花の時代の終焉と、鉄の時代の序曲




 熱は下がったし体も軽い。天気だっていい。

 けれど、クロエ・ノイライの気分はこれ以上なく重たかった。



 熱は下がったと言っても母の許可が下りなくて、ただの風邪なのに結局七日も学園を休んでしまった。


 ……ソウジロウは、どうしているだろう。

 見舞いに来てくれたフェリシィ達が言うには、彼も風邪で休んでいるようだが。まさか、傘をささずにあの雨の中帰宅したのだろうか。


 そこまで考えて、クロエは立ち止まって頭を振った。

 それはないだろう。きっとたまたま。偶然、彼も体調不良だっただけ。



 大きく腕を広げて、早朝の気持ちのいい空気を胸いっぱいに吸い込む。

 初夏の、雨上がりの土の匂いと、緑の匂いと、どこかから流れてきた花の匂い。


 他の子達と顔を合わせるのがなんとなく気まずかったので、今日のクロエはかなり早い時間の登校だ。

 学園の敷地内に入っても、いつもの並木道には誰もいない。

 毎日学生たちで賑わっているのに、静かでがらんとしたものだ。



 この七日間、考えていたことがある。

 ソウジロウとのことだ。

 自分とソウジロウのこと。

 どうすれば、一番いいのかを考えていた。

 だけど、八方まるくおさまる道なんて、見つかるわけがなくて――


「にゃぁん」

「きゃっ」

 突然、甘えるような猫の鳴き声が響く。

 慌てて前を見れば、並木道のど真ん中にあの白猫が堂々と立っていたのだった。


「にゃあ」

 白猫はてことこと、どこかへ向かおうとしている。後ろを振り返り振り返り、クロエについてこいとでも言うように。


「……どこに案内してくれるの?」

「にゃあーん」

 白猫は一声啼いた。翻訳するならば、それはついてのお楽しみだよ、といったところだろうか。


 並木道をまっすぐに行き、植え込みをつっきり、建物と塀の隙間を抜けて、たどり着いた場所は、学園の中庭だった。

 すぐ近くには東屋があり、誰かが備え付けの椅子に腰掛けているのが見えた。


 ――あれは。


「ユミス、学園長」

「あら」

「おはようございます」

「えぇ、おはようございます。ちょうどいいですわ、クロエさん。こちらへおいでなさい。見てほしいものがあるの」

 ユミス学園長は前よりもいっそう美しくなったと言われる花のかんばせで微笑むと、クロエを手招きする。

 いったい何があるんだろうと、東屋へ近づく。ちなみに、白猫はすでにユミスの膝の上で丸くなっている。……彼女の高そうなドレスを汚していないだろうか、他人事ながら不安になってしまう。



