第5話 ゴドゥム湖と月の伝説

小鳥の囀り。降り注ぐ太陽の光。むにゃむにゃと口を動かし、その音に目を覚ます。目に入った天井に違和感。見慣れた白ではなく、木目がある。ミコは数度目を瞬かせた。

ここは、どこだろう。そんな疑問を感じたのとほぼ同時にがばりと身体を起こす。

窓から降り注ぐ太陽の光、小鳥の囀り、どこからどうみても朝なのである。昨夜の記憶は少し休んだあとに階下に降りていくという会話をオーサとしたところで途切れている。どうやらそのまま朝まで寝てしまったようだ。

ミコは慌てて部屋を飛び出すと、階下へと向かった。

ぱたぱたと足音を立てて、食堂と思わしきそこへ飛び込む。ミコが最初、オーサに連れられて来た部屋だ。

「おや、ミコ。起きたのかい?」

ミコの足音に気づき、食堂奥のキッチンから顔を出し、おはようと笑うオーサにミコは慌てて頭を下げる。

「す、すみませんでした……!」

昨夜、階下に呼ばれたのは夕飯のこともあったからだろう。きっと用意をして待っていてくれたはずだ。そう思うと申し訳なくなる。しかし、オーサはなに気にしていないようで、「いいの、いいの」と笑った。

「初めての旅で疲れたんだろう。それよりもゆっくり休めたみたいでよかったよ」

言いながらオーサは自らのエプロンで手の水滴を拭いつつ、キッチンから出てきた。

「ちょうど朝食時の混雑が過ぎたところさね。ささ、顔を洗っておいで。一緒に朝食にしよう」

言われるままに食堂を出、ミコは洗面所へと向かった。

洗面所、鏡に映ったミコは、いつもと変わらず眉を八の字に下げていた。悲しそうで今にも泣き出しそうなその表情はあまり好きではない。しかし、意識して変えられるものでもなく、ミコはそこから目を逸らすように蛇口を捻る。

冷水で顔を洗い深呼吸。深く吐いた息はどちらかというとため息のようにも見て取れる。

冷ややかな水のおかげで頭が冷えていく。きちんとしなくては。ここではひとりなのだから。そう気合いを入れ直し、ぼさぼさと寝乱れた髪を手櫛で解かし、再度食堂へと向かった。

「おはようございます……」

こそこそと食堂の入り口から覗き込むようにすればオーサはそんなミコを見て笑った。

「おいで。準備は出来ているよ」

「……あの、」

テーブルへと足を進めながらミコはおずおずと言葉を繋ぐ。

「昨夜は寝入ってしまい、すみませんでした……少し休んだら下に来るはずだったのに」

そうミコが頭を下げるとオーサは軽快に笑った。

「気にすることはないよ。それだけ疲れていたんだ。眠れたならそれに越したことはないさ」

言いつつオーサが手で指し示したテーブルへと腰掛ける。テーブルの上にはすでに朝食の準備ができていた。

四人がけのテーブルの上に並べられたサラダ、卵料理、パン、スープ。至ってシンプルな朝食であるのにそのどれもがミコには魅力的に見えた。

「なにもお手伝いが出来なくてごめんなさい」

そうミコが謝罪の言葉を述べるとオーサは自らも食卓、ミコの前の席へと着くと笑って見せる。

「気にすることはないよ。ここは宿泊施設で、ミコは客人なんだ。手伝うなんて必要のないことさ」

オーサは前から手を伸ばすと、そのままティーポットを取りミコのカップへと注ぐ。

「ま、そのお客人と一緒の席で食事をする無礼は許しておくれよ」

そう言って茶目っ気たっぷりに片目瞑ってみせる。ミコはそんなオーサの様子に安堵の息を吐き、笑った。

「無礼だなんて、そんな……ひとりの食事は寂しいものだと、お師匠様も言っていましたし……」

言って、しょんぼりと眉尻とさげる。

ミコと師の生活の中で、いくつかの取り決めがあった。それは師弟として、占術に対する取り決めというよりも共に生活をするものとしての取り決めだ。そのうちのひとつに食事は必ず共に取ること、というものがあった。

