第3話
「今度は沢村君が操縦してる飛行機と一緒に飛びたいなぁ」
コクピットの座席の後ろから這い出して翼の上部へと降りた俺の肩に手を置き、後藤さんはからっと笑う。
その楽しそうな様子にゴーグルを外して首まで下ろしながら首を横に振る。
「俺、小型機しか操縦出来ませんよ。戦闘機乗れなんて、無茶言わないで下さい」
幼い頃から空へと憧れ続けた結果、高等部の頃には人力のグライダーを作り、大学ではなんとか飛ぶ程度の単座の小型機を作り上げた。
その際に、作っても乗る人間が居ないという問題が浮上し、夏休みを利用して軍の飛行学校に隣接されている民間の飛行学校に通い詰めた。そして、最短期間で取れる限界の大きさの飛行機操縦免許を所得してきたのだ。
そんな訳で、乗れなくは無いが、民間機と軍用機というだけでやや仕様が違ってくる上に、ただの軍用機ではなく戦闘機とくれば、コクピットの配置から操縦桿の形から殆ど違う。
「まぁそう言わず。何だったら教えてやるから」
「遠慮しときますよ。俺、これ以上飛んでる時間増えたら、クビにされちゃうかも知れないし」
翼のフラップを踏まないように気をつけながら、地面に降りる。
「クビって……それは考えすぎだろ。君みたいな優秀な技師をクビになんて、そうそうしないさ」
徐々に回転が緩くなっていくプロペラの駆動音に、後藤さんの声がゆっくりとクリアになっていく。辺りに響いていた轟音は、もう殆ど聞こえない。
「いやぁ、俺くらいの技師ならそのへんにゴロゴロ」
「あっ! 沢村さん!」
地面に降り立って振り返り、へらりと後藤さんに笑ったその時、背後から自分と同じかそれより幼い印象の女性の声が投げかけられる。それを聞き、思わずびくりと肩が揺れる。
「岬女史……お、お疲れ様です……」
僅かに声が震えてしまったのは、愛嬌ということで許して欲しい。
「もぉ、また後藤さんに無理言って同乗させて貰ってたんですか? 菊池課長がずっと探してたんですよ?」
「げっ」
鬼の形相で、自分を呼び闊歩する設計課の課長を想像し、思わず顔を歪める。そう広くもない事務所、それから隣接される工場を、大声で呼ばわっていたとすれば、それはそれは多大な迷惑を会社全体にお掛けした可能性が高い。
「げっ、ってなんですか。こっちがげっ、ですよ。何回言われれば解るんです? そう簡単に席を外したりしないでくださいよ」
「沢村君、また無断で出てきちゃったのかい?」
前と後ろからの挟撃に、最早俯いてすいませんと連呼するしか手が無い。
「ほら、とっとと帰りますよ。課長、そのうち怒りすぎで倒れちゃいますよ」
後ろからがしっと肩を掴まれて、たたらを踏む。凡そ二十歳過ぎの女性とは思えない程の力強さで握られて、そのまま引き摺られるように事務所の方へと歩き出す。
「えっと……後藤さん! 今日は有難うございましたっ!」
大きく手を振り礼を述べると、後藤さんは操縦席に腰掛けたままゴーグルと飛行帽を外しつつ、右手を軽く上げた。
「此方こそ、君と飛ぶのは楽しいからね。今度はちゃんと、菊池課長に断りを入れてからおいで」
にこやかに答える後藤さんに、くるりと振り返った岬ちゃんがぺこりと頭を下げた。
「うちの沢村がご迷惑お掛けして、すいません! よくよく言い聞かせておきますので、検査課の坂本課長に宜しくお伝え下さい!」
途中、すれ違った試作機の整備士が、弱々しく笑った。大方、これじゃあどちらが年上か解ったものでは無いと思っているのだろう。実際、今年の四月に入社したばかりの社会人三ヶ月の岬ちゃんは、俺より余程しっかりしているように思う。
「ほらっ、沢村さん! とっとと帰りますよ!」
心の内を読んだようなタイミングで叱責されれば、本当に立つ瀬がない。すっかり精神的に打ちのめされた俺は、弱々しく笑うので精一杯だった。
豊かな海と、長閑な自然とを讃えたこの国は、温暖な気候と大らかな国民性とによってかそうでないのか、兎に角ここ最近では他国とのいざこざというのとは無縁だった。その所為か、必要以上に平和ボケした国民が、隣国は必ずしも友好的である訳ではないと言うことを思い出したのは、つい三年前の事だ。
