伍の舞 居候
朝となり、鈴蘭は自分にかかっている布団を退けて軽く伸びをする。それから立ち上がって布団をすぐに畳むのではなく、先に布団を敷いていた場所の畳に籠った熱を取るために近くにあった板に布団を掛ける。熱が籠ったままだと菌が増えると誰かから聞いてから鈴蘭はこうするようにしている。畳まずに板にかけた布団は後で時間のある時に日干しをする為である。
日課とも言えそうな一連の行動を済ませ、鈴蘭は障子を開けて部屋の外に出る。すると、同じように隣の部屋から義姉の一人が現れた。
「おはようございます、
「ええ。おはようございます鈴蘭さん」
礼儀正しく頭を下げて挨拶を交わしたその女性の名は紫苑。歳は鈴蘭の一つ上で、「煌々華」の三人娘と称される鈴蘭たちにとっては二女的立場である。ちなみに長女は薊。ここに住み始めたのは薊よりも後だが、立場的には年上であり孤高な面がある薊に代わり、まとめ役にいることが多い。
「紫苑姉さんも今起床ですか?」
「ええ、少し寝過ごしてしまいました」
普段の起床時間に比べれば現在の時刻はそれほど変わらないのだが、当番であるからそう思っているのだろうか。
「薊さんは…もう居ないみたいですね。それじゃあ急いで御飯を作らないといけませんね」
「あ、私も手伝います」
「有難う。でもその前に身嗜みを整えてからね」
隣の部屋の薊が既に起きていることを確認した紫苑は鈴蘭を連れて近くの階段を降りる。
この「煌々華」は複数階になっており、その構造は少々複雑になっている部分がある。客間を含む大抵の部屋は一階に集約されているが、従業員が寝泊りする部屋は二階になっている。しかも二階への階段はふたつあり、その先は同じ二階でありながら空間に挟まれて基本的には繋がってはいない。とはいっても壁で塞がっていたりするのではないので向こう側の様子は見ることは出来る。
だが実は隠し通路が存在し、それを使うことで階段を下がらずにふたつを行き来できることを紫苑は把握している。何故そのような仕掛けにしたのかは流石に知らないが。
一階に降りてきて二人はとある部屋に入る。そこには鏡や水道設備があり、女にとって重要な身嗜みを整える為に用意された部屋である。
二人はそれぞれ慣れた動きで少々急ぎ足気味に身嗜みを整えていく。そんな中で鈴蘭は少し話題を切り出した。
「そういえば……昨晩何やら音が聞こえてきたのですが、太夫が帰って来たのでしょうか?」
「そうらしいですね。夜に報告帰りの薊さんに
紫苑が言った竜胆というのは花火のもう一つの名、所謂芸名である。ちなみに三姉妹の名前も全て花火が付けた芸名である。本当の名はそれぞれ別にあるが、様々な理由で皆芸名を基本的に使用している。
ところで、共に住んでいる義姉妹は花火のことを芸名か太夫と呼んでいるが、実は本名の花火という名前を知らないのである。というのも彼女たちが花火と出会ったのは花火が芸名を名乗り始めてからであり、自分から本名を名乗る機会もなければ、しようともしないからである。
「それじゃあ、多めに作った方が良いですかね?」
「どうでしょうか? 見たわけではないですが恐らく宿酔でしょうからそれほど要らないと思いますが、一応一人分多めに作っておきましょうか。……それでは、私は終わったのでお先に失礼します」
「あ、はい。私も後から行きます」
先に身嗜みを整え終わった紫苑は衣服の袖を捲りながら部屋を出て行く。それからあまり間も空けず鈴蘭も髪を梳き終えて部屋を出て、紫苑の向かった台所へと向かった。
それほど時間が開いた訳ではないのだが、台所では既に紫苑が包丁で何かを切り始めていた。棚から出してきた釜に米を入れて軽く水で洗い、火にかける。そこに先程切っていた物と調味料を少量入れて一緒に炊く。
鈴蘭もすぐに朝食の準備に取り掛かる。主食は紫苑が作っているのでその付け合わせとして浅漬けを用意する。棚の近くに置かれている小さな樽を開けて、その中から胡瓜などの野菜を取り出す。これは試しとして昨日から漬けていたものである。軽く洗ってから一口大に切って小皿に盛っていく。
「紫苑姉さん、そちらはどうですか?」
「完成まではまだ時間がかかります。ですので待っている間にすまし汁でも作りましょうか」