食事の用意をするのはほとんど村人……サクレイドへ順番に給仕してくれている人がおり、その人たちから運ばれた食事を食べる前にミコが温めなおす、というものであった。食事を作ってくれる人たちへの感謝の意を、全ての食物に、天の恵みに感謝の意を、二人、祈りながら食べる。それが日課であり決まりごとであった。

しかし、今のミコの前にいるのはかつての師ではなくオーサだ。ミコの師は、昨夜からひとりで食事を取っているはずだ。その事実はミコの胸を締め付けた。寂しいと言った師が、今はひとりになってしまっている。

温かなスープを口に含んで頷きながら、食事というものは、と師はかつてミコに言った。

「いいかい、食事というものは団欒の場でもあるんだ。おいしいものを食べて素直に笑いあったり、その日のことを話したり、家族にとってとても重要な時間なんだよ」

「家族、ですか?」

「そうだ。私とミコ、このサクレイドには二人だ。だから団欒として私たちは共に食事を取るべきなんだ。朝も、昼も、夜も、ね」

ミコは黙って師の言葉に耳を傾ける。

「さぁ、今日のミコの見た世界の話をしておくれ」

まだ、一日しか経っていないのだ。それなのに懐かしさを覚えるのはおかしなことだろうか。

「味はどうだい?」

ほんのりと、温かい味がする。食堂の空気もあるのだろうが、とても温かくて、優しさに溢れた味だ。サクレイドで食べていたものとはまた違う。

「とてもおいしいです」

ひとくち、スープを呑んだ。こくりと喉を動かしたミコは嬉しそうに瞳を輝かせる。

「少し甘みがあって、身体の芯から温かくなる感覚があります。優しい味……」

「お気に召してくれたならよかったよ」

ミコの素直な言葉にオーサはどこか照れたように笑う。

「いつか、お師匠さまにも食べて頂きたいです」

目の前に置かれたパンも、どこか甘い味がする。アルペールで食べるよりも柔らかく優しい味だ。アルペールのパンはどこか硬く、水分の少ない舌ざわりがある。その違いすら面白い。

師が食べたらなんというだろうか。ミコはわくわくと瞳を輝かせる。

「ミコ。あんたは本当にそのお師匠様とやらが好きなんだね」

「え?」

「ここへ来て、あんたの顔が明るくなったのを初めて見た気がするよ」

そう言われミコは頬を自分の両手で包み込んだ。顔に、出ていたのだろうか。恥ずかしくて恥ずかしくて、思わず俯く。いつもの癖でフードを被ろうとするもケープは部屋に置いてきてしまった。

「で、今日はどうする予定なんだい?」

そんなミコの様子を見て、話を逸らそうとオーサが問えばミコはおずおずとどこか言いにくそうに口を開く。

「あの、昨夜聞いた……ゴドゥムの湖に行きたいのです」

「ゴドゥムに?」

ミコははっきりと頷いた。

「ここから遠いのでしょうか?」

「いや、遠くはないけど……」

どこか歯切れの悪いオーサの返事にミコは首を傾げる。

「ゴドゥムはね、ここディエフという街の小さな区画全てに掛かるほどの広大な湖なんだ。だからいうなればこのディエフの街にいるのであればいつでも見れる。どこからも近い、そう言える湖さ」