平和ボケして大らかな性格の人間が多いからと言って、全くいざこざが起こらないという訳ではない。対外的に平和なら平和なりに、国内でぽつぽつと問題が勃発しては消えて、を繰り返すのは世の常と言える。その摂理に違わず、この国では表面的には六年前、そして恐らく水面下ではもっと前から、権力者間での権力争いが起こっていた。
この国は小さな島々の集合体である。一箇所で点在する島の隅々まで統治する、というのはなかなか難しい。最近では通信手段も発達し、感度の良し悪しに差はあれど、どの島にも電波が通っていて、電話で連絡が取れるが、それまではいちいち手紙を書いて、船便で運ばなければならなかった。その過程の中で効率化が進み、今では各島に一人、それなりの権力を持つ統治者が置かれ、そしてその島の統治者の上に都に住まう皇帝が位置するという現在の権力構造が出来上がった。そして、その島々の統治者として担ぎ上げられたのが、皇帝の血筋である貴族達。
この第五工業島は、その面積の大半を占める樫原航空機の社長であり軍の将校を勤めていた樫原武雄という貴族が統治をしている。この樫原社長という人は、航空機にゾッコンで、逆に言えば航空技術の発展以外には興味が無いのだが、貴族の中には領土に拘る人間も少なくない。特に、島全体の収益を農作物や資源で賄っている場合、やり方や天候にもよるだろうが面積の増加イコール収益の向上になる事が多い。そんな貴族同士の争いに、隣国である蓬莱王国が裏から武器やら資源やらの提供を極一部の統治者相手にやっているという噂が人々の口に乗り始めたのが、三年前。それから話はエスカレートしていき、つい半年程前から実しやかに囁かれ始めたのが、蓬莱王国がその貴族同士の争いから国内の分裂を図り、近々侵略戦争へと発展するという噂だ。
それに伴い、俺個人の問題で言えば、元々作りたかった民間の旅客機の生産は激減し、結局こうやって、戦闘機を作るに至る。
「………………はぁ」
遥か遠くに見えるか見えないか、米粒より小さい隣の島のその向こうにある筈の、本土に向けて溜息を吐く。
それもこれも、病床に着いた所為で発言力のほぼ無くなった現皇帝が暴走する貴族達を止められなくなったからだ。健康な頃は、統率力のある良い皇帝だったと思っていたが、倒れた途端こうもあちこちに歪みが生じるとは。やはり良く思えた皇帝も、然程では無かったという事だろう。もし彼が本当に優秀なら、自体を予測し、統治者として最大限の対策は打っておいた筈だ。
「………………あ〜」
芝生の地面に手をついて、足を投げ出し天を仰ぐ。
地上に這い蹲って馬鹿の一つ覚えのように争いを繰り広げ続ける人類の頭の上の空は、いつも蒼い。雨が降ろうと雷が落ちようと、その上はいつも同じ色だ。
人間が何をしたって、この空は恐らく変えられない。そんなちっぽけな奴らが、これまたちっぽけな事でごたごたを繰り広げているのだ。これほど阿呆らしい話は無い。
切り立った崖の上から見渡す景色は、只管蒼く、広い。
頬を撫ぜる風が、そのまま胸の奥まで届いて、些細な苛立ちや落ち込みなど、何処かへ攫っていってしまうようだ。
大きく息を吸って、吐き出すと同時に背を地面へと寝かせた。
「またここに居たんですね」
「放っといてくれよ……俺、今すごく凹んでんの」
頭上から降ってきた影と岬ちゃんの声に、目を瞑りながら答える。岬ちゃんはこれ見よがしに溜め息を吐いて、俺の右横まで回ってきた。すとん、腰を下ろして、ぱしんと額を叩く。
「痛っ」
「何馬鹿な事言ってるんですか。毎回毎回同じ事やって、毎回毎回同じ事で怒られてるんだから、そう凹む訳も無いでしょう」
年上の人間に向かって、酷い言い草ではあるが、威厳もクソも無いのでただ額を抑えて瞼を持ち上げる。その向こう側では、岬ちゃんが呆れたような顔でこちらを見下ろしていた。
岬ちゃんのセミロングの髪が、肩の上で風でゆらゆら揺れる。
「怒られる事、解ってて毎回後藤さんに乗せて貰ってるんじゃないんですが? 私、沢村さんのそういうよくわかんない飛行機への情熱みたいな物だけは、尊敬してたんですけど」
信じられないような気持ちで、岬ちゃんの薄いピンクの少しぽてっとした唇が、尊敬という言葉を紡ぐのを見ていた。
直ぐには言葉が出てこなくて、すうっと小さく息を吐いて、一度口を閉じて、再度開く。
「まさか、岬ちゃんに尊敬されてたなんて思わなかったよ……いつも怒られてばっかりだから」
