第4話 オーサの宿

オーサが経営するという食堂の二階は小さな宿泊施設になっている。食堂奥、調理場の手前に位置する階段を上がれば、年季の入ったそれはギシギシと音を立てた。階段を登った先に見えるのは数歩ほどで終わってしまいそうな廊下と、ドアが三つ。そこが宿泊施設のようだった。

その三つのドアの先、三部屋のうち二部屋が客人の泊まるための客室なのだそうだ。客室は二部屋あるが、宿泊者はミコ以外にない。その事実を知りミコは安堵のため息をついた。部屋からでるときに誰かに会ってしまったら、そんな些細なことすらミコにとっては恐怖の対象なのだ。

一室を二日間使って良いというオーサにミコは「ありがとうございます」と礼を言い、示された部屋へと入る。開けたドアの先、迎えてくれたのは木の温かさ。白を基調としたミコの部屋とは違い、木の素材をそのまま使用したその部屋に入ると、ふわりとどこか甘い香りがした。包み込まれたかのような温もりも感じる。

「……なんだか、温かいお部屋ですね」

部屋に入って深呼吸。木々の香りを身体に取り入れホッとひと息。振り返り部屋を案内してくれたオーサに声を掛ければ彼女はどこか照れ臭そうに笑った。

「古臭いだけさ」

その言葉にミコは首を振り、再度室内を見渡した。小さな部屋は簡素な作りになっていて、木製のベッドがひとつと、木製の机と椅子が一セット。室内にあるのはそれだけだ。

小さな部屋の中、窓はひとつ。そのひとつの窓は出窓になっている。今は夕暮れであるが、東向きであるその窓からは、きっと朝には燦々とした太陽の光が入ってくることだろう。

ミコはゆったりとした足取りで室内へと歩みを進めるとベッドの脇に荷物を置き、そっと出窓に手を掛ける。自室にあったものよりも小さな作りだが、今にもその窓の向こうからノアが顔を出しそうだと思い、苦笑する。今朝方まで、彼に会うことができない日が来るなど想像もしていなかった。

窓の下は大通りとなっていて、先ほどミコが右往左往していた市場がよく見える。人の流れに興味を覚えたものの、下を見ていると通行人と目が合いそうで、ミコはすぐに視線を外し空へと向けた。青と、赤の混ざり合った色合いはもう時期日が沈むことを知らせている。

「ここディエフは狼の街。そのせいか月明かりがよく映えるんだ。明日は満月。きっとランプを燈さなくとも明るい夜になるはずだよ」

「満月……」

「そう、ディエフの満月は美しいよ。ここに来たのもなにかの縁さ。楽しまなきゃ損だよ、損」

オーサの言葉に苦笑を返し、ちらりと窓の外を見る。何の因果か、このディエフの街に二日ほど滞在することになってしまった。でも、とミコは思い直す。満月の夜をこの街で過ごせるのであればそれはかえってよかったのかもしれない。オーサの言う通り、これもなにかの縁だろう。それに、ここで足止めをくらってしまってもまだ幾日か余裕があるはずだ。

ならば満月を満喫するに越したことはない。美しい満月の明かりを浴びた聖水を手に入れる絶好のチャンスだ。

しかし、とミコは頭を悩ませる。

満月を映す広大な湖とはディエフのどのあたりにあるのだろう。この近くなのか、それとも遠いのか。どれほど広大であり、どんな伝説があるのか。それすらミコは知らなかった。

ミコの知ることは師の持つ書物の中の世界のみ。そこに書いていないことはなにも、知らない。

オーサに聞いてみようか、とミコが思考するのとほぼ同時に背後からさて、と。と声が聞こえた。

「今日は疲れているだろう。ゆっくりと休みなね」

そう言って部屋から去ろうとするオーサの背に何も考えず「待ってください」と声を掛けてしまった。焦燥と、それからいくつかの感情が混ざり合ってつい大きな声となってしまったどこか悲痛にも聞こえるその声に、オーサは驚いたように目を見張った。ミコのただならぬ様子を察し落ち着かせるかのように「どうしたんだい」と安心させるように振り返り、微笑んだ。

「……ディ、ディエフには……」

いざ声を掛けたものの、どうしていいかわからない。聞きたいことはいくつかある。しかし、そのどれからどのように聞いていいのかわからないのだ。加えて先ほどの自分の声。自分自身の行動に圧倒されてしまい、思考が追いつかない。

