第8話 兄貴的存在

 同じ階だと言っても、その人の部屋は玄関から真っ直ぐ伸びた廊下の端。俺の部屋はリビング先のバスルームを越えるから、俺に用がない限りここまでやってくる理由はない。


「何してんすか? 武田さん」

「あ、いや、ほら! 風呂上がり!」

「ふーん」


 101号室の武田さんは、そんなバレバレの嘘をついた。見たところ風呂上がりではありそうだけど、手にはビールを二缶持ってるし第一に俺の部屋の真ん前にいたんだから。


 男ってやつは嘘が下手な生き物かもしれない。


 カノジョに別れ話をした時、明里さんに生まれた気持ちを理由になんかしなかったのに、ついさっき家を突き止め待っていた元カノジョに、女と住んでたんだ、ひどい、嘘つき、でも別れるなんて無理だと玄関先で騒がれた。


「レオどっか行くとこだった?」

「あ、いや……ただ、リビングに忘れたブランケット取ってこようかと」


 さっきソファー脇に置いてきてしまったブランケットをそのままにしておいたら、それこそ武田さんがうるさいと思った。だから取りに行こうとドアを開けた、のに。


「とりあえずそんなの置いとけ!」

「は?」

「それより一杯付き合え、 な?」


 そう言いながら武田さんは俺の部屋に滑り込んだ。


 あの夜、明里さんとそうしたようにぶつけあったビール缶。相変わらずカコンと乾いた音がなった。


「レオ、お前大丈夫?」

「さっきのやつ聞こえてました?」

「まぁな」


 苦い記憶が炭酸に絡まって喉を通り過ぎる。


「……別れたんですけど、あの通りです」

「そっか、まぁ大変だったな」


 吐き出した事実もある程度の苦さを纏っていたけれど、この人がここまで来た理由が俺への心配からだと分かって嬉しかった。


「でも突然だった俺が悪いし、殴られても仕方ないですよ」

「殴られたのか?!」

「いや、たとえ殴られたとしても、です」

「あーはいはい」

「ただ庭先の木の葉っぱ投げつけられましたけどね」

「なんだそれ」


 二人の間に、どこからともなくやってきた可笑しさ。


「三上やカナコさんもいたのに、鞠さんに葉っぱむしっちゃダメって怒られました」

「ははははは、災難だったな」

「災難っすよ」


 短く笑ったすぐあとに、またあの缶底の苦い時間がやってきた。俺はまたあの夜と同じように躊躇いながら手の中の缶を軽く揺らした。


「……レオ、この前の夜」

「はい?」

「鍵忘れて屋上から入ろうと思ったって、二階に上がろうとしてた……あれ」

「はい」


 微かな動揺と緊張。

 それを誤魔化すために苦いビールを一気に口に放り込む。武田さんは弟を心配する兄貴みたいな顔をしながら口を開いた。


「明里さんと何かあった?」


 俺は一度だけゆっくり首を振ってみせた。


「何にもないですよ」

「そっか……悪い」


 嘘はついていない。

 あの日、募った気持ちが俺を思わず動かしたけれど結局なんの反応もないってことは、何も起きてないのと一緒なんだ。


 武田さんはそれ以上のことは聞いてこなかったけれど、部屋を出るときに優しさを置いていった。


『出張中の明里さんが帰ってきても、今日のことは言わないようにってみんなに伝えておいたから』

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