へらっと笑って上体を起こすと、岬ちゃんは目を大きく瞬いた。
「何言ってるんですか。基本的には、いつも呆れてます。懲りないなぁって、思ってるんですよ。そんな中で、ちゃんと良いところもあるって思ってるっていうだけの話ですよ」
特にどう言われる訳でない日は、服装に決まりのない会社なので、何を着てきても自由だ。だからと言ってそこまで抜けた格好をしている社員もそう居ないのだが、取り敢えず目の前の岬ちゃんは白い生地のスカートを穿いていた。その裾が、視界の隅で空を流れる雲のように揺れる。
ふぅ、と大きく息を吐いた。
「空を飛びたいと思うのは、地面に縛り付けられていた人間の本能のようなものだ。海には浮けても空には浮けなかった人間の、神話の時代からの悲願だ」
目を瞑って、風に流すように呟くと、消え入りそうなその言葉を大気中から拾ってくれた岬ちゃんが、首を傾げた。
「何ですか、それは」
「ほら、海外の神話にあるじゃん。空を飛ぼうとして、地面に落ちた英雄の話」
英雄、と言って良いのか否か、兎に角空を夢見たその青年は、偽りの翼を焼かれ、地上に落ちた。人間の足に絡みつく、地面に繋がる鎖というものは、そう簡単には切れるものでは無かったのだろう。
死ぬと解っていたかそうで無いかは預かり知らないが、兎に角死ぬリスクというものは覚悟していたに違いない。それでも飛びたかったというのは、海の向こうで人類初飛行に成功した青年も、その英雄も、もっと言えば今この時も空を飛ぶ飛行機に乗っているパイロット達も、そう変わらないのでは無いだろうか。
「違くて……えっとですね、それはどなたの言葉ですか? 沢村さんの持論?」
「沢村……と言えば、沢村だけどね」
空の向こう、遠い遠い、過去の話だ。目を細めて、水平線を見詰める。視線の先で、小さく白い波が立つ。
「父親だよ。父親が、そう言ってた」
物心ついた頃から、幾度となくこうやって、一緒に空を眺めてはそこを飛ぶ金属の塊の事を、楽しそうに語っていた父親の顔が脳裏を過る。
「お父様……ですか。お父様も、沢村さんと同じ様に飛行機がお好きだったんですね。それで……お父様は、今どうしていらっしゃるんですか? 飛行機関係のお仕事に?」
すっ、と右手を持ち上げて、人差し指で空を指差した。その向こうで、呑気に鳥が空を漂っている。
「死んだよ。俺が、初等部入るのと同じくらいに」
あの鳥も、今大きく風が吹けば、バランスを崩して海に落ちる。空を飛ぶというのは、それだけ不安定な行為なのだ。
「そう…………だった、んですか。すいません、無神経な事を聞いてしまって」
俯いて、芝生を見詰める岬ちゃんの瞳がゆらりと揺れた。その表情に、小さく息を吐いて立ち上がる。
「良いよ、別に。俺自身、そう気にしてないし……なんたって、親父が死んでから、十年以上経ってるからさ。よく覚えてない、っていうか。ほら、行こ」
ケツに付いた芝を払いながら、岬ちゃんに手を差し伸べる。面食らったように目を瞬いてこちらを見上げる岬ちゃんに、小さく笑って見せた。
「大方、俺を励ましに来てくれたんだろ? いつもみたいに、飯に誘ってくれるもんだと思ってたんだけど?」
呆気にとられたように口を半開きにして数秒固まっていた岬ちゃんの顔は、瞬く間に首筋から順に赤く染まっていき、最終的に茹で蛸みたいな色で口を尖らせた挙句、俺の差し出した手は使わず一人ですくっと立ち上がった。ふんっ、と鼻息を荒く吐き出して、ちらりと視線をこちらにやって、スカートに付いた芝を落とした。
「私は、ただ単に少しだけ、沢村さんが落ち込んでるんじゃないかと思って見に来てあげただけです! でもっ、どうしてもというならお昼ご飯ご一緒してあげても良いですよっ……沢村さんが、どうしてもって言うなら!」
つん、と顎を少し上に向けた岬ちゃんは、そのまま胸も張って腕を組んだ。
「じゃあ、どうしても。岬女史、お昼ご飯ご一緒しませんか?」
「………………仕方ありませんね」
そして懲りずに差し出した手はやっぱり無視されて、岬ちゃんはさっさと踵を返して事務所と食堂のある方へと歩き出してしまった。
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