「ディエフ、には……」

そんなミコの様子を見て、オーサはとりあえず、とミコにベッドへ座るようにと促した。

「大丈夫。なんでも聞くからゆっくりと話してごらん」

「……」

「それとも長話になりそうならなにか飲み物でも持ってこようか」

そう問い、笑った。口の開閉を繰り返し、そしてついにひき結んでしまったミコを促すでもなく、すでにミコの性格を見抜いているようなその人は、再度席を立つとミコに待っているように告げ、部屋を出る。

その様子にミコは安堵の息をつく。この人はきちんと話を聞いてくれる人。ミコの頭が整理できるまで待ってくれる人。そう思ったら何故だか急に泣きたくなってきた。そんな人は、世界に師とノアだけだと思っていたからだ。

引っ込み思案で、臆病。人見知りで、泣き虫。ミコを表す言葉はいくつもある。そして、それらを受け入れてくれる人ばかりでないことを、ミコはあの村にいたときから十分に理解していた。

年端の変わらない子たちと遊ぶこともなく、ただ師の服の裾を掴みその陰に隠れるミコを見て、「ミコちゃんは逃げてばかりでつまらない」と言われたことがあった。もちろん面と向かってではない。たまたま、聞いてしまっただけである。しかしその言葉を紡いだのは、いつも優しく手を差し伸べて気遣ってくれていた、ミコにとって友人になれそうだと思っていた少女の言葉だった。

ミコは自分がそんな風に思われていたなんて知らなかった。

ノアは人気者だった。その出自はもちろんのこと、持ち前の性格のおかげで村中の子ども、いや、大人にも好かれていた。村の中心にはいつだってノアがいた。そんなノアが気遣うミコを、その少女も気遣ってくれていたのである。

子どもたちで遊ぼうというとき、必ずノアがミコをサクレイドまで誘いに来てくれた。そして手を引かれるままにミコはノアの後ろに続き、師のいないときはノアの背に隠れるようにして、彼らと会っていたのである。

ノアの後ろに隠れるミコに、「大丈夫だよ」と安心する笑みを浮かべ、手を差し伸べ続けてくれていた少女。

このままではいけない、そうミコ自身が思った時期もあった。だからこそ、彼らに自分から接しようとしたのである。ノアだけでない。村の子どもたちは皆優しいから大丈夫だと、そう思っていた矢先だった。

いつもの広場に一人で向かい、そして、「遊ぼう」と声を掛ける。それはとても勇気がいることだがきっと大丈夫だ。みんな驚くかもしれない。けれどあの少女はいつも通り笑って、「もちろん」と言ってくれるはずだ。

ミコにとっては大きな決意で、ひとり、サクレイドを飛び出した。

そして、聞いてしまったのである。広場の近くで、「遊ぶならミコも誘おう」と、「たまには皆でサクレイドまで迎えに行かないか」と、そう提案するノアに、あの少女が不貞腐れたように呟いたのだ。「ミコちゃんは逃げてばかりでつまらない」と。

そう思われていたことなど知らなかった。言葉と心が違うこともあるのだと、ミコはこのとき初めて知った。

そして、苦しくて、辛くて、誰にも見つからないようにとその場から逃げ帰った。

結局その日はいつも通りひとりで迎えに来たノアの手を掴むことすら出来ず、以来、ノア以外の子どもとの接触を避けた。

開きかけた戸をまた自らの手で閉じそして、それからより、怖くなってしまったのだ。人と接すること、人にどう思われているのか、人の目に自分はどう映っているのか、それらが怖くて怖くて仕方がなかった。見えているだけが全てではないと悟ってしまったのである。

今だってそうだ。初めての人と話すことは怖くて、怖くて仕方がない。

この人の瞳に自分はどう映っているのだろうか。そんなことを考えたくもないのに考えてしまう。

しかし、オーサはミコの話を聞くと言ってくれた。きちんと聞く姿勢をみせ、ゆっくりでいいと励ましてもくれた。師でも、ノアでもないのに。それはミコにとってはとてつもなく大きなことだ。

村の中だけで完結していた。そんなミコの物語の中に、完結した世界の外で、師やノアの紡いでくれた優しさに近いものに触れることができるなど、思ってもいなかったのだ。

今、なにか口にすれば涙がこぼれ落ちそうで、言葉を紡ぐことはできそうにない。だからこそ、オーサの申し出はありがたかった。

しばらくして、オーサは両の手に二つのマグカップを持ち、ミコの部屋を訪れた。手渡されたカップからはほのかに湯気がたっている。甘い香りに誘われるよう、用意されたミルクに口付ければふわりと柔らかな空気が鼻を抜けた。