 見てほしいもの、というのはテーブルの上のようだった。

 黒い布が敷かれたそこには、何枚かのタロットカードが配置されている。

 ……それにしてもこれは。


「あなた――これをどう読み解くかしら?」

「どうもなにも、悪いとしか言いようが。最悪です」


 来てはいけないカードが、来てはいけない場所にすべて配置されている。

 どういう星と運命のめぐりになれば、こういう結果が出るのか。



「そうなのよ。まさに、最悪の災厄といったところかしら」

 そう言うと、ユミスはさっとカードをまとめて布で包んでしまう。


「花の時代が終わり、鉄の時代が訪れる――」

 まるで詩を諳んじるように、彼女はひどく悲しそうに呟く。

 恋人と再会することができて、ユミスは前よりいっそう綺麗になったのに、何をそんなに胸を痛めているのだろうか。


 ……。

 ユミスに、ソウジロウとのことを相談したほうがいいだろうか。

 何もかも同じというわけではないが、遠くの国からの留学生と恋人関係になったという共通点はあるのだ。


「あの、学園長」

「あぁ、そうですわ。ねぇクロエさんもう一ついいかしら」

「は、はい!」

 話を切り出そうとしていたところだが、ユミスの方からも何かあるらしい。

 ユミスは、にっこりと無邪気に微笑むと、こう言った。


「仲直りは、早めにしておくのですわよ」

「……はい!」


 あぁ、もう。

 このお方は自分の恋路のことはてんで不器用極まりない様子だったのに、人のことならよくわかるらしい。


「ふふ、それじゃあ。私達はこれで」

 そう言って、ユミス・ラトラスタ・アトランティスは白猫を抱いて立ち去ってしまった。


 十年間、恋人と引き離されていたユミス。

 ……ソウジロウの故国と、アトランティス諸島は、遠い。あまりにも遠い。

 なら、自分の進むべき道は。


 クロエは、自分の制服の肩から流れるマントをきゅっと握った。

 色は紺。最上級生の証の色。

 これを身につけられる期間も、あと僅かなのだ。



 ……。


 そろそろ、校舎内にも学生が増えてきたようだ。

 クロエも早く登校しなければ、遅刻になってしまう。


「ん、行かなきゃね」


 久しぶりなのだから、ちゃんと正面玄関から登校したかった。とりあえず、さっき通った猫の道は帰りは使わないことにしたので、ぐるりと校舎外側を半周して、正面に戻る。


 普段はあまり通らない校内の敷地を歩くと、新鮮な気持ちになる。三年間この学園に通っているのに、なんだか少し面白い。


 闘技場のすぐそばまで来ると、見慣れた後ろ姿を発見した。

 男子にしては小柄で細身な体格。少し長い黒髪を、綺麗な赤い飾り紐で纏めている。

 彼の鞄の持ち方も、歩き方も、なにもかも、懐かしくて愛おしい。


「……ソウジロウっ……!」


 クロエが呼びかけると、彼は迷ったように数秒間動きを止め、それからゆっくりと振り返る。

 ……クロエの求めたソウジロウ・ヒノが、そこにいた。


「おはよう、ソウジロウ」

「おはよう……クロエ」


 彼は少し目をそらしたけれど、ぎこちない様子だったけれど、それでも挨拶を返してくれる。


 クロエはぐるりと周囲を見回す。

 人は今のところいない。ムードがある場所というわけではないが、他に場所もないし時間もないので仕方がない。


「ソウジロウ、あのね」

 真剣な声で彼に話しかけると、彼も視線を合わせてくれた。


「私、卒業したらスメラミクニに行くよ」

「……お前……っ……!」


 まだ何も決めていないけど、父母にさえ相談してもいないけど、旅券すらとっていないけど、でも決めたのだ。そしてそれを一番に聞いてほしかったのだ、彼に。


「クロエ、だってお前は……」

 彼の顔が、困惑と申し訳無さで歪んでいた。

「うん、もちろんアトランティスは好きだよ。自分が生まれ育った場所だもんね。でもソウジロウのことが好き。だからきっとスメラミクニにも住めるよ」

 わざとあっけらかんと、クロエは言う。

 三年の付き合いである彼に、見抜かれていないわけがない。だけどそれでもクロエは明るく振る舞う。不安など見せない。見せてやらない。


「クロエ……」

「旅券とかいろいろ間に合えば、一緒にスメラミクニに帰ろうね」

「船旅は長くて退屈だぞ。合衆国も広くて、横断列車で何日もかかるし」

「ソウジロウと一緒だもん、楽しみだなぁ」

「……お前なぁ」


 彼は照れているのか、泣きたいのか、笑いたいのか、そんなのがごっちゃになった表情だった。

 その顔を見ているだけで、クロエは良かった……と心から思えるのだ。






 夕方。

 黄昏色に染まる街を、二つの長い影が寄り添って歩いている。

 クロエとソウジロウの影は、長さがほぼ一緒。むしろクロエのほうが少しだけ長い。気にしたこともあったけど、そんな関係でちょうどいいのだ。


「それじゃあ、また明日ね」

「あぁ、また明日」

 クロエの家である仕立て屋・運命の女神の前で二人は「また明日」と挨拶をして別れる。

 ソウジロウの背中を見送り、クロエは勝手口から家に入った。


 香辛料の効いたスープの香りがするが、母は台所にいなかった。多分、父の工房にでもいるのだろう。

 テーブルの上には、今日の新聞がある。それを、クロエは何気なく手にとって広げてみた。

 一面に書かれている記事は……。




「オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者夫妻が、サラエヴォにてセルビア人の青年らにより、暗殺……」




 クロエの背中がぞわりとした。

 頭の中をぐるぐると駆け巡るのは、ユミスの呟いていた詩のような言葉。



「花の時代が終わり、鉄の時代が訪れる――」






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