それを聞いてミコは安堵のため息を吐く。ではここからでも十分にその湖を訪れることが出来るということだ。

「ただ、ゴドゥム湖はディエフの人にとってとても神聖で、強い力の宿る湖と言われているんだ」

「強い、力……」

「昼間でも霧が濃くて誰も寄り付かない。いや、寄り付かせない。そんな雰囲気のある湖なんだよ」

オーサの言葉にミコはごくりと息を呑む。誰も寄せ付けない、神秘の湖。それはとても魅力的であり、しかし同時に畏怖の対象でもあった。

「間違っても人でにぎわうようなところじゃない。生まれてこの方ディエフに住む私でさえ、こんなに近くとも訪れたことはないくらいだからね」

その言葉にミコはごくりと生唾を飲む。そんなところに今夜、一人で行こうとしているその事実は無謀にも思えた。

「……行くことは禁じられていないよ。もちろん湖の水を汲むことも自由だ。だけど、どうしても足を踏み込めないんだ。まさに聖地という感じさ」

「聖地……」

ミコの手からパンが零れ落ち、それが皿へと返っていく。慌ててそれを掴もうとするも、指先を掠め食べかけのそれは皿の上へと静かに戻った。

「ゴドゥム湖には、月にまつわる伝説があると聞きました。だから、占術に使えたらと思っていたのですが……」

ミコはしゅんと項垂れる。これは、やめておいたほうがいいのかもしれない、と俯いた。現地の人でさえ大切にし、そして守ってきた聖地をミコという部外者が侵してよいものか、そう考えてしまう。

「ゴドゥム湖の伝説?あぁ」

それを聞いてオーサは「そうだそうだ」と頷いた。

「そうか。月を飲み込む湖……」

一人納得したようにオーサは頷いた。

「なるほど、ミコの占術は月の力を使うんだね?それなら確かにゴドゥム湖は最適かもしれない」

オーサは少しだけ悩むような素振りをしつつ、それでも言葉を繋ぐ。

「ゴドゥムの湖は月の力を飲み込んだ、と言われているんだ」

オーサのその言葉にミコは目を見張った。


オーサに勧められたミコはディエフの中でもここ、東区最大と呼ばれる図書館へと足を運んだ。

本の国といえばリーディアがあり、リーディアには現在に至るまでに刊行された本が全て集まってくると言われている。本を愛し、そして本に愛される国なのだ。

そんなリーディアより規模は小さいが、各国、各地区にもやはり図書館というものは存在する。

活気のある市場を抜け、子どもの声の賑わる広場を抜けた先、公的施設の集合地区がある。中でも古く、立派な建物がディエフ東地区中央図書館だ。

重厚な扉を開ければなかからひやりと冷たい風がミコを迎え入れる。図書館独特の古書の香りが鼻腔をついた。やわらかい、香りだ。

そしてミコはその蔵書数に圧倒される。師の書庫とは比べ物にならない。ミコの身長より遥かに高い本棚は壁までと続き、様々な色の、様々な厚さの背が並んでいる。

「すごい……」

思わず感嘆の声が出てしまった。被ったフードが取れないようにと両手で必死に抑え、そして本棚を見上げる。

館内にはたくさんの人がおり、思い思いの時間を過ごしているようだ。

ソファーに座り、本を読みふける人。机にかじりつき、なにか書き物をしている人。

広い室内のおかげであまり感じないが、それなりに人は多いようだ。

しかし、これだけ量が多いとゴドゥム湖についての資料を探すのは至難の業である。

アルペールの図書室といえば師の書庫であり、それは村人にもたびたび開放されていた。ほとんど利用されることはなかったが、ミコにとっての図書館とはそういうものなのである。

この圧倒的な量にミコは思わずたじろいだ。

誰かに聞くべきだろうか。そう、視線をさ迷わせたとき、ひとつの機械が目に入った。人々はその機械を指で操作し、迷うことなく歩いていく。

その姿を見て本の検索機かもしないと当たりをつけたミコはそちらへと歩いていく。

円盤状になったその機械の上には「検索機」の文字がある。これで人に聞かずともなんとかなる、とミコは安堵の息を吐いた。

検索機に指を這わせ、「ゴドゥム湖 伝説」と検索をする。すると検索件数と、該当の資料が画面上に浮かび上がった。ひとつ、ひとつ、おおまかな内容を確認していく。その中でミコが気になった数冊を選択すると、円盤状の機械からころりと小さな玉が転がり出た。

