夏の微熱・恋色ドレス・最初のキス

小さな詩集




 初夏の早朝、遠くで鳥の声が聞こえて、蒼司郎は目を覚ました。

 すぐに愛用の懐中時計で時間を確認する。いつもどおりの起床時間。



 ベッドからするりと抜け出ると、手早く道着に着替える。黒衣と黒袴。

 いつもの稽古着を身に着けると、背がしゃんとして、気持ちもまっすぐになれたような気がした。……気がしただけだが。




 軽くため息をついて、まだ少しだけ肌寒い下宿の庭に出る。

 蒼司郎はここに来てもう二年以上経つが、剣の稽古は欠かさないようにしていた。

 ……近所からの奇異の視線も、最近は少し和らいできたような気もする。多分。


 今日も、あまり眠れなかった。

 ずっとクロエのことを考えていたからだ。ようやく寝付けても、今度は夢の中に彼女が出てきて、精神的にも肉体的にもまったく休めていない有様だ。



 蒼司郎は、刀を振るう。

 手の中にはその刀は存在しない。


 だけど、何度も何度も振るう。

 そしてまったく同じところでぴたりと止める。

 その繰り返しだ。



 ……こうしているときだけは、気持ちが落ち着くのだ。

 何も考えることなく、無心で存在しない刀を振るい続ける。何度も、何度でも。




 結局その朝、リオルドが朝食だと呼びに来るまで、蒼司郎は剣の稽古を続けていたのだった。





 アルストロメリア学園敷地内の並木道は、今は青々とした緑が茂っている。ほんのごくたまに毛虫なんかが落ちてくるということで、あまり樹の下を歩きたがらない学生も多いが、蒼司郎は涼しい木陰を歩くほうが好きだった。


 ……別方向から、アトランティスでも珍しい鮮やかな緑色の髪の女子学生が走ってこちらに近づいてくるのが見える。

 蒼司郎は足を止めず、歩く速さも変えることなく、いつもどおりの、なんでもない様をなんとか装ってみせる。


「おはよう、ソウジロウ!」

「あぁ、おはよう。クロエ」

 クロエは、いつも人の顔や目をまっすぐに見て話す。

 けれど、今の蒼司郎に彼女をまともに見ることはほとんど不可能なのだった。ましてや目だなんて。猫の瞳のようなかたちに似た、気の強そうな、澄んだ緑色の目だなんて、まっすぐ見られるわけがない!


「ねぇ……ソウジロウ?」

 不安げに、クロエが顔を覗き込んでくる。

 平静を装っているつもりなのだが、よそよそしい態度になってしまっていたようだ。

「なんだかちょっと顔が赤いよ。それに、うっすら汗もかいてるみたいだし……もしかして、熱でもあるの?」


 そう言って、彼女は――――その細い指先で、蒼司郎の頬に触れた。




 ぱしん。




 並木道に、乾いた音が響く。


 蒼司郎がクロエの手を反射的に振りほどこうとして、彼女の手の甲をってしまったのだ。

「あ……」

「……っ! ……その、すまない!」

 蒼司郎が慌てて頭を下げようとすると、クロエはそれを制した。

「ううん。今のは急に触っちゃった私が悪いんだよ。ごめんね」


 彼女は気を使って、その後もいろいろと心配そうに話しかけてきてくれる。

 体調が悪いのだったら、倒れる前にちゃんと医務室に行くようにとか。そろそろ学園末試験だが徹夜をしてるんじゃないかとか。きちんと栄養のある食事をとっているかとか。


 そうやって気を使ってくれる姿が、もう最高に可愛くて、抱きしめたくて。そんなことを考えている自分を心の中で殴りながら、どうにか会話の相槌を打つ。


 こんなに苦しくて大変な思いをしているのに。

 なのに、クロエと一緒にいたい。

 一緒にいると嬉しい。

 クロエと一緒は、嬉しい。


 もっと、一緒にいたいと思ってしまうのだった。





「はぁ…………」

 緋野蒼司郎は、誰も居ない図書館でため息をつく。


 クロエと一緒にいると、嬉しくて苦しい。

 クロエと一緒でないと、悲しくて苦しい。


 いったい何なのだ。何があったというのだ。

 本当に、自分はどうしてしまったのだろうか。



 物語の世界に没頭すれば、少しは彼女のことを考えずに済むだろうか。そう考えて図書館へやってきた。

 ほんのりと冷たい空気が流れる静かな図書館内は、ある程度落ち着ける空間だ。


 さて、今日はどんな本を読もう。

 お気に入りで何度も読み返している冒険物語などがいいだろうか。それとも世界中の美味珍味をを食べながら旅をした記録もいいかもしれない。そういえば、アトランティス諸島開拓時代の魔女たちのことをまとめた本がこの辺にあったはずだが。


 読みたい本を探して、視線と指先を彷徨わせる。


 ――と、ふいに視界に入ったのは、本棚の隅にある小さな本。


 蒼司郎はなんとなく、その本を手に取ってみた。

 いわゆる文庫本の大きさより一回りほど小さく見えるし、厚みもあまりない。だが、表紙はしっかりとしたハードカバーで、すべすべする手触りの布が貼られている。

 タイトルを読み取る。英語で書いてあるその言葉の意味は『私の言葉たち』といったところだろうか。


 その表紙の心地いい手触りが、いかにも開いてページをめくってくれと訴えかけているようにも感じられて、蒼司郎はその場で静かに小さな本を読み始めた。



 本には短めの詩がいくつも載っている。

 作者名に見覚えはない。あまり有名ではない詩人だろうか。



 いろいろな詩がある。

 旅の風景。歴史の一幕。芸術へのあこがれ。日常のささやかな喜び。


 

 そして――――恋の切なさと、悲しさと、喜びの詩。




 蒼司郎は、それらの詩をなんどもなんども繰り返し読む。

 恋の詩にうたわれる、その心情。

 それは蒼司郎の今の気持ちと、あまりにも重なっていて。


 そして、気づいた。

 ようやくわかった。

 蒼司郎がかつて経験したことのあるその思いと、かなり違っていたから今までわからなかったのだ。


 ほぅ、っと短く吐息がもれた。




 あぁ。クロエへのこの思いは、恋なんだ。



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