夏の夕暮れ時




 相棒であるソウジロウの様子が、どうもおかしい。

 それが、クロエ・ノイライのこのところの心配ごとだった。



 最近の彼は、なんだか変だ。


 顔はほんのり赤いし、目はうるんだようにぼんやりとして焦点があっていないし、話しかけても上の空なことがあるし、動きもぎくしゃくしている。

 もしかして……彼は体調がわるいのかもしれない。

 軽く夏風邪にでもかかったのだろう。


 しかも、彼のことだから無理をして登校しているに違いない。

 遠い国からの留学生ということもあり、ソウジロウは本当に勉強熱心だった。

 だが、このまま無理をし続けていてはきっとそのうち――



 ぷるぷると首を振り、クロエは最悪の想像を頭から追い出す。

 こういうときには、どうすればいいのだろうか。

 ソウジロウはクロエの言うことは聞いてくれない気がする。相棒だからわかる。ソウジロウは無理だ無茶だと言われても、意地を張ってしまうひとなのだ。


 何か、ほかの方法は……。



「あら、クロエ・ノイライさん。どうしたの? もう授業が始まるけど、入らないのかしら」

 どこか艶のある声。これは。

 ぱっと頭をあげると、そこにはクロエの担当指導教官でもあるマグノリア先生が立っていた。

 クロエが教室前で考え事をしているうちに、授業開始の時間となっていたようだ。

「あ……す、すみません。すぐに教室に」

「ちょっと待って」

 やんわりと、マグノリアにドアを開けるのを制止され、ぎくりとクロエは動きを止めた。


「クロエさん、悩み事があればすぐに相談するのよ。私達、担当指導教官はそのためにいるんですからね」

 柔らかな笑みで、だけど真剣な声音で、先生はそう言ってくれて――クロエは涙が浮かんできそうになった。


 そうだ、一人で抱え込まなくてもいいのだ。





 放課後。

 そわそわと、クロエは教員用個室がある廊下を歩く。

 ここにマグノリア先生に相談をするのは何も初めてのことではない。

 これまでも、授業でわからないこと、つまづいたことがあると相談に訪れていた。

 だが、今回はちょっと違う――クロエのことだけではなく、ソウジロウのことも相談するのだ。



 マグノリア・レイ、と英語で書かれたプレートを見つけ、深呼吸を数回したあと、思い切ってドアをノックする。

「どうぞ、入っていいわよ」

 返事はすぐだった。

 ドアノブに手をかけるが、なんだかとても冷たく重たく感じられる。

 それでも、クロエは勢いよくノブを回した。


「失礼します!」


「待っていたわ、クロエさん」

「……」

 その小さな部屋には、教師が二人。女性と男性。

 女性教師はもちろん、クロエの担当指導教官であるマグノリアだ。

 そして、男性教師はというと。


「ソウジロウ・ヒノの担当指導教官をしている、イジャード・シハーヴだ。今日はよろしく」

 金色の瞳を少し細めて、イジャード先生は微笑んでくれた。まるで、クロエに安心しろとでも言うように。


「さ、クロエさんはその椅子にどうぞかけてちょうだい」

「は、はい」

「緊張しなくていいからね、と言ってもそうはいかないでしょうね。でもなるべくリラックスしてお話してくれると、こちらも嬉しいわ。イジャード先生は体は大きいですけど、別に怖い方じゃありませんからね」