なんだろう、とミコが拾い上げるとその玉は一筋の光を放つ。

「え、」

驚き周りを見回すも、どうやらこの光が見えているのはミコにだけらしい。他の検索機を使っている人を観察してみれば、ミコと同じように玉を手にしたあと迷うことなく歩いていく。

なるほど、この玉の光はお目当ての本の場所まで案内してくれるものらしい。

ミコは見様見真似でその光の筋を追った。

案の定、その光の先が指示していたのはミコのお目当ての本の棚である。その棚まで行くと、今度は玉ではなく本の背が光り出す。なるほど、これで間違えなくお目当ての本までたどり着けるというわけだ。

ミコはその光輝いた本を数冊手にすると、空いている机へと向かった。

「ディエフの伝説」

「ゴドゥムの湖神と月の神」

「神秘なるゴドゥム湖」

どれも古い本のようで、たくさん読みこまれた形跡もある。それほどまでにこのゴドゥム湖はディエフの人にとって特別な場所なのだと改めて実感する。

ミコは、食い入るように物語を読みふける。


『これはまだ、この場所がディエフと呼ばれるよりもずっとずっと昔の話

あるところに、一匹の狼がおりました。狼は群れで生活をする生き物です。しかし、この狼は、その毛色が他の狼とは少し違います。そのせいでしょうか。彼は生まれてから今までずっと、ひとりぼっちでした。

狩りをすることも苦手。ましてや他の動物と共生などできないこの狼は、体力をすり減らし、ただひとりで旅をしていました。

狼はずっと、なにかを探していたのです。ひとり、そして本能のままに歩き続けます。

そうして歩き続けた先で、ひとつの大きな湖を見つけました。

狼は湖畔に寝そべります。すると疲れも癒され、お腹も満たされたような気持になるのです。狼は、きっと自分はこの場所を探していたのだと思いました。

ある晩のことです。満月が空に掛かりいつもより大きく見えた夜。狼は本能のままにその満月に向かって吠えました。

するとどうでしょう。湖面に映る満月がきらめき、その水面にひとりの少女が現れました。

二人はしばし見つめ合いました。

狼はこの少女を知っています。少女も狼を知っています。

遠い昔、人間の世界の住人であった少年と、月の世界の住人であった少女は、出会い、恋に落ちました。しかし、それは人間の世界と月の世界の掟を破る禁忌だったのです。

神の怒りに触れた少年は記憶を消され、狼へと姿を変えられ、少女は月へと幽閉されることになりました。

狼に昔の記憶はありません。それでもこの少女を探していたのだと本能のままに感じました。

狼は湖に飛び込みました。

少女は必死に狼に手を伸ばします。

しかし、湖面に映っただけの少女と狼が触れ合うことなどできるはずもありません。

それでも狼は寂しくありませんでした。少女もどこか満足そうでした。

二人はただ側にいられればそれでよかったのです。

狼が吠え、少女が言葉を紡ぎます。

するとどうでしょう。まるで二人の姿を隠すようにあたり一面霧に覆われました。

ゴドゥム湖は大きな湖。大きな月を飲み込んでしまうほどの、大きな湖です。

ですからゴドゥム湖は月の力を飲み込んでしまいます。だからこそ二人の逢瀬が叶い、霧が二人を隠してくれるのです。

人の姿に戻れぬ狼は、岸辺へ上がると身震いをしました。彼の身体から水しぶきがはねます。

そうして、まるで月明りを反射するように、白銀の狼はきらきらと光り輝くのでした。』


ぱたり、と小さな音を立ててミコは本を閉じた。そしてオーサの言っていた言葉になんとなく納得をしてしまう。これでは確かにゴドゥム湖に入ることを躊躇してしまう。特にこの神話を身近なものとして育ってきたのなら尚のことだろう。

