しばしの別れ
相変わらず、ヨーロッパの情勢は一触即発だった。
アトランティス本島の新聞が伝えるところによると、オーストリア=ハンガリー帝国が最後通牒を突きつけるのも時間の問題だという。
そうなれば、同盟でがんじがらめになっている諸国も動き出さざるを得ない。
……ヨーロッパが戦火に包まれることが無ければ、クロエと一緒にあちこちを見て回りたい、蒼司郎はそう思っていた。
けれどそれは――多分叶わないと予感している。
あまりにも大きな力が、動き出しているのだ。それはきっと、人の力では容易に止められるものではない。
そんなことを考えながら、蒼司郎はアルストロメリア学園卒業式のスピーチを聞いていた。
ユミス・ラトラスタ・アトランティスも学園長として式を執り行っていたが、国際魔女連盟の長でもある彼女の疲労は明らかだった。ろくに休まずに、執務にあたっているのだろう。……無茶なことをして、彼女の私生活のパートナーである月子に心配をかけていなければいいのだが。
卒業生たちの制服の胸元には、白いアルストロメリアの花が咲いている。
これは、下級生たちがひとつひとつ作り上げた造花だ。魔女科の学生も、仕立て科の学生も、みんな一つは作る。よく見ればたまにいびつな花もあって、それでも懸命に仕上げたのがわかってしまうから、愛おしく切なくなるのだ。
「皆様はこの学園を卒業します。けれど」
壇上のユミスが、まっすぐに自分たち卒業生を見ながら、最後の言葉を送る。
「すべてが今日で終わりではありませんわ。ここから、皆様はまた始まるのです」
ほとんど眠っていないのだろう、あまりにも深い疲労の色はメイクでも隠しきれるものではない。
それでもユミスは語りかける。
「そんな、未来の輝きに溢れた皆様を導くことが出来て、私達は誇りに思いますわ。このアルストロメリア学園で学んでくれて――ありがとう。……ありがとう」
どうしてだろうか。二回目のありがとう、は蒼司郎はこちらに向けて言われた気がした。
……思い込みが過ぎるかもしれない。けれど、ユミスが、見ていたような気がして。
拍手の音の中で、蒼司郎は呟く。「どういたしまして」と。
長いようで短い式が終わって、並木道のあちこちで卒業生がお世話になった教師達に挨拶をしたり、在校生たちに泣きつかれたりしている。
蒼司郎も、担当指導教官だったイジャード先生に挨拶をした。それにクロエとのことでいろいろお世話になってしまったということで、マグノリア先生にも。
……ユミス学園長の姿はない。
残念に思ったが、状況が状況だ。仕方がないだろう。
とはいえ、彼女のことなので姿を隠してどこかでこっそり見守っていそうにも思えた。
どこかでラベンダーの香りがしたら……きっと、あの美しい御婦人のことを思い出すのだろう。きっと。
「これで気楽な学園生活も終わり、か」
リオルドが、珍しく重い溜息をついた。
「そうだな。この夏には、下宿も出ていかないといけないしな」
「あぁ」
それから少しの間、蒼司郎とリオルドは並んで夏の青空を眺める。
この空の続くところに、ヨーロッパがある。今まさに戦火が放たれようとしているかの地が。
「もしも戦になれば、俺は兄の代わりに戦場に行く」
「リオルド」
「それが、貴族の責務でもある。……これまでは好きなことを学ばせてもらったんだ。兄は、体が弱いから、耐えられんだろうし……」
それに、とリオルドはつとめて明るく、からりと言う。
「仕立て師の俺ならば、前線に送られることはないのだからな!」
「リオルド」
たしかに、仕立て師なら戦地には行かずに
「リオ、ルド」
「ま、戦争だなんだと騒いじゃいるが、どうせすぐに終わるさ」
「……そうだな」
そうであって、欲しい。
その言葉をかろうじて飲み込む。
だって、その言葉を口にしたかったのは、リオルドの方なのだから。
「頼むぜ、同盟国!」
彼は、わしゃわしゃと蒼司郎の頭を大きな手のひらで撫で回したのだった。