「……美味しい」

「それはよかった」

オーサは自分の分のカップに口付ける。

「アニマスは動物たちと共存する国だからね。こういったものがなによりの御馳走で、そしてなにより美味しいのさ」

オーサは片眉だけ下げて笑った。その表情がどこか悲しげで、その表情の理由を知りたいのに、ミコは口を開くことができない。

椅子に座ったオーサがカップを机に置く。

「……ミコは、どうしてセントリアに行きたいんだい?」

ミコが喋れずに唇を噛み締めていると、仕切り直しとでもいうようにオーサがそう口を開いた。

ミコは自分の目尻にじわりと浮かんだ涙の粒を指先で払いオーサの瞳をじっと見つめる。薄い、サファイアの瞳がどこか輝いて見える。

それはまるで師の使う水晶のようで、ミコをより、安心させた。

「お、王子様付き占術師の、試験を受けに行くのです」

「あんた占術師なのかい?」

ぐいっと、椅子から身を乗り出すように話すオーサに気圧されるようにしてミコは微かに仰け反った。

「あ、あの……」

「あぁ、ごめん、ごめん。驚かせてしまったね」

そう言ってオーサは苦笑する。

「占術なんてものには縁がないからねぇ。ついつい物珍しくて」

「そう、なのですか?」

ミコの村にはサクレイドがあり、そのサクレイドには占術を求める人たちがやってきた。それが当たり前だった。だからこそ、ミコはどんな村にも、街にも占術師はいて、そのひとたちの占術によって成り立っているものだと思っていた。ディエフのような大きな街なら尚更だ。

「ないない。占術師っていうのはね、そもそもそう簡単になれるものでもないからねぇ。出会える確率もとても低いんだよ……占術師ってのは師と呼ばれる人について、長い期間修行をするんだろう?なりたいからといってなれるわけでもないしね。そんな人がそうぽんぽんといるはずもないよ」

そう言ってオーサは肩を竦めた。

「にしても、こんなにも若くして王宮を目指すなんて、ミコは才能があるんだねぇ」

その言葉にどこかガツンと殴られたような感覚に陥る。才能なんて、ない。ないからこそ、事実上の破門でここにいるのだと、そう泣き叫びたくなる。

「ねぇ、ミコ。私を占ってみてくれないかい?」

きらきらと、オーサが目を輝かせている。先ほどまで心地よかったのに、その輝きが今では苦しくて堪らない。

自らを占術師と名乗るのも烏滸がましい。ミコは、出来ることなら占術などしたくないとさえ思っているのだから。

「ごめん、なさい……」

気付けばミコの瞳は涙で濡れていた。頬を伝った涙がこぼれ落ち、数滴がカップへと吸い込まれていく。両手でカップを持ってしまっているせいで、涙を拭うことも叶わない。

オーサがどんな顔をしているのか見るのも怖くて俯いた。この謝罪をどう受け止めたのか、そう考えただけで怖くて怖くて仕方がない。占いくらいしてくれてもいいのに、と思われてしまっただろうか。

オーサはミコへと手を伸ばすとカップを取り上げた。

「そうさね。気軽に頼めるものじゃないね。なんていっても王子付きになろうとしているような子だ。そんな実力をここで披露させるわけにはいかないね。こちらこそすまなかったよ」

そしいて着ていたエプロンのポケットからハンドタオルを取り出すとミコの目元へと触れる。

「、」

優しく拭われていく涙に、そうじゃないと口にしたくて、でも出来なくて。ミコはただ首を左右に振った。

「ち、がう……」

「え?」

「違うんです……」

今度ははっきりとそう告げた。必死に紡がれたミコの言葉を促すようにオーサは黙って耳を傾ける。

「わた、私……っ占術、得意じゃなくて……」

「そうだったのかい……?」

ではなぜ、とオーサの顔に疑問が生まれる。王子付きの、専属の占術師などと聞けばそれだけで名誉ある称号だ。ただ一人しか手に入れることのできない称号。一生の安泰が約束された王宮で過ごすことのできる、いわば特権である。それになれるのはさぞかし優秀な占術師であることは想像に難くない。それを踏まえればオーサの疑問は最もだ。

