第9話 前日の友人(1)

 アルバイトを切り上げ、店を後にしたとき、時刻は十四時を十五分過ぎたときだった。このままアパートに帰ろうかと思ったが、部屋の鍵を神崎に預けていたことを思い出し、神崎がまだ帰っていない可能性を考えて近くの書店で時間をつぶすことにした。

 店を後にしてから、買い物客で賑わう茜通りを東に向かう。茜通りは喫茶『潮風』から徒歩五分程度で抜けられる商店街界隈の通りである。その通りには公民館や市役所といった公的機関のほかに、書店やスーパー、不動産屋といったものがひしめきあっている。まさしく市の心臓部といったところか。喫茶『潮風』から角をひとつ曲がっただけだというのに、行きかう人々の匆々そうそうたるは朝ドラの住人のごとし。十五分で地の果てでも行きそうな勢いで皆歩き続ける。あれでは靴をいくら履きつぶしても足りぬ。とまあ、人様の靴底を心配しつつ、間山はのんびりと茜通りを行く。

 十分ほど歩きとおしたところで、目的の書店へとたどり着いた。たいして疲れるほどの距離を歩いたわけではないが、人の間を縫うように進むというのは意外と体力がいるものだ。よって間山は書店に辿り着いたとき、言い知れぬ達成感を感じていた。

 間山が立ち寄ったのは広さが数十坪にもなる二階建ての書店で、入り口の自動ドアをくぐった瞬間から、眼前には間山の手中には収まりきらないほどの本が広がっていた。どんな書店でも、たとえわずか数坪しかない書店であっても、立ち寄るたびに間山は気圧されそうになる。本の数にではない。本という文化が発する空気感、あるいは歴史といったたぐいの壮大な存在感におそれを抱くのだ。間山は思う。世の中には無限に近い本があり、自分が手に取り得る本はあまりに少ない。この書店に存在する本を読みつくすだけでも、自分の一生では不可能だろう。まったく自分はどれほど多くの傑作を見逃せば気が済むのだろうか。そんな自分を嘲笑ちょうしょうしつつ、小説売り場の一角にある、文庫本コーナーへと足を向ける。

 幾分か新作本コーナーを物色していると、背後から「壮太?」と声がかかったので振り返った。

 そこにいたのは元三年三組のクラスメイトであり、間山と同じ大学の総合理工学部に所属する武田基成たけだもとなりだった。理系学生のくせに化学も物理も数学もからっきしな武田の成績は驚くほどの低空飛行であり、何度墜落しかけたかわからない。しかしこと文学となると話は別であり、エラリイ・クイーンや川端康成を語らせれば、学内で右に出る者はいない。そんなわけで大学の教授陣からはある意味一目置かれている存在である。

 武田は間山の横に並ぶと、棚に陳列されている辻村美月の新刊を手に取った。

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