 くすくすと、小さく薄紫色の髪を揺らして先生は笑った。

「……マグノリア先生、冗談が過ぎます」

「あらまぁ、ごめんなさいね。それじゃクロエさん」

「はい!」



 そして、クロエは二人に話し始める。

 パートナーのソウジロウ・ヒノが最近体調を崩しているのでは、という心配を。



「……あら、まぁ」

「ふむ」


 案の定、教師二人は渋い顔をしている。

 パートナーの体調管理もできない学生だと思われてしまったのだろうかと、クロエは不安に襲われるが、かけられたのは意外な言葉。


「クロエさん。私達の見たところ、ソウジロウさんは健康そのものよ。そこは安心していいわ」

「……あぁ、身体的には何も、問題はないはずだ」


 ソウジロウは、健康。

 ……でも、だったら、どうして。

 思わず、信じられない目で教師二人を見てしまう。


「だが、ソウジロウ・ヒノはある大きな悩みを抱えている。心の問題は、体にも影響を及ぼす。それが、お前の目には体調不良として映ったのだろう」

「悩み……ソウジロウが何か悩み事を?」

「そうよ、彼はとてもとても悩んでいたわ。そしてね、つい一昨日ぐらいにイジャード先生のところに相談に来たってわけなの」

 マグノリアはあくまでもやわらかな笑みのまま、クロエにそう言う。


 だけどクロエは――いまにも心がばらばらになりそうだった。

「……なんで、なんで、ソウジロウは、私に相談してくれなかったの、私達は、相棒なのに、どうし、て……」

 泣きたかった。だけど涙が出てこない。

 相棒なのに、どうして彼は私を頼ってくれないのだろう。

 クロエのちからで解決できることなら力を貸すし、クロエに至らないところあるのだったら直す努力をする。

 なのに。どうして。


「あぁ。誤解するのではないぞ、クロエ・ノイライ。ソウジロウはお前を嫌っているわけではない。その逆だ。それが過ぎるがゆえに、あいつは今悩んでいるのだよ」

「その逆って……」



「つまり彼は――あなたを魅力的な子として見ている。あなたは恋愛対象として意識されているということなの」



 マグノリア先生の、その言葉を頭の中でゆっくり咀嚼する。

 ……それは、つまり、ソウジロウは、私のことを。


 そこに思考が至った瞬間、クロエは頬が熱くなるのを感じた。

 思わず両手で顔を抑える。きっと今、りんごのように真っ赤な顔をしているに違いなかった。


 まさかそんな。

 でも。

 ……確かに、それなら、このところのソウジロウの行動のおかしさにも説明がつく。ついてしまう。


 真っ赤な顔で悶えるクロエを、教師二人は柔らかな笑みで見つめていた。


「さて、先生たちもそれなりに忙しいのよ。これにて相談は終了!」

「そ、そんな、マグノリア先生」

「こほん……まぁ若者たちが通う学校なのだ。こういうこともよくあるといえばある。アルストロメリア学園では交際を禁止する校則などはないが……節度は守るようにな、双方結婚前の身なのだから」

「ち、ちょっとまって、イジャード先生」


 混乱状態のクロエは、教師二人によってあっというまに追い出されてしまった。

 ぱたん、と無慈悲にドアが閉まる。


「そんなぁ……この状態で……先生方ひどい…………」


 だが、追い出されてしまった以上、この場で立ち尽くしていてもしょうがない。

 クロエは廊下をとぼとぼと歩いた。

 時折吹いてくる初夏の涼しい風が、ほてった顔とのぼせた頭を冷ましてくれる。


 そっか、でも、ソウジロウは、私のこと、そう思って、くれてるんだ。


 ふわり、ふいに風が吹く。

 なんだかラベンダーの香りに似た、華やかで爽やかで涼やかな香りが鼻をくすぐって消えていった。

 その香りのおかげだろうか。すぅっと、頭から余計な熱が消えていく。


 ……彼はまだ校内にいるだろうか?

 いるとしたら、どこにいるだろう。


 ソウジロウに会おう。

 そう決意したクロエは、まずは図書館に向かって歩みを進めたのだった。



 

 アルストロメリア学園の図書館はとにかく広い。

 蔵書量が充実していることはもちろんだったし、学生たちがゆっくりと本を読むためのソファやテーブルがあり、勉強ができるようにと仕切りが設けられた広い机と椅子がある。


 その広い図書館の、勉強机の前にソウジロウ・ヒノの姿があった。

 クロエは、彼の後ろ姿にそっと近寄る。もう少しで、肩に手が届く、と思ったその時。


「クロエ、まだ帰ってなかったんだな」

「う、うん」


 脅かそうと思っていたのに、あっさりと見破られてしまったのがちょっと悔しいしなんだか恥ずかしい。

「ソウジロウこそ、居残りで勉強していたの?」

「あぁ、ちょっと気が早いと思ったんだが……夏の試験用のドレスのデザインをいくつかな」

「そっか、見ても……いいかな」

「あぁ、構わないぞ。お前が着るためのドレスなんだから」

 そう言って、いつもの白ノートを彼は差し出した。その手はまだまだ勉強中とは言え職人らしい指で、クロエは大好きなのだった。



 ぱらり。


 夕暮れ時の静かな図書館に、ノートをめくる音が響く。



「あ。このデザイン可愛いね。私、好きだなぁ」

「……そうか、好き……なのか」



 その言葉に、思わず心臓がどきりとはねる。

 もう少し、彼の口からその言葉を聞きたい。もう少し。



「うん、好き」

「……そう、か……好きか」


 あぁ、もう一度。

 もう一度だけ、聞きたい。聞かせて。


「好き」

「好き」



 その言葉は、クロエの耳に届いて、心地よく響いて、頭に広がって、心を満たしていく。

 そして――気づいた。



 今、私はなんてことを言ってしまったのか?!

 また顔が熱く赤くなっていくのを感じる。

 これは――いけない。


「あ、あの、ソウジロウ、今のは」

「あ……あぁ、その、クロエ、今の」


 ソウジロウもまた、顔を紅潮させている。

 あぁ。それがまるでほっぺたが薔薇の花びらみたいで、すごく可愛い――ってそういう場合じゃない!!



「ソウジロウ、また明日ね!」

「あぁ、クロエ、また明日!」



 二人はわざと大声で挨拶を交わし、そして逃げるように図書館を後にしたのだった。



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