疑問の浮かんだ瞳が、ミコにはどうしても批難されているように思えて見ていられない。震える手を胸の前で合わせ、その手を見つめながら小さく呟いた。

「お師匠様に、言われて、外の世界を見に行きなさいと……いやだなんて、いえなくて……」

「ミコ……」

「本当は、怖くて、怖くて仕方がない、です。占術で先を見ることも、誰かひとりのために、その人だけをより良い方向へ導くなんて、怖い、です」

つっかえつっかえの言葉をオーサは先を急かすでもなくしっかりと聞いてくれる。

「誰かの幸せのために、誰かが犠牲になるかもしれない。誰かを良い方向に導いたせいで、そこに向かうはずだった人がいなくなってしまうかもしれない。その原因を私が作ってしまう。誰かのあるべき未来を奪うことになる。そう思うと、怖くて、占術の結果を伝えられないのです……」

ぼろぼろと、ミコの瞳から次々に涙がこぼれ落ちる。誰かの不幸を回避するための占術は、結果として誰かを不幸に導いている可能性がある。それが、怖くて怖くて仕方がない。

「……ミコは、とても優しいんだね」

そう紡いだオーサの声は、先ほどよりも優しく温かいものだった。

「やさ、しい……?」

「あぁ、そうさ。ミコは誰かのために誰かを犠牲にしたくないってことだろう?それはきっと優しさだ」

しかし、そういうオーサの表情はどことなく悲しみを帯びていた。どうしてそんな表情をするのか分からず、ミコは思わず首を傾げる。

「……さ、話を元に戻そうか」

オーサはこれ以上話すつもりはないとでも言うように、努めて明るい声を出す。

「ミコはなにか聞きたいことがあるんだろう?」

オーサの言葉にミコはそうだったと頷いた。きゅっと手を握りしめて深呼吸。だいぶ、頭の中は整理出来ていた。

「……私の占術は、月の力と水を使うのです。ここ、ディエフには広大な湖があって、その湖には月に関わる伝説があると聞きました。そのことを、知りたくて……」

「あぁ、それはゴドゥム湖……月を飲み込む湖のことだね」

「月を、飲み込む湖?」

「そうさ。ゴドゥム湖はディエフの中でも一番広大な湖。対岸を見ることはかなわないほど、広大な湖さ。そこは常になにかを隠すかのように霧で包まれていてね……」

と、オーサが話し始めたとき、階下からオーサを呼ぶ声が聞こえた。

「おっと、時間切れだ」

そういえばここは食堂兼宿屋だったことを思い出す。ミコが訪れたときにはなにか仕込みをしているかのような、美味しそうな香りが漂っていた。窓の外は暗くなっている。夕飯時。きっと階下にいるのはお客人ということなのだろう。

「ご、ごめんなさい……!引き止めてしまって、」

慌ててミコの部屋を後にしようとするオーサの背に声を掛ける。するとオーサは振り返り笑った。

「いいのいいの!気にしないで!ミコも少し休んだら下においで。とりあえずご飯にしよう」

その言葉にこくりと頷く。ミコの返事を確認する間もなく、オーサは階下へと降りていった。

ミコは閉められた扉をじっと見つめた後、室内にあるベッドへと倒れ込む。

オーサの背を追いなにか手伝いを、と申し出たかったのだが、初めての旅、初めての宿、初めての人。初めてのことだらけでとにかく疲労を感じている。深いため息を吐いて、そのことにすら体力を使っているように感じてしまった。

オレンジ色の照明が暖かい。このまま寝入ってしまいそうだ。

「……」

天井を見つめていたミコが、寝返りを打つ。視線の先に入ったのは占術道具の入ったトランクだ。

「お師匠様……」

確かに外の世界は思っていたほど怖いものではなかったかもしれない。しかし、それは初めて会った人がオーサだったから、かもしれない。

自分は幸運なのだ、とミコは思った。両親がおらずとも師がいた、友人がおらずともノアがいた、誰も知らない街にオーサがいた、ここまでがむしろ幸運すぎたのかもしれない。この幸運がいつまで続くとも限らない。なにしろ旅はまだまだ始まったばかりなのだから。

「明日、湖に行って、それから……」

少し、占術をしてみよう。自分の一日を知るために。

自ら率先してそう思ったのは初めてのことだった。占術からいつも逃げていた。朝に一度、自身を占うことすら億劫で仕方がなかった。

「これも、変化なのかな……」

それが良い変化なのか悪い変化なのか、ミコには分からない。目を瞑り、心を落ち着ける。

『優しいんだね……』

瞼の裏側に先ほどのオーサの悲しげな表情が蘇った。

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