夏の別離・時代のおわり・新たなはじまり
雨音は奏でる
ぽつ、ぽつ、と降っていた雨は、ざぁざぁ降りになりつつあった。
こちらでは恵みの雨とでも呼ぶのかもしれないが、ヨーロッパや合衆国に比べると湿気の多い
「雨、やまないね」
自分の課題をこなしていたクロエが、顔をあげてぽつりと呟く。
放課後の教室には、他に誰もいない。
蒼司郎はというと、卒業制作用のドレスに使う飾りリボンを縫っていたが、思うような形にならず、さっきから何度もほどいては縫い直していた。
最近はいつもこうだ。進めたと思ったのに、また戻る羽目になって。
……原因は、わかっている。
眼の前にいるクロエだ。
クロエとの今後。
卒業したら、どうするつもりなのか。
それを、彼女とまだ話し合えていないのだ。
「でも、六月も下旬に入ったし、そろそろ長雨もおわりだよ。そしたら、夏だね」
「そう、だな」
蒼司郎がそっけない返事をすると、しばらく二人とも沈黙していた。
雨が叩きつけられる音だけが、耳に響く。
ざぁ……ざぁ、ざぁ……。
話しかけるタイミングをクロエがうかがっているのに気がついているが、あえてそれを無視して針を動かす。今日はこのリボンをあともう一つ……いや、三つ作っておきたいのだ。
ざぁ……ざぁ、ざぁ……ざぁ、ざぁ……。
音と呼べるのは雨音の他には、糸と布が擦れ合う音と、クロエがペンを動かす音。
それに二人の規則正しい呼吸音。
それだけで構成された、小さな世界。
ふいに、その世界が破られた。
クロエがペンを机に置いた音。それが……ことり、と思いの外響いた。
「ねぇ、ソウジロウ」
「……どうした?」
「うちの父さんがね、近いうちに一人助手を入れようかって、そう言ってたの……その、きっとソウジロウなら……」
ぴくりと、肩が震えた。
なんて魅力的な話だろうか。
アトランティス本島に店を構える仕立て師の、助手に入れるかもしれない。
きっと、学べることはたくさんあるだろう。それこそ、一年や二年では学びきれない。
けれど、それは――
「それは、とてもいい話だな」
「そうでしょう? だから……だから」
クロエの声が、苦しそうに詰まっている。いつもはっきり話をするクロエなのに。
だから、ソウジロウから言った。
「俺は、皇御国に帰らなくてはいけない」
「ソウジロウ」
「帰国を先延ばしにすることはできない」
「……ソウジロウ」
クロエのすすり泣きが放課後の教室に響く。
「卒業まで、なのかな。私達」
ぱりん、と何かが砕けるような音が、遠く聞こえた気がした。
この一年、蒼司郎はあまりにも幸せだった。
でも、それももうおわり。
いつまでも、夢を見てはいられない。
華やかな舞踏会だっていつかはおひらきの時間を迎える。
それを、蒼司郎もクロエもちゃんとわかっていなかっただけなのだ。
クロエが、すくっと立ち上がる。
そして手早くテキスト類をまとめて、胸に抱えた。
「先に帰るね」
「あ……おい!」
蒼司郎が止める間もなく、彼女は教室を出ていってしまう。
ざぁ……ざぁざぁ、ざぁ……ざぁ……ざぁざぁ……ぁ……。
窓の外を見るまでもなく、雨は強くなってきている。
……あいつ、傘持っていたか?
不安になるが、今追いかけたところで、あのクロエが大人しく話を聞いてくれるだろうか。そして蒼司郎の傘に入るだろうか。……きっと、無理だ。
「はぁ……」
盛大なため息とともに、針を針山に丁寧に戻す。
こういうときに、ハサミや針を持つとろくなことがないと決まっている。
「俺も、帰るか」
荷物が、妙に重たく感じられる。
どうしてだろう、このぐらいいつもならどうということはないのに。
傘を持つ手さえも、だるくて、重たくて。
ざぁ……ざぁざぁ、ざぁ……ざぁ……ざぁざぁ……ぁ……。
雨音が、不快だった。
肌に叩きつける雨の感触も、不快だった。
クロエを泣かせてしまった自分自身が、不快だった。
ぼんやりと、雨に打たれながら思う。
じゃあ、どう答えるのが正解だったのだろうか。
わかっている、正解なんてない。
でも。
最初から、何もかも、無理だった。
ぱしゃりと、足先が水たまりに突っ込むが、気にせずに前に進んだ。
靴下の中にまで水がしみこみ、冷たさと気持ち悪さでぞわりとする。
なにをやってるんだ、俺は。
どうにかこうにか下宿までたどり着き、ドアを開けて――――そこで眼の前が真っ黒に塗りつぶされた。
……なにをやってるんだ、俺は。
「まったく、傘を持っていたのに使わないとは」
リオルドが呆れた、というセリフも付け足したさそうな声でそう呟く。
蒼司郎は反論したくてもできなかった。実際その通りで、馬鹿なことをしたと思うのもあるし、喉がひどく痛いのでまともに喋れないというのもあった。
蒼司郎は、傘を使わずに帰って、そして下宿のドアのところで盛大に倒れたらしい。気がつけば自室のベッドに寝かされ、次の日の朝だった。
どうにも、ばつが悪くてついリオルドから目をそらす。
「……お前たちほどではないが、俺たちも同じような問題は抱えているからな」
……。
自分と似た苦悩を抱える親友に向かって何か声をかけたいと思っても、できないのが、こんなに苦しいとは。
「マダムが、甘いパンリゾットを作ったそうだ。冷めないうちにこれを食べて、薬飲んでゆっくり寝ておけ」
その言葉にこくりと頷くと、彼はいつも通り豪快に笑ってみせた。
その日から蒼司郎は七日間、学園を欠席した。
もう動けると言っても、マダムやリオルドが下宿から出ることを許可しなかったのである。
体調がだいぶ良くなってきたある日、リオルドがこんなことを教えてくれた。
「レベッカが言っていたが、クロエも風邪で寝込んでいるそうだぞ。お揃いだな」
お揃い。
……嬉しくないもののはずなのに、なんでだろう、妙にわくわくしてしまうのは。
「……お前ら、やっぱりいいカップルだよ」
呆れた様子を隠しもせずに、リオルドがため息まじりにそう言った。
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