第13話 君と届かない手(2)

 きっと鍵がかけられているだろう、とあたりをつけながら、アパートのドアノブに手をかけると、想像に反してすんなり開いた。無用心だなと思いながら中に入る。けれど、もしかしたら自分のためにわざわざ鍵を締めなかったのではないかと思い至り、少しうれしいような気持ちになる。

 部屋の中では神崎が、折りたたみ式のローテーブルを机代わりにして静かに勉強をしていた。勉強机を使ってもよかったのにと考えながら、間山はゆっくりと扉を閉めた。間山が入ってきたことにも気づいていない様子で、心なしか空気に妙な緊張感があった。少しかげってきた柔らかい日差しとあいまって、勉強している神崎の姿を見ただけで心が揺れてしまうのは、もはや病気ではないだろうか。

 間山は声をかけるべきかどうかを少し迷ったが、このまま玄関先で直立しているわけにもいかず「ただいま」と声をかけた。すると神崎は手を止めて、「おかえり」とわずかに微笑む。その顔が少し疲れているように見えるのは、きっと間山の思い過ごしではない。

 間山は鞄を無造作に放り投げると、神崎と向かい合う形でローテーブルの前に座り込む。

「勉強?」と、間山が口を開いた。教科書を開いてノートも出しているのにそれ以外に何があるんだという懸念はあるが、話の振り方としてはこれ以上ない切り出しだ。神崎はうん、と頷き、「病態学」と付け加えた。間山には病態学という学問が何を探求するものなのかさっぱりで、テーブルに置かれた教科書の厚みにおののくばかりである。十センチはゆうに超えている。

 これ全部覚えるのか?

 素朴な疑問を感じたが、絶対覚えるんだよなと自己完結し、口には出さなかった。

「本当に医者になるんだな」

「うん?」

 心の中で思っているつもりだったが、いつの間にか声に出していたようだ。間山は急いでなんでもない、とかぶりを振る。しかし否定してしまったことに後ろめたさを覚え、えっと、と間をおいてから口を開いた。

「高校のときに悠ががんばって勉強してたの思い出してさ、もうちょっとのところまできたんだなって思って」

 口には出してみたがうまく伝えられない。高校時代、一心不乱に勉強する神崎の姿を見るたびに、心の底からがんばれと応援していた。しかしその一方で、弓道部を去ってしまった後の、どこか淋しそうな顔も知っていたから、戻って来いよと説得しようかと何度も考えた。間山はそれを必死でこらえながら、神崎がもがく姿をただ見ていることしかできなかった。あんなに勉強しなければならないことを、そばで見てきて知っていたからこそ、膨大な勉強の積み重ねの先に神崎がいるという事実に感動を覚えてしまうのだ。

「なんか壮太、母親みたいなこと言うんだな」

 神崎がからかうように言う。間山は笑いながら「なんだよそれ」と神崎を小突きつつ、あながち間違いではないかもしれないと思っていた。

 それからひときしり笑うと、神崎がわずかに嘆息した。空気が少し変わった、と間山は感じた。

「やっぱり壮太はいいやつだ」

「は、え……いきなりなに?」

 青天の霹靂へきれき。間山は神崎の発言に驚いて、思わず困惑してしまった。間山には、今までいいやつだなんて言われた経験がなく、加えて自分の思い人がいきなり言い出したものだから、それこそ天地がひっくり返るほど驚いたのだ。

 そんな間山の心中を知ってか知らずか、神崎はからからと笑っている。そして、唐突に言った。

「あのさ、何で俺が医者になろうと思ったのか……わかる?」

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