第6話 君とコーヒーの気配(2)

 入口の扉を引くと、来客を告げるために取り付けられているベルが愉快な音を鳴らした。この扉は本来従業員は使用しないが、開店準備と閉店作業のときには多用する。

 間山が大きな立て看板を持って店の外に出ると、駐車場が一面雪に覆われていた。見渡す限りの銀世界とはいかないまでも、天気晴朗あいまって、心地よいことにはかわりない。あまりに手付かずの雪原に一抹の罪悪感を憶えつつ、ゆっくりと足跡をつけた。耳に心地よい音を立てながら靴が沈み込む。思ったよりも雪深い。どうやら少し雪を掻いた方がよさそうだ。

 間山は立て看板をいったん置くと、店の横にある勢田川家の納屋に向かった。気休め程度に設けられた閂を外して扉を開ける。中は薄暗かったが、スコップは容易に発見できた。その中から雪掻き用のプラスチックでできたものを選び入り口に戻る。雪は昨日の夜に降ったばかりだったので柔らかく、さいわい十分ほどの作業で事足りた。地面は凍っていなかったから、このまま立て看板を置いても平気だろう。

 間山がスコップを納屋に戻し店内に入ると、香ばしいコーヒーの香りが立ち込めてきた。カップもすでに用意されている。勢田川はトーストを焼いているようだった。自分も厨房を手伝った方がいいと判断して、間山は手を洗うためカウンターの中に向かう。そして蛇口をひねった瞬間、はたと気がついた。一体誰のための朝食なのだろうか。

 急いで店内を見渡す。

 一番奥のカウンター席。そこには一人の老紳士が本を片手に腰をかけていた。

 老紳士は間山に気がつくと朗らかにほほ笑み、軽く会釈をする。間山もそれに応えるように頭を下げた。しかしそれは一瞬のことで、間山が再び老紳士に目線を配るころには、彼の眼は愛読書に注がれていた。ブックカバーをかけているためほんのタイトルは見えないが、文庫本にしては厚みのあるものだ。

 間山は手洗いに戻ると、むうと眉を寄せる。

 先ほどまで間山は店の入り口で雪掻きをしていた。当然誰かお客が来ればすぐにわかるはずである。ではあの老紳士はどうやって店の中に入ったのか。

 雪掻きの作業をしていた十分の間、間山は二回ほど入り口から離れている。むろん、納屋にスコップを取りに行ったときと、そのスコップを返しに行ったときだ。その間に入店したと考えられなくもないが、あまりに時間が短すぎる。間山が納屋と入り口を往復する間に、一度も見られず駐車場の入り口から店の入り口まで歩いたとは考えにくい。もし老紳士が百メートルを十秒前後で走れたとしたらそれは可能かもしれないが、そんな見込みの薄い確率に縋って納得できるほど、間山はおめでたい人間ではない。第一、雪掻きを始める直前まで店の入り口付近の雪には間山の足跡以外ついていなかったはずである。加えて、入店を告げるベルがまったく聞こえなかったことも無視できない。納屋にいたとしてもベルの音くらいは耳に届いたはずだ。

 結論。老紳士は店の入り口を使って入ったわけではない。

 となると、出入りに使うことのできる扉は従業員用の裏口だが、裏口には常に鍵がかかっている。扉を開けるためには内側から誰かに鍵を開けてもらうか、従業員が勢田川から預かる鍵を使って入店するしかない。しかし老紳士は見るからに従業員という感じではないし、勢田川が鍵を開けたとしてもなぜそんなことをするのかがわからない。後ろ暗いことがないなら、玄関から入ればよいではないか。もちろん人は見た目ではないというから、彼がいつの間にか雇われていた可能性を完全否定することはできないが。

 そこまで考えたところで勢田川から声がかかった。

「間山くん、これお出しして」

「はい」

 手洗いを念入りに済ませた間山は、できたてのモーニングセットを受け取る。それを慎重にトレンチの上に乗せていく。こんがり焼けたトーストとふわふわのスクランブルエッグ。卵の横には程よく塩気の効いた厚切りベーコンが湯気を立て、彩り豊かなサラダも小鉢に添えられている。モーニングセットはまかないとしては出ないので間山は一度も食べたことがないが、機会があればぜひ食べてみたいと思っている一品である。

 間山は最後にコーヒーを受け取り、老紳士の方へ向かう。そのとき、紳士の身なりが自然と目に入った。ベージュ色のスーツに棒ネクタイ。使い込まれた革靴はしっかりと手入れされている。年は勢田川と同じくらいに見えるが、見れば見るほどかっこいいという表現が似合う風体である。そして隣の空席には黒いコートとスーツに合わせた帽子が置いてある。また椅子の背もたれにはビニール傘がかけてあった。他のものがとても高そうに見える分、ビニール傘だけがどこか浮いて見える。

 すると間山は何か納得したように頷き、「お待たせしました」と声をかけながら、トレンチに乗せられたモーニングセットをテーブルに並べていく。最後の皿を並べ終わると、「ありがとう」とほほ笑む老紳士に向かって間山は口を開いた。

「昨日は飲み会でもありましたか? 木原さん」

 

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