第2話
視界の左右を、青い空と白い雲が後方へ向かって勢いよく横切っていく。どこまでも見通せる程に透き通った、抜けるような空は天蓋のように頭上を覆っている。幼い頃から、夢見続けた景色。
すうっと大きく息を吸い、目の前の座席の頭部を掴んで、遥か上空を覗くように、目を細めた。
こうして空だけを眺めていると、まるで自分が空の一部になったかのような錯覚を覚える。心の底まで、青く青く染まっていく感覚に、徐々に意識を沈めていく。すっと風を切る。泳ぐように、雲をくぐり抜けていく。高く高く、昇っていく。
その時、がくんと傾くような一瞬の揺れに、我に帰った。
視線を前方に戻せば、眼下を流れる、透き通った海、その向こう、僅かに頭を覗かせるのはこの国の本土だ。
点在する小さな島々と二つの大きな島を有するこの橘皇国において、国土の半分以上は今視界の下方にぽつりぽつりと浮かんでいるような小さな島が占める。大きな島の内、皇帝の住まう都のある方を本土と呼ばれ、他の島々よりも栄えており、教育機関から生活ラインまで全てが高水準で整っている。
「……懐かしいなぁ」
ぽつりと零してからハッとして、一瞬視線をパイロットの後頭部へ向けたが、彼の視線は依然として真っ直ぐ前を向いている。思わずぽつりと呟いた声は、操縦しているパイロットに届かなかったようだ。ほっと胸を撫で下ろし、自分も視線を前方へと向け直した。
一年ちょっと前、俺はその都にある皇国大学を卒業し、晴れて念願の飛行機技師になった。
島国であるこの国に於いて、今まで通商と移動の足となっていたのは主に船。そんな中、海の向こうの遠い国で、人類初飛行が成功したのが、今から約30年前だ。飛行機に関する技術はそれから目覚ましい発展を遂げ、その内船の存在も脅かすようになるだろう。俺は、そう信じていた。
「そろそろ旋回して、帰るよ」
くるりと首を巡らせて、この飛行機を運転している操縦士が声を掛けてくる。轟々と鳴り響く風と甲高いプロペラの音の中でも、良く通る良い声だった。
「わかりました! こっちに構わずにぐわっと回っちゃって下さい!」
退役軍人で、ベテラン飛行機乗り、後藤さんは我が社の誇る試験操縦士だ。軍人時代は、皇国軍にその名を知らぬ者はいない程の名戦闘機乗りだったと聞いている。怪我が原因で退役したという話だが、言われなければその怪我の影響が解らない程の腕前だ。その証拠に、本人から何も聞いていない俺は、後藤さんが何処を怪我したのか全く解らない。
奥さんも綺麗で、二歳と五歳の子供がいて、何れも起業五年目、俺たちの勤める航空機メーカー、樫原飛行機の本社と工場のある第五工業島に住んでいる。
「いやぁ、若手のホープと名高い沢村技師を失神させてしまったなどとなれば、どれだけお小言を貰えるか解らないよ」
「後藤さん、からかうのはやめて下さいよ……ホープじゃなくて、お荷物でしょう」
快活に笑う後藤さんに、据わりの悪い尻を無理矢理隙間へ押し込みながら返す。単座戦闘機であるこの機体には、元より二人目の座る場所など設計上設けられていない。座席の後ろの本来座るべきでない隙間に、無理に身体を押し込めている状態では、安定しないのは当然だ。
「まぁ、そんな隙間に挟まろうなんてのは、沢村君だけだからね。そりゃあ開発課の人間も妙な顔になるさ。じゃあ旋回するから、捕まっててくれよ」
「なるべくギリギリまで速度上げて、狭く回って下さい!」
「解ってるよ。振動の具合を確かめたいんだろう? 沢村君、吐いたりしないでよね」
言うや否や、ぐわっと景色が周り、天と地が傾く。その移り変わりに驚く間も無く、旋回する機体の外側に引っ張られるような、上から押しつぶされるような、そして前方から何かを押し付けられるような、自分自身の体積を縮めようとするかのような感覚に、目の前が暗くなる。ぐっと奥歯を噛み締めて、眉間に皺を寄せ、その感覚に耐える事数秒、体感的にはもっと長い時間。遠くなる意識の向こうで、がたがたと揺れる機体を感じたと思ったら、黒く縁取りされ、ちかちかと瞬く視界が平衡を取り戻す。
「大丈夫かい、沢村君」
遠くから、後藤さんの声が聞こえてはっとする。ゴーグルの中で目を瞬いて、深呼吸。
「大丈夫です。やっぱり、ちょっと揺れますね……この感じだと主翼かなぁ」
飛行機のイレギュラーな揺れは致命的だ。下手をすれば空中分解もありえる欠点と言える。ある程度なら許容範囲には違いないが、揺れの種類と原因によっては操縦士の生命に関わる事もあり得るのだ。
揺れの原因を、頭の中でずらっと並べて、さてどうしたものかと考えていく。設計と言うものはトライアンドエラーの繰り返しに違いないが、そこに人命とコストが関わる以上、エラーばかり繰り返しても居られない。
「沢村君は、真面目だなぁ」
大らかに笑う後藤さんに、小さく息を吐いてこちらも笑う。本当は笑っている場合では無いのだが、あまり根を詰めすぎるなという後藤さんの気遣いを、無碍にするのも忍びない。
そんな葛藤の結果、やや中途半端な笑みになってしまって居たとしても、まぁ仕方ないのでは無いかと思う。
「後藤さんってば、さっきからずっと俺をからかってばかりで、酷いなぁ」
遠く空の彼方、海ではなく、もっともっと上の方へと目を向けながら零す。あの向こうには、人知の及ばない何かがあるに違いない。遥か上空、そこに広がる何かを見透かすように、目を凝らす。
「からかって無いさ……俺ら操縦士ってのは、一歩踏み外せば文字通り、真っ逆さまなんだよ」
変わらぬ声音で告げられるそれに、細めていた目を見張る。彼の飛行帽の後頭部を穴が空くほど見つめれば、まるで見えているかのようなタイミングで後藤さんが吹き出した。
「そんな大層な話でも無いんだよ。ただ、君みたいにさ、真面目に作ってくれる人なら、俺はいくらでも命を預けられるって、そういう話でさ」
「………………十分、大層な話ですよ、それ」
操縦士という職種の人は、自分たちとは感覚が違うのかも知れない。
最早この程度のプレッシャーなどで寝れなくなったりはしないが、それでもやはり、双肩にずしりと何か重い物がのしかかったような感覚を覚える。
その重さを自覚しながら、小さく溜息を吐いた。
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