第17話 今は遠く昔の思い出(1)

 間山が目を覚ましたとき、隣の布団で寝ているはずの神崎の姿はもう見当たらなかった。一瞬寝過ごしてしまったのかと思ったけれど、枕元に置いた目覚まし時計はまだ六時半で、七時にセットしたアラームもまだ息をひそめたままである。

 目覚まし時計のアラームを解除して、まだ覚醒しきらない気怠い頭を巡らしながら、部屋の中を見渡して神崎の姿を探す。すると、ローテーブルに突っ伏したまま寝ている神崎の姿が目に入った。

「悠?」

 話しかけても返答はない。どうやら眠っているようだ。布団から起きだした間山は、神崎を起こさないように気をつけながら、ゆっくりと近づいた。部屋の中に溜まりきった冷気に一瞬怯みそうになりながら、冷え切った床に足をつける。一歩、また一歩と歩を進めるたびに、布団の中で保持されていた間山の熱が容赦なく奪われていった。

 神崎は、昨日開いていたのと同じ教科書の上に倒れこむようにして、力尽きた忠犬のように、穏やかで苦しい表情を浮かべながら、深く寝息を立てている。蒼白になった顔からは、まるで死人のような危うさを感じさせた。ローテーブルに置かれた卓上ライトは、ひえびえとした白光を灯している。まだ二月だというのに、布団もかぶらず寝ていて平気なわけがない。間山は神崎に毛布を掛けてやると、早急に暖房のスイッチを押した。しばらくは寒いままだが、これで十分もすれば快適な温度になるはずだ。まだ薄暗い部屋の中を歩きながら、間山は再び神崎に近寄り、握ったままのシャープペンシルを、冷たくなった指先から引き抜いた。

「勉強したまま寝たのか」

 呆れたように言いながら、間山はシャープペンシルを筆入れに置く。少し塗装が剥げた、無機質な銀色が鈍く光って、神崎の寝顔を揺らした。

「こんなに青い顔をして……平気なわけないだろう」

 この二日間、神崎は何かにあせっているように見える。重い教科書を抱えて眠るのも、勉強のこと以外に考えたくないからではないだろうか。そうでなければ、神崎は友人の家にわざわざ教科書を持ってこようとするだろうか。だとしたら、神崎は何にあせっているのだろうか。

 間山は首を振った。

 考えすぎだ。きっと終わる見込みの薄い課題があってそれを持って来たに違いない。それで疲れているだけだ、そうに違いない。それに自分が考えたところでどうなる。昨日神崎の過去を聞き、自分には何もできないのだと誓いを立てたばかりではないか。

 間山は立ち上がると湯を沸かし始めた。安いインスタントのコーヒーを淹れながら、自分に言い聞かせる。

 もういいだろう、もう忘れろ。悠のことばかり考えるな、滑稽だ。世の中にはこんなことより大切なことがたくさんあるはずだろう。

 勢田川の淹れるコーヒーの味とは似ても似つかない、苦いだけの液体を胃の中に流し込み、間山はアルバイトに向かう準備を始める。まだ深い眠りの中にある神崎の横を縫うようにして着替えをすます。神崎の朝食には食パンとジャムを用意した。起き上がれば分かる位置に置いたから、見逃すことはないはずだ。

 今日も神崎を置いて行かねばならない。明日には大阪へ帰ってしまうのに、神崎とはどこにも出かけることが出来なかった。六畳に眠る想い人に後ろ髪を引かれながら、間山は玄関のドアノブを回す。腕時計は七時半を指していた。

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