「おーーい! リオルド、なに蒼司郎といちゃついてるんだよー!」
ひどくぼろぼろの格好の学生が近づいてきた、と思ったら仕立て科席次一位である、シィグ・アルカンナだった。
ぼろぼろにした犯人は、彼に憧れる在校生たちだろう。
制服のボタンなどをもっていかれてお守りにされるのは、席次一位の学生のさだめのようなものだ。一位が女子学生の場合はある程度遠慮してもらえるそうだが、男子学生の場合は誰も遠慮などしない。中には制服のシャツとズボンを剥ぎ取られた例もあるらしいから、シィグはまだマシだ。
「俺がひどい目にあってるときに」
「羨ましいだろ、お前もいちゃつけ」
「あー、嫉妬されそうだし後でにしておく。リオルド、おまえレベッカ放っておいただろ。あいつ、フィオリーニア相手にすげぇ愚痴ってたぞ。迎えに行けよすぐに、いますぐに、可及的速やかに」
「…………行ってくる」
慌てて立ち去るリオルドを見送って、蒼司郎はシィグの格好を改めて見たが、ひどいものである。さすがにズボンは残っているが、シャツの袖が片方破り取られて、ボタンは一個も残っていない。
「大変だな」
「ま、アトランティス諸島出身者から、席次一位が出たしな、多少は覚悟してたさ」
地元は地元で、大変なようだ。
「でもこれで、育ててくれたじいさんに少しでも恩を返せた気がして、すげぇほっとしてるんだ」
「……そうか」
シィグは、アトランティスでも有名な仕立て師の祖父に育てられたそうだ。
誰かが、あいつの父親は酔っ払って海に身を投げたどうしようもないやつで、母親はよそに男を作って出ていったんだ、なんて言っているのを聞いてしまったことがある。
……多分、それは全部真実なのだろう。
だけどそれが何だというのか。シィグは、席次一位として君臨し続けて、そして席次一位として卒業する。それは、あふれんばかりの才能を持っていて、血がにじむほどに努力し続けても、なお難しいことを……蒼司郎はよく知っていた。
「シィグ」
「何だよ」
「……ありがとうな」
どうしてだろう、涙が出てきそうになるのは。
結局、とうとう一度も蒼司郎は彼には勝てなかった。だけど、くやしいとか、そういう思いじゃなくて――彼と友人でよかったと、彼と会えないことが寂しいと思う、そういう涙だ。
「おい、泣くなよ……こっちも、泣けてきちまうだろ」
男二人でひとしきり泣いたあと、シィグが大事なことを思い出してくれた。
「そういえば、クロエから伝言。闘技場の『あの場所』で待ってるってさ」
「……それを早く言えぇーー!!」
クロエの旅券は、この不安定な情勢ではなかなか発行が難しいらしく、蒼司郎は一人で皇御国に帰国することが決まっていた。
寂しい帰路になることを残念に思いながら、あの日――クロエが皇御国に来ると宣言したあの場所を目指して歩く。
確か、闘技場のすぐ外の――
ふわっと、初夏のさわやかな風が吹き抜ける。
緑色が、視界いっぱいに舞う。
「ソウジロウ!」
そこには、クロエがいた。
誰よりも愛しい、緑のおさげ髪の魔女が。
「卒業、おめでとうだね」
「あぁ、クロエも卒業おめでとう」
さっきまでたくさん投げかけられていた言葉なのに、妙に照れくさいのはなぜなのだろうか。
二人でしばらくもじもじしてから、会話を続けた。
「……しばらく、会えなくなってしまうな」
「すぐに会えるよ、それまでちょっとだけお別れ」
クロエが近づいてきて、蒼司郎の顔を両手で包み込む。
「次に会うまでに、もっと美人さんになって私を驚かせてね」
蒼司郎は、彼女の背中を抱いた。
「……待ってるから」
二人の背丈は、ほぼ同じ。クロエのほうがちょっとだけ高い。
だから、目線の高さもほぼ同じで、唇の高さだってほとんど同じ。
だから、キスがとてもしやすい。
二人は、お互い吸い込まれるように、唇を合わせたのだった。
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