第18話 今は遠く昔の思い出(2)

「昨日は冷えましたね」

 コーヒーカップを傾けながら、木原が言った。冷えましたね、という言葉とは対照的に、木原が発するまろげな声が間山の体を心地よくめぐり、春の日差しを思い起こさせる。

 コーヒーカップを洗いながら、間山は「まったくです」と苦笑を浮かべた。

「結局マイナス五度まで下がりましたからね。おかげで今朝は早く目が覚めました。朝ゆっくりできたことは良かったですが、やはり寝たりないような気持ちがしますよ」

 木原が笑みをこぼしながら頷く。

「早起きは三文の徳しかないということですね」

 間山が首をひねると、横から勢田川の笑う声が聞こえた。

「昔はね、早起きしたところで少ししか得することがないという意味で、早起きは三文の徳と言っていたんだよ。えっと、三文というと今の価値で九十円くらいですかね」

 勢田川が木原に目を向ける。木原は一瞬思い出すように眉を寄せながら目線をはずすと、わずかに頷いて肯定を伝えた。

「ええ、確かそれくらいですね」

 早起きをして一日九十円か。間山は、それは確かに安いかもしれないと思うと同時に、一年間で三万円と少しだなと計算して、少しだけ心が揺れた。それを見通したかのように、

「結局のところ、続けなければあまり意味のないことですね」と木原が笑った。

 間山はばつが悪そうに頷き、最後のコーヒーカップに手をかける。蛇口から流れる水は氷のように冷たく、間山の手は白く血の気が引いている。長い間水を触っていたおかげで、指先の感覚はあまりない。間山は手を滑らせないように気をつけながら、洗剤にまみれた白色のカップを水に潜らせた。

「気温が低いと水も冷たいからね。洗い物もつらいだろう」

 かじかんだ間山の指先に視線を落とし、少し申し訳なさそうに勢田川が言う。

「大丈夫ですよ。俺体温高いので」

 間山は苦笑しながら、最後のカップを水切りに掛ける。

 勢田川は「そんなものかな?」と首をひねっていたが、木原は少しだけおかしそうに笑った。

「最近はずっと寒いですからね。間山くんも大変ですね。天気予報によると今晩は特段と冷えるようですよ」

 木原が言うと、間山が少し困ったように眉を寄せた。

「雪は降りますか?」

「ええ、少しですが。細雪でしょう」

 それを聞き、間山は胸をなでおろす。そんな間山の様子を見て、木原がコーヒーカップを置いた。

「何か予定があるのですか?」

「ええ、少し」

 間山が頷くと、「デート?」と勢田川が楽しそうに笑った。

「違いますよ、残念ながら」

 間山があからさまに肩を落とす。その様子を見て勢田川がさらにほほ笑んだ。

「今日の夜に同窓会があるんです」

 木原がほう、と声をあげた。

「それは良いですね。高校のときのですか?」

「ええ、数人で集まるだけですけど」

 悪友の集まりです、と間山が肩をすくめると、木原が懐かしそうに目を細めた。

「それでも良いことです。私はもう、あのころの友人たちとは疎遠になってしまったので、間山くんがうらやましいですよ」


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