アトランティスに咲く花は




 その薄紅色は、はじめはごく小さなものだった。

 日に日に範囲を広げていく薄紅色。

 ふわふわした夢のような色。




 アルストロメリア学園の窓から、山の斜面に広がる薄紅色をぼんやり眺め、緋野ひの蒼司郎そうじろうはあれはなんだろうと考える。

 桜、だろうか。

 しかし、基本的には皇御国すめらみくににしか桜はない、とどこかで聞いたことがある。

 それならあれは桃だろうか。すももだとか、あるいはりんごの樹かもしれない。



「どうしたんだよ、ソウジロウ。ぼんやりして」

 きさくに声をかけてきたのは、シィグ・アルカンナ。一年仕立て科の席次一位の男子学生だ。

「……いや、あれはなんだろうと思ってな」

 そう言って、窓から見える山の薄紅色を指さした。

 シィグは薄紅色を眺め、ほんの少し考え込んだ後にこう教えてくれた。

「じいさんから聞いたことがあるよ。あれは野生のさくらんぼの樹だな。いつもこの時期になるとああしていっぱい咲くんだってさ」

「さくらんぼか」

 なるほど、桜とさくらんぼ。花には詳しくないが、近いといえば近いのだろうか。


「……花見がしたくなるな」

 ぼそりと呟いた言葉に、シィグがきょとんとしている。

「ハナミ? なんだぁ、そりゃ?」

「なんというか、ああいう花を眺めることを目的としたピクニックみたいな、野外での茶会みたいな、そんな感じだ」

 野外での宴会、という言葉はこの際使わないことにした。

 自分たちは酒が飲めない年齢なのだから、宴会という言葉を持ち出すのはよろしくないだろう。


「俺の故郷では、庶民も貴族も皆、春といえば桜を見に花見へ行くものだったんだ。桜の名所の公園などは、春は人であふれかえるほどだった」

「おぉ……すげぇ、楽しそうだな!!」


 その説明を聞いて、シィグは大きな目をきらきらさせている。

「なぁ、花見とやらに行こうぜ! 俺が人集めるからよ!」

「お、おう……?」


 シィグはさっそく、教室中の学生に声をかけている。

 人望があって顔も広い彼なので、かなりの人数が集まるだろう。

 ……あのはりきり具合なら、思いもよらない大イベントになりそうだ。



 こうして、蒼司郎はアトランティスの地で花見をすることになったのだった。





 休日。

 アルストロメリア学園の一年生たち数十人が、それぞれに大きなバスケットやキャンプ用の荷を持って山歩きをしていた。

 仕立て科だけではなく、各々のパートナーである魔女科の学生も多い。


「ねぇちょっと、もう息があがってるの?」

「仕立て科って……貧弱ですね」

「やっぱり針しか持ったことがないからなのかしら」

「魔女科は誰も潰れてないからねー」


 普段から軍隊もかくやというほどの鍛えられ方をしている魔女科が、山歩きでバテている仕立て科の学生たちを見て呆れている。


「ソウジロウはバテてないんだねぇ、ちょっと意外だなー」

 涼しい顔でひょいひょいと歩いているフェリシィが、ソウジロウをのぞき込んでそう言う。

「本当ですね。リオルドなんてもう息があがっていますのに。大きな図体で情けないことです」

「レベッカお前な……山なんてイギリスにないんだよ……そもそも歩き慣れてないんだよ……はぁ、はぁ……」

 息を切らしながらリオルドが言うところによると、イギリスは山らしい山がなく、登山経験のある者などごく一部なのだとか。

「アウレリアは大丈夫なの?」

「ちょっと、きついけど……でも、だ、大丈夫……故郷の田舎ではよく走り回ってたし……」

「無理はするなよ、アウレリア」

「うん……あの、ありがとうね……ソウジロウ君」




 魔女科の学生たちに先導されつつ、樹木の多い山を登っていくとやがて……少しひらけたところに出た。

 そこには、満開の薄紅色の花を咲かせた樹――サクランボが植わっている。


「……!」

「すごい……綺麗だね」


 野生の樹だと思えぬほどに、それは見事な花だった。

 ……もしかすると、この辺り一帯を手入れしている者でもいるのかもしれない。


「よっしゃ、着いたな!」

 山登り前から今までずっと元気いっぱいのシィグが指揮をとり、敷物をしいたり、キャンプ用の簡易テーブルや椅子を設置していく。

 ピクニックバスケットの中の皿やカトラリーを広げ、持参の食べ物を置き、キャンプ用のマグカップに紅茶や果物の果汁を注ぐ。


 蒼司郎から見れば微妙にへんてこな花見であるが、アトランティス式の花見だと思えばそんなに気にならない。

 なにより、やっている本人たちが楽しそうなのでこれはこれでいいのだろう。


「ソウジロウ、料理出そうぜ」

「あぁ」

 こっちのグループは皇御国式花見というか、地面に敷物を敷いて直接座るスタイルだ。荷物も少なく済むので、ある程度楽ができた。


「ねぇクロエ、お菓子何持ってきたー?」

「いいイチゴジャムあったから、スコーン焼いてきたんだ」

 クロエやフェリシィには菓子の、アウレリアとレベッカには飲み物の用意を頼んでいた。

 ソウジロウたちは料理――弁当を用意した。

 ……とはいえ、実質用意したのは下宿のマダム・テレーズと女中たちなのだが。

 突然、花見のための弁当を作ってくれなどと結構な無茶を言ったが、マダムは愉快そうに引き受けてくれた。ありがたいというしかない。


 持参の弁当は、オープンサンドイッチ。自分でパンや具を選んで仕上げる形式だ。

 まずはスライスされたパンが三種類。ふんわりやわらかな白パン、ぱりぱりのバゲット、それに雑穀入りのパン。

 それから具。まだみずみずしい葉野菜に、プチトマトに焼き野菜、にんじんのサラダ。ゆで卵たっぷりのサラダ。塩こしょうで味をつけた牛肉と、スパイスがまぶされたゆで鶏、それに薄切りのハム。


