第4話

 がっしゃん、と一際大きく響いた食器の音。

「………………なんだろうね」

 食堂の扉を開けた瞬間耳に飛び込んできたその物騒な音に、目を凝らす。食堂に集まる人々の視線の真ん中に居たのは、同い年の検査課のテストパイロット、笹本航平だった。

「笹本さんですね」

 隣に立つ岬ちゃんが、小さく耳打ちしてきた。

「そう……だね」

 ゆっくりと人垣を掻き分けながら、そちらの方へと近付いていく。同じ開発研究部に所属していて、かつ頻繁にお世話になっている後藤さんと同じテストパイロットである彼は、決して知らない仲では無い。というか、週一ペースで飲みに行く程度には、仲が良い。

 後藤さん同様、あいつは元軍人だ。故に、周りの人間も止めにくいのかもしれない。だとしたら、紛いなりにも友達である自分が出るべき……なんじゃないだろうか。それに、同じ部の人間が不祥事を起こしたとなれば、とばっちりもあるかも知れないし。

 などと思いながら、人垣を抜けてぽっかりとエアポケットのように空いた隙間に顔を出した瞬間、バキッという明らかに痛そうな音が響いた。

「え」

 丁度目の前で起こった事態に、瞬きを忘れる。見開いた目の先で、航平の身体が傾いた。

「……っち」

 その瞬間、ゆらりと航平の後ろに揺れる怒気を見た、ような気がした。

「ちょっ……ストップ、ストーップ!  落ち着け航平、落ち着けないかも知れないけど落ち着け!」

「あぁ?  啓介?  おい離せ、見てたなら解るだろ、離せよ!」

 ぎゃあぎゃあと喚き散らす航平を羽交い締めにして、ずるずると先ほど通ったばかりの扉まで引き摺っていく。

「はいはいすいません、すいませーん通して下さーい」

「おいてめぇ!  人の話無視してんじゃねぇぞコラァ!」

 基本的にはデスクワーカーであるとは言え、後藤さんの操縦する飛行機の後ろに挟まって飛んでいるのは伊達では無い。ベルトの無いあの席に挟まって身体を固定するのは、案外力が要るのだ。

「この馬鹿力がっ!」

「うるせぇよ近所迷惑だろ」

 食堂の外に出た瞬間、ぱっと手を離せば今にも暴れだしそうな勢いで食ってかかられる。

「見てたんなら、俺にも一発あの女を殴らせろ!  俺はあいつに一発殴られてんだぞ!」

 航平は、殴られた左頬を赤く腫れさせて、挙句口の端は少し切れていた。瞬間、脳裏に長い髪を高い所で一つに纏めていた後ろ姿が過る。街中に居れば夏なら珍しくない紺色の半袖Tシャツも、社内となると話は違う。恐らくあれは作業着か何かの下に着ているアンダーという事だろう。だとすれば、工場の方で働いている女性工員かな、と見当をつける。

「笹本さん、大丈夫でしたか?」

「由香里ちゃん、ありがとう。大丈夫じゃないけど、由香里ちゃんの持って来てくれたタオルで冷やせば痛くなくなるかもな」

 後から食堂から出てきた岬ちゃんに、にっこり、と先程とは打って変わった爽やかな笑顔で岬ちゃんに近寄った航平は、素気無く濡れたタオルを手渡された。

「笹本さんに由香里ちゃんと呼ばれる義理はありませんよ。それに、誰が持ってきたタオルでも効果は変わりません」

 ぷい、と顔を逸らしたら、彼は凄く悲しそうな顔でこっちを向いた。その左頬には、濡れたタオルが当てられている。

「おい啓介、由香里ちゃんが冷たいんだけど、どういう教育してんだ」

「航平の方に問題があるんじゃないか。俺の教育云々の話じゃ無いし、寧ろ俺なら全力でお前の事は避けろって教えるね」

 指で右の口の端から血が出ている事を示しながら言うと、航平は親指の腹でくいっと拭ってこれ見よがしに顔を歪めた。

「……オレとお前の仲だろ」

「馬鹿言うな。口説くならタイミングを考えろ。お前はメリハリが無いんだよ」

 態とらしく口を尖らせる航平に人差し指を向けながら言った瞬間、その間に岬ちゃんの手が入った。

「沢村さんと笹本さんの友情の話はどうでも良いです。笹本さん、先程笹本さんを拳骨で殴った女性はどなたですか?  あまりお見かけした事の無い方でしたが、もしかしてまた無闇に口説いたんですか?」