悲しい恋人たちの逢瀬が繰り返される場所。昼間でも深い霧に包まれたゴドゥム湖。

行くべきか、行かざるべきか、ミコは悩んでしまう。

他の本を見ても内容は似たり寄ったりで、狼が神であったり、月の女神と敵対していたりと様々ではあるが最終的には決まって白銀の狼と女神の少女の悲恋だ。

ミコは全ての本を書架へ戻すと、図書館を後にした。

重厚な戸を開けると外はすっかりと赤く染まっていた。そんなに長居をしたつもりもないのだが、ディエフでは満月の日は決まって陽が沈むのが早いらしい。

夜が、来る。

周期を考えれば満月の夜にこの場所に居合わせたこと、それは奇跡に近い。

ゴドゥム湖の行き方は、朝食のときオーサに地図を書いてもらっていた。図書館帰りに寄れるように、聖水をいれるための瓶も数本、ポシェットの中に入っている。

「……」

赤が、落ちる。この後現れる月の大きさを表すかのように、真っ赤な大きな太陽が沈んでいく。それに伴い仕事終わりなのか、人通りも多くなってきた。

ミコはフードを目深に被り直すと肩から下げたポシェットを両手で握り、息を吐く。

そのまま図書館の前の大通りをゆっくりと歩き、広場へと向かう。芝生の広がる広間は、図書館に来る前は親子連れでにぎわっていた。しかし今はもう、その人たちの姿は見えない。

公園のような役割をしているせいか、夜の人通りは少なく、喧騒はどこか遠くに聞こえる。

ミコは広場の奥深く、木々が生い茂る手前までくるとその場に座りこんだ。

ポシェットを開ける。

中から取り出したのは、サクレイドから持ち出した聖水の入った小瓶とサカシの葉、すり潰したツグミの実、そしてルビーニの杯だ。

ミコは大きく息を吸って、吐いた。こんないつ誰に見られるか分からない場所で占術を施すことになるなんて、思ってもみなかった。

小瓶から零さないようにと慎重に聖水をルビーニの杯に入れる。そして震える指先でサカシの葉を千切り入れる。すり潰したツグミの実をひとつまみいれ、占術の下準備は完了だ。

「……ゴドゥム湖へ、行くべきでしょうか」

そう小さな声で唱え、指先を回す。街灯の少ない広場の奥で、ジッとルビーニの杯を見つめる。

揺れる。動く。サカシの葉。弧を描き、回る、ツグミの赤。

ジッと見つめたミコに見えたのは、自身に決断を迫る内容であった。

ミコの見た内容はこうだ。ゴドゥム湖にいくのであれば、無くしものに注意すべし。ただし、行けば意思を変える出会いがある、と。行かねば何も変わらぬ、と。

無くしものがなんなのか、意思を変える出会いとはなんなのか、ミコには想像もつかず首を傾げる。無くしものをしないためには、ゴドゥム湖に行かなければ良い。しかし、自らの意思を変える出会いとはなんなのだろう。ミコの意思とはいったいなんのことなのだろう。

考えて、考えて、そしてひとつ思い至る。

ミコの脳裏に過ったのは、ただひとつ今まで変えることのできなかった決意だ。「誰かひとりのための占術」。そこに出会いが加わるということは、その出会ったただひとりのために占術を施すことを望む、ということなのだろうか。

「……」

師の元へはもう帰れない。王子付き占術師になれなければミコにはもう帰る場所もない。ならば、もし今変われるのであれば変わりたい。そんな出会いがあるのなら出会ってみたい。そう思った。

「……なくしもの、しないためには部屋に置いていけばいいよね」

陽はすっかり落ちてしまった。今日が終わりを告げるまであと数時間。自身の占術を全て信じ切るわけではないけれど慎重になるに越したことはない、とミコは占術道具を置くためにオーサの宿へと向かった。


ゴドゥムの湖。オーサの言う通り、宿からもそう遠くなく、占術道具を置き、ポシェットひとつと身軽になったミコの足で歩いて十数分というところだろうか。怯えながらも活気あふれる夜の街を抜ければその先に広がるのは深い森だ。

