第5話 君とコーヒーの気配(1)

 翌日は朝からアルバイトだったので、神崎に鍵を渡して早々に家を出た。しかし神崎も行きたいところがあると言っていたから昼間は退屈はしないはずだ。そう思いつつ、間山は厨房の掃除に勤しむ。

 大学三回生のこの時期、友人の多くは就活の準備に大忙しだが、早い段階で大学院に進むことを決めていた間山にとって、二月の初旬は比較的暇な期間であった。とは言っても学業に金は入用だ。間山は連日のように、喫茶『潮風』という古風な雰囲気の喫茶店でアルバイトをしていた。

 喫茶『潮風』を取り仕切るオーナーの勢田川は、掃除の時間になると店外に買出しに行く。本人はいつも決まって「この時間にいい卵が手に入るんだ」というが、掃除から逃げる口実であることは周知の秘密である。だいたい新鮮な卵を手に入れたいのなら、足を運ぶのは直売所でしかるべきだ。鶏が起き抜けにコケコッコーと騒ぎたて、養鶏業者をたたき起こしてつかませた朝一番の卵を手に入れるべきなのではないか。いい卵を仕入れに行く先が車で五分のスーパー『ささはら』の特売では格好もつかない。加えて言うなら、店長自慢の喫茶は周りを山々に囲まれ、潮風どころか強風ひとつ吹き付けない寒村めいた田舎町の一角に立つ。なぜ勢田川がこの土地で『潮風』などというみょうちくりんな名前の喫茶を営んでいるのかは不明だが、考えるたびに、勢田川という男はきっと阿呆なのだと間山は納得する。

 間山が厨房の床を磨き終えると、裏口から鍵を開ける音がしてきて、『ささはら』のレジ袋を抱えた勢田川が顔を出した。

「やぁ、間山くん。いつも掃除すまないね」

「無事のご帰還なによりですよ、店長。あとモップを洗えば終了です」

 勢田川は「それはよかった」と笑みをこぼし、買ってきたばかりの食材を業務用の冷蔵庫につめていった。その作業を見ながら、間山は小さく息をつく。勢田川は料理の腕とコーヒーを淹れる腕は確かだが、掃除だけがてんで苦手だ。冷蔵庫の中はもはやジャングルと化しているし、ほうっておくと使った鍋も出しっぱなしだ。皿洗いなどの基本的なことはできるのに、こと整理整頓となるとお話にならない。しかし、どこに何があるのかはきちんと覚えているのだから、おん年七十にしてその記憶力は脅威ともいえる。今まで店内の整理整頓は細君の手腕に頼るところが大きかったのだが、五年前に肝臓を患ってからは、もっぱらアルバイトを雇っているようだ。注意しようが細君が病に倒れようが、勢田川の掃除の腕は一向に上がらず、その強情たるや石の上にも三年どころの騒ぎではない。勢田川家は経済的には全く裕福ではないはずだが、喫茶『潮風』という風光明媚な名前が『ゴミ屋敷』と称されないためには、アルバイトもやむなしと細君が君命を下し、現在に至る。よって間山の仕事は接客と厨房の掃除という二翼にまたがっていた。今は店の掃除という大役を後進に譲り、療養に励んでおられる細君だが、事務所兼住居である『潮風』の二階からときどき顔を出しては、掃除の具合を事細かく確かめていくので、間山も気が抜けたものではない。

 といっても、『潮風』は客入りめまぐるしいとは言いがたく、常連客がほとんどだからモンスタークレーマーもいない。おまけに大変美味なまかないつきとなると、アルバイト先としてはありがたい限りである。

「間山くん、それが済んだら看板出すのお願いできるかな」

「わかりました。おすすめの書き換えはしなくていいんですか?」

「大丈夫。あ、でも雪が積もっていると思うから必要だったら雪掻きもお願いしてもいいかな?」

「了解です」

「スコップは納屋に入ってるから」

 温厚な面持ちで勢田川が答える。手にはピーマンが握られていた。視線を移すと、レジ袋の中にもまだいくつかのピーマンが顔を出している。

 間山が微笑する。今日のまかないはナポリタンに違いない。

 

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