 忘れるところだった、と心の中で岬ちゃんに感謝しつつ、指を下ろして笹本を見る。笹本は、眉間に三本ほど皺を寄せて、フンッと鼻を鳴らした。

「誰があんな女口説くかよ。言っとくけど、今回ほんっとーにオレ悪くないぜ。あいつが一方的に喧嘩売ってきたんだ」

 くいっ、と航平は顎先で食堂を指し示す。

「喧嘩売られた?  売ったの間違いじゃなくて?」

 普段の血の気の多い航平を知っているからこそ、不思議に思って首を傾げる。その仕草に、航平は呆れたようにため息を吐いた。

「お前がオレの事をどう思ってるかは、よーっく解った。覚えてろよ。今度べろんべろんに酔わせて、全部奢らせてやっから。でもアレだろ、由香里ちゃんはオレの事信じてくれんだろ?」

 くるりと岬ちゃんに向いた航平は、清々しいほど良い笑顔を浮かべていたが、対する岬ちゃんは心底呆れたような顔だった。

「まぁ……笹本さんが、嘘をつく理由が解らないので、嘘ではないと思います。それに笹本さんは、すぐバレる嘘を吐く人では無いです」

「さっすが由香里ちゃんっ!」

 すかさず笹本の伸ばした手は、空中であっさり岬ちゃんに叩き落とされた。

「由香里ちゃんと呼ばれる筋合いはございません。で、なんで殴られたんです?」

 航平は、つれねぇな、とぼやきながら器用に片眉をあげた。こういう動作が似合う程度には、航平は整った顔立ちをしている。

「男のくせに情けない、戦闘機乗りの風上にも置けない、とさ」

「……それってどういう」

 尋ねるが、ひょいと肩を持ち上げて、戯けたように誤魔化された。こういう時の航平は、何を聞いてもマトモに答えない、というのは付き合いで学習した。しかし、飄々と誤魔化すその瞳の中に、未だ抜け切らない怒りとも悲嘆ともつかない何かがあるように思える。多分、こいつにとって何か触れられない、触れられたくない、しこりの様なモノなのだろう。

 しかしその僅かなそれも、直ぐに降ろされた航平の瞼に遮られた。

「あいつ、うちの新人さんなんだよ。それでなんか思うところあるんだろ。だからって、俺が殴られる謂れなんて何処にもねぇけどな。なんたって、それまで一言も喋べんなくて黙り込んでたくせに、いざ飯だってなった瞬間アレだぜ?   訳わかんねぇ」

 言うや否や踵を返した航平の背に、手を伸ばす代わりに言葉を投げる。

「何処行くんだよ」

「待機所帰んだよ。ここまで目立ったら、もう食堂帰れねぇだろ」

 航平はひらり、と右手を上げて、首を回して振り返る。器用にその右側の眉毛と、口角を上げた。

「あそこで止めて貰え無かったら、食堂出禁食らってたかもな。あんがとよ、岬女史、沢村技師」

 最後に投げられたその言葉に、岬ちゃんと二人、顔を見合わせて顔を歪める。その本質的な律儀さに、笹本航平という人物の根幹があるのだろう。仕方ないな、とその後ろ頭を見た瞬間、それに気付いた訳では無いだろうが、航平はくるりと振り返った。

「あ、そうそう。後で多分紹介あると思うけど、さっきのテスパイの新人さん、娘なんだよ」

「………………誰の?」

 まさかお前のじゃ無いだろう。完璧に抜け落ちている主語を思わず聞き返した所で、にやりと笑った航平に、聞かなきゃ良かったと早々に後悔したが、後の祭りだ。

「うちの、しゃちょーさんの」

 あぁ、やっぱり聞かなきゃ良かった。いずれ分かることとは言え、今聞きたくは無かった。先程とは違う意味で岬ちゃんと顔を見合わせて、二人申し合わせたように大きな溜息を吐いた。

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