ディエフの中心にあるのがゴドゥム湖である。その湖を囲うようにして森が広がり、そしてその先に小さな町々が点在している。

ディエフの街、どこからでも森さえ抜けることが出来ればゴドゥム湖にたどり着くことは可能なのだ。

森の手前、ごくりとミコは唾を飲んだ。フードのせいで視界は悪いが、暗いのはそのせいだけではないだろう。夜の闇よりも深い黒が、まるで手招きするようにミコを森の奥へと誘っている。

恐怖で足が竦む。昼間の、アルペールからディエフへと抜ける始まりの森でさえ強い恐怖を感じていたのだ。それよりも広大で暗いこの森は、ミコにとっては恐怖以外のなにものでもない。

「……行かなくちゃ、」

数度、深呼吸を繰り返す。ばくばくと大きく波打つ心臓をどうにか落ち着け、一歩踏み出した。

怖くない、怖くない、とそう自分に言い聞かせて。

白銀のきらめく狐。月の女神。物語はとてもやさしくせつないものだった。その舞台となる湖にこれから踏み入れるのだ。素敵なことではないか、と自分に言い聞かせる。

一歩、一歩と森を進んでいく。踏み込む枯葉の音。折れる木の枝の音。そう言ったものひとつひとつに驚きながら、きっと、普通の人より何倍も掛けて、ゆっくりと森を歩いていく。

暫く歩くと白い霧が立ち込め始めた。

霧、ということはゴドゥム湖がすぐ近く、ということである。ミコはもうひと踏ん張り、と足に力を入れ、地面を踏みしめる。

もつれそうになる足を叱咤して、懸命に走る。霧の中、ひとり取り残されたような恐怖がミコを包み込む。同じ場所を歩いているような、そんな錯覚に囚われる。

怖い。早く辿り着きたい。

そう思ったとき、視界が開けた。

白い霧が薄くなり、そして森が終わった。

頭上には、息を呑むほど大きな満月が顔を出している。

「……きれい」

思わず感嘆の声が漏れた。アルペールにいたころも月を眺めることが多かったが、こんなにも近くに感じることはなかった。とにかく大きく、美しいのだ。

次に湖へと視線を移す。

確かに、頭上の大きな月をすっぽりと飲み込むような大きな湖がそこにあった。視界不良ということを除いても、対岸を見ることは叶わない。

ミコは暫しその光景に見惚れた。見たこともないほど大きな月と、湖。その湖に反射をしているため、この場所では月が二つだった。そして白く薄い霧に反射をしているように見えて、夜なのになぜか明るくも感じてしまう。

ぼうっとその様子を暫し眺めたミコはやっと我に返り、湖の麓へと膝をついた。湖は、近寄れば底が見えないほどで、夜だからというだけではない、黒に近い濃い青が広がっている。

ミコはポシェットを自らの肩から外すと、傍らにそっと置いた。

ポシェットの中から数本の小瓶を取り出す。一度の占術に使用する聖水はこの小瓶一杯分だ。その一本、一本をゴドゥム湖の水で満たしていく。

あなたの貯えた月の力をどうか、貸してください、と、そんな気持ちを込めて。

最後の瓶に水を入れ、ふたを閉めようとしたその時だった。

ミコの耳が何かを捉えた。

「え、」

遠くから走ってくるような、足音のようなもの。なにかが近づいてくる。

小瓶を両手で持ちながら慌てて立ち上がる。

ディエフは狼の街だ。この音は、もしかして狼の。

そう思った時だった。

森の中から何かが飛び出してきた。白い霧の向こう側、黒い、影。

なにかがミコの足元を捉える。

「……っダメ!」

それはものすごい速さでミコの足元のポシェットを奪った。

驚き思わず退いてしまったミコはよろけ、バランスを崩す。

「あっ」

気付いたときにはもうすでに遅く。

ミコは背後の黒の中に飲み込まれていった。

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