 敷物の上に料理や菓子、飲み物を並べるとやはり一気にそれらしくなる。


「それじゃ、まずは乾杯からね」

 野外用の割れない素材で出来たマグカップを掲げ、クロエが微笑む。

 それに合わせて、皆もマグカップを同じ高さに持って行く。もちろん蒼司郎も。

「「「乾杯!」」」

 それぞれの出身地の言語で『その言葉』は発せられたが、意味するところは同じ。何も問題はない。



 一杯目のりんご果汁を飲んでいるとき、蒼司郎は頬に風を感じた。

 それは、少しだけ冷たいような、でもふんわりと温かいような――ほのかにラベンダー香水の匂いのする風だった。

「……?」

 ソウジロウは思わず周囲を見渡す。

 今日は誰も、すくなくとも、クロエやフェリシィ、レベッカ、アウレリアは、ラベンダーの香水などつけていない。

 では……誰が。

 あの香りは一体誰の。


 そこまで考えて、わかった。蒼司郎の知っている限り、あの香りをさせていたのは、一人だけ。



「ソウジロウ?」

 ふいに立ち上がった蒼司郎に、クロエが不思議そうに声をかける。

「ちょっと気になることがあったんでな。花を見るついでに行ってくる」




 雪のような、花びらが降る。

 遠くから見ると薄紅色だったサクランボの花は、樹のすぐ近くで見るとかなり白っぽい色だ。

 風が吹くたびにちらちらと花びらが降るのは、幻想的な美しさがありながらもの悲しさを伴う。


 蒼司郎はサクランボの樹の間を歩いていた。

 たぶん『彼女』は、学生たちからは見えないところにいるだろう。もう少し歩けば……。



 ふわり。薄い青紫色のストールと、ラベンダー香水の匂いが、風に舞った。

「……あら、来ましたのね」

 居た。


 ユミス・ラトラスタ・アトランティス。

 美しき伝説の魔女が、花びら降り注ぐ中でりんと立っていた。


「ごきげんよう、あなたたちも『お花見』に来たのですね」

 彼女は、かなり正確な皇御国語の発音で、その言葉を……『お花見』という言葉を使った。 

 ……白い手袋に覆われた手には、小さなピクニックバスケットがある。

 もしかして、自分たちがユミスのささやかなお花見を邪魔してしまったのだろうか。


「……あの、ユミス学園長。もしよろしければ」

「ねぇ、雪のような花だと思いませんこと?」


 ユミスは蒼司郎の言葉をさえぎって、まるで詩をそらんじるようにそう呟いた。

皇御国すめらみくにでは、春になるとこの花がたくさんたくさん咲くのですってね。あの人がそう教えてくれたのですわ。毎年春になると、いつも――」

「それは……雪白宮ゆきしろみや月子つきこさんのことですか」


 その名前に、ユミスはぴくりと肩を震わせる。

「知っているのね、彼女のことを」

「……まぁ、そうですね」


「彼女も、ここが好きだった。この場所を見つけたのも月子ですの。彼女はいつもこの花を見て泣いていましたわ。はやく皇御国に帰りたいと」

 ユミスは花を見上げて、蒼司郎に尋ねた。


「ねぇ、あなたは皇御国に帰りたいと思いませんの?」


 その言葉に、蒼司郎はほんの一瞬だけ迷った。

 留学費用だのなんだので両親には負担をかけているし、昔の友人たちとは手紙のやりとりすらない、それに……自ら切り捨ててしまった人もいる。

 だけど。

「思いません。俺は、学園で学ぶために来たんですから」


 きっぱりと答えを述べると、ユミスは悲しそうに笑った。

「あなたは……とても強いのですね。月子と大違いですわ」


 なぜ、こんなにも悲しそうに笑えるのだろうか。

 雪白宮月子という女性は、ユミスにとってなんなのだろう。


「あぁ、ほら。あなたのパートナーさんが心配して追いかけてきましたわよ。戻ってあげてくださいな」

 振り返れば、クロエの緑色の髪が木々の間から見え隠れしている。


「あの……!」

 蒼司郎がユミスに向き直ると――彼女はもうそこにはいない。



「ソウジロウ、やっと見つけた! ……ねぇ、どうしたの?」

 クロエが不安そうに顔をのぞき込んでくる。

 だけど、今だけは、その大きな緑の瞳に見つめられたくなくなかった。



「なんでもないよ、クロエ。本当に……なんでもないんだ」


 はらり、はらり。

 花は散る。


 新緑の季節はもうすぐそこだった。



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