土へと飛び込んでしまった。
アルペールいた頃はどれだけ視界が狭くともミコが転ぶことはなかった。フードで顔を隠しても、俯いていても、必ず先を歩く人がいたからだ。
もし今のように森の中でミコの行く手を邪魔するような障害物があれば「危ないよ」と声を掛け手を引いてくれたはずだ。そして。
「まったくミコは俺がいないとダメだな」と、呆れたように、その人は笑うはずだ。
「……」
身体より先にぐぐっと顔を起こす。泣きたいが、泣かない。そんな表情のままゆっくりと立ち上がった。
森の中の土は少しばかり水分を含んでいて、幸か不幸か怪我はない。ただそれらの泥にも近い土がミコを汚した。
土を払うように数度汚れた服を叩いてミコはまた歩き出す。
一歩、二歩、三歩。あと何歩だろうか。勝手が違うだけで、拒絶をされているだけで、昨夜よりも深い森を歩いているような気分になってくる。
それでも一歩、一歩確実に歩いたミコの視界がついに開けた。
昨夜のような濃い霧はなく、森の中よりも明るいすっきりと晴れた湖畔がそこには広がっていた。
「わ、ぁ……」
昨夜見たのとはまた違う様相をしたそれに、ミコは感嘆のため息を漏らす。拒絶されていても、美しいものは美しいのだ。
陽の光はある。霧は少ない。探し物をするにはもってこいだ。
「よし」
気合いを入れ直し、まずミコは昨夜自分が水を採取していた周辺から捜索を始める。
様相の変わって見えるそこにその場所を割り当てるのは大変かとも思っていたが、意外にも昨夜ミコが湖に落ちたおかげか、湖畔から湖に向かい草の剥げている部分を見つけた。
ミコは慎重に、今度は落ちないようにと湖の淵へ向かう。そしてそのぎりぎりの場所に膝を付き、湖を覗き込む。
深い蒼を称えた湖面に、自分の顔が映る。その表情は情けないほどに不安げで、今にも泣き出しそうだった。
ディエフは広大な街だ。ミコのいたアルペールとは比べものにならないくらい広大で、その統治は東西に分かれて行われるほどだ。
そしてそのディエフの象徴とも言えるゴドゥム湖は、その東西に分かれた広大な土地全てに掛かるほどの大きな湖である。オーサ曰く、ディエフのどこにいてもほぼ等距離で、同時間で湖に出ることができる、そんな場所だ。
そして今、そこはミコの占術から読めた推薦状の在り処でもある。
あまりにも広大なそれに途方に暮れつつもミコは視線をさ迷わせた。ポシェットはひとりでに歩かない。たとえ誰かが拾いいらないと投げ捨てたのだとしても、わざわざ離れた場所まで持っていくとは考えられなかった。
なら、この近辺にあるはずである。そう思うのに、ポシェットらしきものは目視できる範囲にはない。
ここから離れた場所にあるとしたら。
もしミコの占術が当たっているのであればこの広大な湖の周りをあと一日半で見て回らなければならないことになる。
それはとてつもない焦燥を生んだ。探し始めた直後から心が折れてしまいそうになるほどのそれに、ミコはぐっと拳を握りしめる。
「大丈夫」
----さっきオーサさんに言った自分の言葉を思い出すの。
そう言い聞かせ、ミコは湖畔の草を掻き分ける。
視界を悪くする、フードは外して。
露に濡れた草を掻き、きょろきょろと目を動かしているときだった。
「……なにを探しているの」
「え」
人がいるなどとは思わなかった。
だからこそ、背後からいきなり聞こえたその声に驚いてしまったのだ。湖畔ぎりぎり。その声とは反対方向にに飛び退いたミコの身体が再度、湖畔へと吸い込まれそうになる。
まずいと思っても体勢を整えることは適わず、二度目となるその衝撃に備え固く目を瞑った。
「危ない!」
鋭い声と共に、強く腕が引かれた。
「……っ」
ぺたり、と力なく座り込む。手足が震えて力が入らない。
湖面から草の上に引き寄せられたミコはどくどくと今更ながら早鐘を打つ心臓のあたりをぎゅっと押さえ付ける。
自らに落ち着くように言い聞かせ、何度も深呼吸を繰り返すが、まったく落ち着く気配を見せない。
昨夜の恐怖がぶり返してきたようだ。
「まったく、気を付けなよ。ここの湖、深さがわかんないんだから」
聞こえた声に、顔を上げる。声の、する方を向く。どうやらバランスを崩す直前に聞いた声は空耳ではなかったようだ。
視線を上げたその先に、ただ一人の少女が呆れ顔で立っていた。
年端はミコと同じくらいだろうか。全身黒色の服に身を包み、黒い帽子を深く被る。
どこか人を寄せ付けないようなぴりぴりと殺気立った空気を放ったその少女にミコはごくりと息を呑んだ。
いったいこの子は誰なのだろうか。
問おうと思い口を開きかけるも喉がひりついて声が出ない。
それほどまでに月のように黄色い目が、ミコを鋭く射抜いていた。
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