第25話 君のとなり(3)

 朝食を終えた後で、神崎は出立の準備をはじめた。間山は部屋に置いてある漫画を読むふりをしながら、横目でその様子を窺っていた。

 神崎はしゃべる様子がない。静かな空間に、カバンを整理する音と時計の音が響く。

 間山は驚くほど冷静に、神崎の様子を見つめる。

 ……寒い。

 身体が寒くてどうしようもなかった。

 間山は自分の唇をかんだ。

 神崎は、どうしようもならないことを吐露するような性格ではなかった。なにかを相談をされることはあったが、愚痴を言ったり、悩みを進んで言う性格ではなかった。友だちを自分のことで煩わせたくないという弱さと優しさを持っていた。近しい友だちであればあるほど、彼の弱音を聞いたことがなかった。高校生のときだって、親父さんが倒れても詳細を語りはしなかったのだ。ずっと内にとどめ、耐えきれずに泣いていたくらいなのだから。

 ではなぜ、間山に自分が医者になりたい理由を語ったのだろうか。そんなもの、神崎が一番避けてきた話ではなかったか。

 神崎は西野を樹木と呼ぶようになった。高校時代は親しいわけでもないようだったが、今では将来にかかわるような大切なことも相談している。間山には相談がある素振りすら見せなかった。結果として西野は思いを汲み取り、間山は神崎のことをひどく傷つけた。

 神崎は言った。『ホテル代を浮かせるため、三日間アパートに泊めてほしい』と。それは友だちである自分を頼ってくれたのだと信じていた。けれど思い出したのだ。高校時代の仲間の中で、自分だけが学生寮に住んでいたことを。他のみんなは実家から高校に通っていたことを。高校から昨日の居酒屋までは五百メートルも離れていない。もしあれが、文字通りの意味しか持たなかったとしたら? 一人暮らしの知り合いが、間山しか見当たらなかっただけなのだとしたら……。

 自負があった。

 自分は神崎の一番親しい友であると。それがずっと続くのだと。たとえ恋人のような特別な存在にはなれなくても、親友でい続けることは出来るのだろうと。となりにいても許されるのだと。

 全部、ただのうぬぼれだった。

 本当は、気づきたくなどなかった。けれど気づいてしまった。気づかなかったときには、戻れなかった。

 つまり神崎にとって、間山はもう親友ではないのだ。

 ときがたつにつれて、人間関係というものは移ろうものだ。いまは、家に泊まりに来ようとするくらいには友だちなのかもしれない。けれどいつしか連絡先もわからなくなり、住んでいる場所もわからなくなり、赤の他人に成り下がるのかもしれない。死んでいるのか生きているのかもわからず、名前や顔も思い出せないまま、いなかった存在として消えていくのかもしれない。それがわかったとき、怖くてたまらなかった。それだけはどうしても避けなければならなかった。

 だから間山は推論を立て、証拠を集め、神崎に叩きつけなければならなかった。武田の質問は、甘美な蜜の味がした。

 本当は、神崎が家を売ったことを責め立てる気はさらさらないのだ。仕方のないことだと理解しているし、そうしてまで医者になりたいという熱意に畏怖すら覚える。そもそも間山は神崎の行動をなにも非難していない。ただ調べたことを述べ、事実を突きつけただけだ。けれど人は事実を言われると、とてつもない罪を犯した気持ちになり、自責の念を抱くことがある。神崎も例外ではなく、無言でいるのはそのせいだろう。

 だから思ったのだ。自分を忘れないでいて欲しいと。どんな形でもいいから、間山壮太という人間が傍にいるということを。

 嫌悪でも悔恨でも構わない。恋人なんて望んでいない。ただ傍にいたいだけだ。

 こんなことを平気で考えてしまう自分は、もうとっくの昔に狂っていたのだ。

 いいかげん、手を離さなければならない。自分は傍にいるべきじゃない。今回は不毛な気持ちをぶつけるだけで済んだけれど、いつかきっと神崎を傷つけてしまう。守りたいと思った相手をきっとどこかへ引きずり込んでしまうだろう。それはきっと簡単なことだ。そう思う程度に自分は狂っているということが良くわかった。これで最後にしよう。今日が終わったら、二度と神崎には会わない。

 これから、神崎に嫌われてしまうのだろうか。それなら、どんなに時間が経っても、忘れずにいてくれるだろうか。

 こみあげてくる自己嫌悪に耐え切れず、間山は視線を外し、漫画を読みふけった。

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