「はい」
「おや、香の物か。これはまた珍しい」
二人が次に取り掛かろうとしている後ろで、突然現れた竜胆こと花火が小皿に盛られた浅漬けを一つ手で掴み食す。
「…ふむ…ちょっと塩が弱すぎるんじゃないかい?」
口から小気味好い音を立てながら感想を述べる花火。それに対して二人は何処からともなく現れた花火にそれぞれ違った反応をした。
「太夫!? 起きてらっしゃったんですか?!」
「おはようございます、竜胆さん」
「ええ。二人ともおはよう」
平然と挨拶をしながらも花火は何気なく頭を抑えるような素振りをする時がある。紫苑が先程予想した、二日酔いというのはあながち間違ってはいないらしい。その証拠?に今は二人の横で水を飲んでいる。
「それで、薊はどうしたのかしら? まだ見ていないのだけど」
「薊姉さんならもう起きているはずなのですが私たちもまだ見てないんです」
「竜胆さんもまだ見ていないのなら薊さんは恐らくあの場所だと思います」
紫苑が言うあの場所というのは「煌々華」の中で最も大きな部屋のことである。「煌々華」は元々別の建物を買い取って改築した物件であり、その大きな部屋はその時の名残として存在する大部屋なのである。今のところは使う気はなく放置しているのだが、何時からなのかそこで薊は人知れず芸の練習をするようになった。本人は隠しているつもりであるが、紫苑は最近になって、花火は始めからそのことを知っている。
「なら放っておいてもいいか。時間になったら戻ってくるでしょうし。
それよりも…どうやらあの子はまだのようね」
「あの子?」
花火の言葉に二人は疑問を持った。この「煌々華」の従業員は花火と鈴蘭たち三人娘の計四名しか居ない。それなのに今の言葉は五人目の存在を示唆している。すると、花火は「後で紹介する」と言って鈴蘭にその者を起こしてくるよう命じた。その者が居る部屋は鈴蘭たちの部屋の隣と言われて驚きながらも、朝食の件を紫苑に任せてその部屋に向かうことにした。
「そういえば、思えば隣から物音が聞こえていたような…」
昨日の就寝間際のことを思い出す。部屋の前を誰かが通ったような気はした。障子の開く小さな音の後に変な音が聞こえたような気はした。だけどその時は少しも気にしなかった。
五人目の存在を示すような出来事を思い出しながら鈴蘭は階段を上がる。
自分を起こしに鈴蘭が近づいているとは露知らず、外から聞こえる鳥の鳴き声と入ってくる光で迦具夜は目を覚ました。
「んん……」
自身に掛けていた布団はどういう訳か自分の下敷きになっていることに一切触れもせず、身体を起こし、寝ぼけた頭で周囲を見渡した。そして普段と違う見慣れない景色に疑問符を浮かべた。
「あれ…? …そっか、そういえば部屋を貸して貰ったんだっけ」
状況を思い出した迦具夜は立ち上がって軽く手足を動かす。
最近になって自然と身体がすぐに動けるように準備運動をするようになっている。これまで動けなくて困る状況に置かれたことは特に無いのだが、何故か無意識に行なってしまう。身体が鈍るよりは当然いいので気付いても止めないが。
適度に身体を動かし終えた迦具夜はようやく足下にある布団を思い出し、雑に畳んで部屋の隅の方に置いておく。そして部屋から出ようかと意識をそちらに向けた時、部屋の外から足音が聞こえ、それが近づいていることに気付いた。
迦具夜は無意識に畳んだばかりの布団を盾のように使って隠れ、様子を窺う。一切の音を殺していると部屋の障子が開かれた。迦具夜はやってきた者の姿を布団の陰から確認すると、気が抜けて陰からひょっこりと姿を見せた。
「あれ? 鈴蘭さん?」
「え、太夫が言っていたのは迦具夜さんだったのですか?」
状況が飲み込めていない二人。よく考えれば鈴蘭はここに住み込みで居ると言っていたので、それを思い出した迦具夜はすぐに状況を理解し始めて、鈴蘭の疑問に対して応える。
「太夫? …ああ、そういえばあの人がそう呼ばれてたなぁ…。そうそうその太夫が私の探していた知人だったんですよ。それでその人のお蔭でここに泊めてもらったんです」
「そうだったのですか。あ、太夫に迦具夜さんを呼んでくるように言われたのでした。これから朝食なので一緒に行きましょうか」
「え、朝食? 行く行く」
二人は一緒に部屋を出て階段を降りる。昨日は暗かったので気にならなかったがこの建物は他で見てきた建物とは異なった造りをしているなぁ。一見すると同じようだけど細かい部分の作風が違うと言うのか…何と表現すればいいのか分からない。
そんなことを考えながらも二人が向かったのは鈴蘭が先程まで居た台所ではなく、その近くにある客間とは別の従業員用の座敷の一つ。そこには既に二人ほど座っており、その二人の正面を含む座る箇所と思われる五か所には小さな台が置かれていた。そんな中、一番奥で崩して座っていた女性がこちらに気付いて手招いている。
煙管の代わりに爪楊枝を咥えているその女性、花火に呼ばれて迦具夜は一番近くにあった台の前で正座する。近くまで来なかったことに対して花火は特に何も言わず、何かを待っているかのように遠くを見ながら自身の前の台に置かれた小皿に入っている物を爪楊枝で突き刺して口に運んでいる。
「(何故に無言……)」
花火はそのまま酒の肴のような感覚で爪楊枝で浅漬けのようなものを食べ続け、花火の正面左に座っている薊は精神統一をしているかのように目を閉じて黙り続けている。何この空気…鈴蘭さんも何処かに行っちゃったし…
「お待たせしました」
如何したものかと悩んでいると、この無言の状況に救いの手が現れた。現れたのはまだ会ったことのない女性といつの間にか消えていた鈴蘭だった。二人は運んできたお椀を次々に台に置いていく。
台に置かれた物を確認すると飯物に汁物、それに付け合わせの漬物という献立だった。先程から花火が食べているものはこれかと迦具夜は真っ先に思った。そんなことはさておき、今食べている小皿分だけで済ませるらしい花火を除き、迦具夜を含めた全員に食事が行き渡り、配膳を終えた二人も空いている場所に座り込む。
皆が揃ったところを確認した花火は持っていた爪楊枝を置き、ようやく口を開いた。
「さて、全員揃ったな。まずは紹介と行こう。そこに居るのが今日から火花一門としてここで働くことになった迦具夜だ」
そう紹介されて他三人の視線が迦具夜に集まる。当の迦具夜はそれどころではなく、紹介された時の言葉が引っかかった。
火花一門?ここで働く? すみません、全部初耳なのですが。
「ちょっと、それは聞いてませんって!どういうことですか!」
「どうもこうもそういうことよ。郷に入っては郷に従えという言葉を知らないのかい? ここで住む以上は形だけでもうちの門を潜ったと扱うからな。どうせ目的もないんだろう?」
確かにその通りだけど…本人に話が通ってないというのはどうなんですか…。
迦具夜のことは放って簡単な紹介は続く。そしてそれが終わると、隣に座っていた鈴蘭が近寄ってくる。
「迦具夜さんも同門になるんですね。これからよろしくお願いします」
「あ、えっと、よろしく鈴蘭さん」
「ということは後輩になるのですかね?」
後輩になるというところで鈴蘭の目に少々輝きが増した。それだけ嬉しいのだろうか。他の二人は義姉らしくて鈴蘭が一門の中で一番下だった為なのだろうか。そう思うと…分からなくもないような?
「迦具夜さん、紫苑と申します。これからよろしくお願いしますね」
正面に座っていた女性が、近づいては律儀に頭を下げてくる。迦具夜もそれに釣られて頭を下げる。その女性は一言で言うと大人びた鈴蘭のような雰囲気があった。鈴蘭が子どもっぽいという訳ではないが、もしかするとこの人達の中で一番落ち着いているのではないだろうかと思うぐらいの冷静さを感じる。
…何を察したのか花火さんがこっちを見ているが気にしないでおこう。
「そしてこちらが薊姉さんです。私たちの中では一番上に当たる方です」
振られた薊を見ると前と同じように愛想のない表情で、視線に気付くとこちらに興味がないようで自分の前の食事に手を付け始めていた。
まあいいか。紹介も一通り終わったらしいから私もこの料理に手をつけよう。この御飯に入ってる深緑のものなんだろう? …あ、美味しい。
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